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於菟松は藁で作った駒のおもちゃを手にもちながら、父の話を聞いていたが、やがて目から大粒の涙を出したかと思うと、鼻からはふた筋の洟をだした。
「ウアー〜、ウア〜」 「こまったのしゃ。 こったら夜な夜な。母(かか)様のことさ、思いだして ・・・・。」 幸右衛門が懐から雑巾のようになった、ぼろ布をだして、於菟松の洟を ふき取ると。 「そったらことで・・・・・吾が武士(もののふ)の子といえねエどウ。 北辰の妙見サンが、オコッテきたらどうする。おっかネエドー。」 時をおかず、腕の中で寝込んでいる、吾が子の丸い大きな顔を 眺めながら、気仙村(現在の岩手県陸前高田市)のことを思い出した。そこに離縁した妻おはなと子供たちを残した。 於菟松の兄の、長作に、生まれたばかりの惣八をおいてきてしまった。 「母(かか)様をたすけて、きばれ」 9歳になっていた長作にあとを任せて、自身は於菟松を連れて出た。 もとはというと・・・・幸右衛門は久保田藩(秋田)の士官を断ったものの。しばらく馬医者として働いていた。その時、藩に仕官していた真庭念流をくむ若い剣術家に試合を申し込まれた時があった。 それだけ、幸右衛門の腕前も鳴り響いていた。 試合は木刀であったが、打ちどころが悪く相手が間もなく、亡くなった。 しかし、その兄でやはり真庭の使い手に追われることになった。 やむなく、伝手をたよって、仙台の一関藩、姉歯何某にたより、 一人の医者を紹介されることになった。気仙村の天満宮軒下を借りて、仙台一関藩の藩医がひとり開業していた。名を高田源養といった。 幸右衛門は名前も変えた。千葉玄養と改め、その弟子となった。 このころ東北には天然痘が蔓延していた。 一方それに対して、ロシアからの種痘法が、入ってきた。その方法といううと瘡蓋を粉にして鼻から拭きいれたり、皮膚に植えつけたりして、免疫をつくる方法であった。 世界的に見るとジェンナーが牛痘法を発見する前のことである。 多くの子供が生まれるが・・・多くが伝染病でなくなってゆく。 そんな時代に幸右衛門は医学を学んだ。漢方が主体ではあったが 同じころ、仙台藩にも藩医の養成所兼研究所が誕生している。 積極的に長崎からの蘭学も取り入れ始めていた。 幸右衛門にとってはこのときがインターンのような 時代になる、馬の治療や出産の世話をしながら、この医者の家で 多くのことを学んだ。 天然痘の流行で、この医者はロシア式種痘を子供に施した。 そのことが、やがて禍となった。 |

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