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小桜とトンボ柄をなぜ使うのか?
垂れに小桜または裏側に蜻蛉柄を使うのだが,
「花は桜木・人は武士」と言う言葉があり、桜の散る潔さを美しいと思う日本人の感覚から桜を裏革に使い、「蜻蛉」は別名「勝虫」と言われる様に決して下がらず、真っ直ぐに飛ぶ様も武士の縁起があったかは,担世一出から、裏革に使う様。
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小桜とトンボ柄をなぜ使うのか?
垂れに小桜または裏側に蜻蛉柄を使うのだが,
「花は桜木・人は武士」と言う言葉があり、桜の散る潔さを美しいと思う日本人の感覚から桜を裏革に使い、「蜻蛉」は別名「勝虫」と言われる様に決して下がらず、真っ直ぐに飛ぶ様も武士の縁起があったかは,担世一出から、裏革に使う様。
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幸村(信繁)にとって,人質時代はそれなりに学ぶところも多かったといえる,武田,上杉,豊臣に仕えながら
それぞれについて,築城,用兵,用間,其の他諸事政りごとに関して,大変な滋養を吸収する機会を得たと
いって過言ではない. 特に武田家の兵法では,軍略,地形,用間(諜報),上杉においては仁義,豊臣においては調略法(戦わずして勝つ)である. これらすべてを戦乱の表舞台にいた武将たちの膝もとにあって,体感し,身につけていった. その意味では,徳川家康も長きにわたって今川での人質時代をおくっている.後年それは家康の家臣団形成や江戸幕府構想の基礎になったといえる.
ただ,ここに特質すべきは真田家独自の強みというものがあった,それは各武将にとって,幸村を単なる人質ではなく重用するにたるものであった.それは,信濃衆の中でとくに訓練された透破(間者:乱破)すなわち草の者たちの存在である.それは幸村の祖父幸隆(海野幸綱)が大事にしていた組織であった.伊賀にせよ甲賀にせよ,山ぐににおいては,山仕事のほか,農業の限られ,産物も少ない中で,売れるものは山で鍛えた屈強な体であり人そのものであった.武田信玄もまたその価値を十分に理解していたひとりであった.信玄はさらにその怖さを熟知していた.各地に透波を放つと同時に,家臣が領内での僧侶・修験者.巫女などを宿泊させることを禁じた.武田信玄の馬印は「風林火山」であるが,これは孫子の兵法軍争編にある「其疾如風、其徐如林、侵掠如火、難知如陰、不動如山、動如雷霆。/其の疾きこと風の如く、其の徐(しず)かなること林の如く、侵し掠めること火の如く、知りがたきこと陰の如く、動かざること山の如く、動くこと雷霆(らいてい)の如し」から引用している。
当然のこと,その孫子の説く,用間(諜報間者を用いること)の法を積極的に取り入れた.
信玄の軍師,山本勘助は,武田・村上連合軍の信濃攻略によって土地を奪われた信濃衆の中に,伊賀・甲賀
に縁戚のある者たちや透破の訓練を受けた者たち(吾妻衆など)を味方につけることを提言し,そのように動いた.勘助が白刃の矢を立てたのは真田幸隆であった.幸隆は吾妻衆や甲賀につながる信濃衆にも
親しく人望があった. 幸隆にしてみれば,敵であり,土地を奪われた仇である武田の軍師.その勘助が
「三顧の礼」 すなわち三国志において,劉備が諸葛亮孔明を迎えた時と同様に,
説得を重ねてこれを求めた. このことは,秀吉は隣国美濃の軍師であった竹中半兵衛を獲得したことに奇しくも告示する.
各地を遍歴し,自ら軍略家として武田家に仕えた勘助にすれば,自分にない諜報を主とする副軍師として
幸隆を推挙しようとしたものであったが,信玄もまたこれを大いに喜んだ. 真田家が歴史の表舞台に登場した瞬間であった.
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