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信濃の秋も9月(新暦10月)になると,収穫を終えて,冬支度に入らなければならない.越後の秋はさらに短い.
雑兵にとっては,少しでも早く郷里に凱旋し,長い冬の準備に入りたかったに違いない.
謙信にとっても,時間がない.9年以上にもわたる.川中島の攻防は,信濃の覇権を決定する
重要な戦いであり,その点では関東の北条,東海の徳川家康,と甲斐の武田同様
京・大坂への要衝である,この地を譲れない.
標高500M程の妻女山から一望できる八幡原には,夕日が映えて,千曲川周辺の田畑の実りも一層の豊穣なる輝きを増していた.
日が暮れて,謙信はかがり火をたき,案山子を陣幕の内側にたてて,千人窪と呼ばれる象山の尾根筋近くに,千人あまりの兵を埋伏させてから,密かに下山を開始した.
雨宮の渡しから,千曲川をゆっくりとわたって行く,この時期の千曲川の水位は最も浅かった.
夜陰の中を,粛然と進む.謙信に応援を求めた,村上義清はじめ,信濃の武将は十分地理を
知り尽いしていた.
山本勘助は別動隊を率いて,西側斜面からの道を上っていった.
いずれからとも言えぬ矢の嵐,待ち構えていた伏兵は,姿を現さず,仕掛けてはまた別の場所から
ゲリラ的に出てくる.やがて夜が白みかけて朝となった.
幸隆が武田の,別一手を率いて,妻女山に足を踏み入れた時には,越軍のほとんどは
もぬけの殻であった. 八幡原をおおっていた霧が薄らいだは辰の刻(午前8時ごろ)であった.
謙信の進む前に,赤い軍旗が見えはじめた.同様に信玄の陣営からも
黒い軍旗「昆」が見えている. 妻女山で攻撃を受けているはずの
毘沙門天の一団が忽然と目の前にいる.
越軍の炊飯は三日に一度まとめて焚いて,干して蓄える.
北国の保存食技術がある意味では,武田にその動向をつかみにくく
していた原因であるともいえる.
信玄の鶴翼の陣が大きく翼を広げた,各軍の動きが早くなり法螺貝の響きに
戦端が切って落とされた.
謙信の車懸かりの円陣は槍衾を主体としてその周りをあわただしく,騎馬武者が
走りながら ,敵陣に切りかかる,翼の一部が敗れながら混戦状態となり初めた
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