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一方,単身御館の帷幕を飛び出した勘助は,味方の武将の援護に向かったが,時をおかずして,気がつけば
自身も敵の輪の中に入っている.
このとき勘助は既に70歳近い老境にあった.
(幸いなり,わが死に場所を得たり)
勘助は自身の策した戦略が逆に見破られ,劣勢に立たされる現状を見るに忍びなかった.
最後の力を振り絞る.
越軍の雑兵が勘助を取り囲んだ.
勘助の鎧は武田軍にしては珍しく,黒糸縅の大鎧であった.
すでにその鎧だけでも,足の悪い勘助にはもはや負担であった.
「われは,武田の山本勘助である.ほしくばこの首をしんぜ賜らん.されぞ,鬼神となりて
上杉の兵は一兵たりとも,越後には返し申さぬ.ものども如何」
(幸隆があとを引き受けてくれるであろう.勘助にはこれまで,そだててきた,武田の特殊部隊
すなわち,ののうや草の者たちの一団を幸隆が守ってくれるであろう.ただ勘助の
心残りと言えば,四郎勝頼の行く末であった.
山本勘助については,実証史学の歴史学者によっては過小評価される場合が多い.
近年,山本菅助名の文が見つかり,子孫の系譜が出てくるに及んで,その存在が
実証された,また,その末流には太平洋戦争の立役者で海軍「山本五十六」がいる.
これは歴史の不思議と言わざるを得ない.
ただし,軍師という役割が,この当時明確な存在感をもっていたかどうか,かなり疑わしい.
例えば,織田信長に直属の軍師がいただあろうか.武士団の中に一人毛色の変わった武将を
探せば,滝川一益ということになるが・・・・この滝川一益は,織田の諜報を担当した人物で
その出自からは明らかに忍者集団の一員であった.一益は真田家とも深い関係を持つにいたる.
何れにせよ.信長にあって,この一益は軍師ではない.戦略は信長自身かなりワンマンに決定
していた可能性が強い.
では徳川家康はどうであろうか.古参の武将がそのブレーンを形成している.重役会議の組織をもって
いて,そこで決定された方針で動いている.
後に功績を建ている,伊賀服部半蔵も軍師ではなかった.
軍師という明確な存在感を持つのは,豊臣秀吉の軍師(竹中・黒田)に待つしかない.中国の三国志のように
諸葛亮孔明をはじめ,多くの軍師が熱弁をふるい,諸将を動かしていくことが,日本ではなぜ育っていかったのだろうか.あくまでも仮説ではあるが・・・筆者としては忍者集団という特殊部隊の発達と関連性が深いと考える.
中国の思想家(諸子百家)は,その理論と哲学を説いて有力諸候に認めてもらう.認められなければ,場合によって他の諸候に鞍替えする.そういう流動性があり,兵法家・軍師または兵法学者が職業として存在した.
日本では,この流動性が少ない.
しかし・・・・これから紹介する真田2代目,幸隆の末子昌幸(まさゆき)がそれをやった.
云うなれば,勘助は兵法学者であり,目立たぬ存在でありながら,影武者を操り,信濃統合の基盤を創り
四郎勝頼を育てた.
また特殊兵団のその基礎を創り,幸隆を軍師に育てようとした.ある意味では独立した権威をもった集団の育成
でもあった. 第4次川中島を多くの戦死者・両軍合わせて約7000名を出した,その戦死者の中に,信玄の弟,信繁がいた.
そして,山本勘助もいた. 勘助の首は,上杉の兵から,武田の兵が取り返した,
その首を洗っている小川に武将の胴体が流れてきたので,合わせてみると,ぴたりとはまった.
この付近には,勘助の墓と胴合橋の名が残る.
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2011年04月29日
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