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話をいったん、3世記のころに戻したいとおもいます。
まだ九州を中心に諸部族が小国を営んでいます。
九州全体で、20万人いるかいないかくらいのころです。
卑弥呼は辛うじて、その呪術で辺境の国くにを従えています。
やがて卑弥呼が亡くなり、弟が王位につきますが、国が乱れて
内乱で1000人ものひとがなくなります。
当時の状況で1000人も死ぬことは、収穫やいろんなものの
生産に影響します。
そののち、卑弥呼の縁戚の台代(いよ)があとを継ぎます。
このあと、中国は小国乱立し、隋がとういつするまでの間
中国の歴史書も少なく、日本はというと漢字がなく、紐や
縄を結んだもので、文字の代わりとしていましたから・・・
あとは口伝でしかありません。倭という国(倭奴国連合)
とクマソの国の連合体が対立していましたが、
台代(いよ)から何代か何世かの子孫に・・・日本武(建)尊
にあたる人物が現れます。
ここは歴史の空白ですから、想像の域を出ませんが・・・・
いきなりですが・・・戦前の学者で、倭武王(日本武尊)の研究者
が面白いことを書いています。 クマソにはインドネシア系グループ
と、モン族(中国では 泰族、あるいは苗族 あるいは雲南の倭族にちかい
ちなみにミャンマーではジンボー族またはシャン族)の系統で、
特にラオスから来たモン族(低地ラオ・高地ラオ別の言い方では
青モン、白モンに近い)が日本に流入し、住んでいたとの先行論文を書いています。
ラオスのモンは北部全域で最も多い少数民族で日本人のような顔つきをしています。
衣装、薬、生活習慣など独特です。 仲間意識が強く、仲間と他人に対する扱いが極端に異なる。
独自の文字も持っていました。これらの流入先住民または先住縄文人を攻めて
従えることに成功しました。このころには鉄器による剣を武器として、馬をそのアシとして
九州の原野を駆け巡ったに違いありません。
武(タケル)は女装してクマソの酋長の宴に忍び寄り
これを誅殺、併合して東征を始めます。
その時に、さらに技術集団、秦氏(北九州から中国にかけての豪族)の助けをかりて
いるはずです。この集団とは早くからつながっていたに違いありません。
各地の残る、徐福伝説はこの武(タケル)の東征にコースとしてはダブりながら
時空的にはそれに先行してます。秦の臣下で薬草調査を命じられた徐福は、
遭難し、日本の流れついて・・・日本を転々としながら、先住民を教化したという
伝説です。その時の一行は3000名の大船団だったことが中国の歴史書に
あります。 秦氏の子孫がもっていた漢字に書いた地理的な情報が武の東征を助けたのでは
ないかと・そうすれば・・武の大和建国が現実味をおびてこないでしょうか?
・・技術集団秦氏と天皇家はある一定の間隔をおきながら
聖徳太子の時代まで続くことになったのではないかと推測するのです。
写真:ルアンパバン ラオス
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