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居合には、「守破離」というものがある。 特に流派によって、秘匿している技があったり、
また、古流においては、「お留流」として、僅かな関係者にしか教授しない流儀もある。
師匠がその素質を見込んだ弟子にしか、教えない技があった。忍者にも秘匿の術が
あって、竹刀剣道にも取り入れられるものは山ほどあるが、実に研究者は少ないといえる。
産業界においては、東大阪や東京大田区の中小企業の持つアイデアや技術も継承する
人材がなく、場合によっては、廃業とともに消えていくことも多いだろう。
文化や技術の伝承というものは、常に教理(教本)と解釈の問題に挟まれてきている。
時代背景もまた、その解釈のあり方を変えてゆく要因となる。
仏教界にも、その典型的な推移をみる。中世密教から近世の大衆仏教に至る経緯にあっても
大変な解釈論の戦いがあった。 法然上人はその一枚起承文の中で、こう言い残す。
「(自分の死後)滅後の邪議を防がんが為」に。
弟子たちがどのような解釈をして対立するかも知らないので、自分が解いてきた、大衆仏教
のとっとも大切な部分、その心を書留て置かなくては、往生出来ないとの思いが文章には
あふれている。 女、子供であっても、学問が無くても「南無阿弥陀仏」の前に、平等であり
なんぴとも救われ、往生をとぐことが出来るとの解釈を広げていってほしいとの願いである。
こう書いてくると・・・ 自己矛盾 すなわち、誰でもが読んでわかる剣道形を作れば
いいではないか、そのために教本があるという考え方、 いやそれだけでは邪義が横行するので
師匠からキチンとした、血肉のある剣道形を口伝すべしとの考え方の対立である。
自己矛盾があっても・・・その中に教理そのものを平面でとらえているか、立方体としてとらえているかの
解釈に違いがある。教本の在り方そのものが悪いわけではない。
弟子たちも時代の流れとともに変化し、生きていく。それこそが生命のつながりであり、無形文化の
伝承主体である。それを平面的な教本で縛るようなことはいけないとおもう。
事実、武士の時代が終わりをつげ、各地の興行場所(見世物小屋)で行われた、激剣の各流派から
代表者が出てきた、帝国剣道形がでてきた。戦後それがさらに修正されて日本剣道形になる。
今後これが変わることはないのであろうか。
もしその過程において、大事なものが退化していまっているとしたらどうであろうか?
もともと呼吸法、(直新影・法定・運歩など)、打ち太刀と仕太刀の呼吸の合わせ方、間合いの合わせ方
それがどれほど反映されているのだろうか?
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2012年10月19日
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マニュアル通り形を打っていて落とされることがありますか?
という質問があったら
私はこう答える。「落ちることあると思います。」
形が誰でも習得できるようにと、教本には指導の注意点が書かれいても
私は言いたいのである。 たとえば、機を見てとか、気剣体の一致とか
いっても、教授側にそのあり方や教え方に、個人差がないだろうか。同時に
生徒側においても、それを理解する力が同じだろうかと。
師匠と弟子の呼吸の合わせ方や足運び、気勢、 間合いを積もること、など
本来それらを習得するために作られているのに、むしろ形、そのものを覚えるのに
相当のエネルギーを費やしているようにおもえる。
実はそれを習得してさらに、実用的な、応用に入らなければならないのに
それを自得しようと考えている初心者がすくないのではないか。
居合形の12本(制定)を覚えるのに、細かいことは言わず、ひたすら形をおぼえさせ
それから後に、それを少しずつ修正していくのが通例であろう。 最初は
相手を切り倒してのち「憐憫の情」を表すどころのはなしではない、
刀の持ち方からのレベルなのである。
ABCのどこから教えるかという問題もあるが、師匠(教授側)が剣道形を単なる
基準教本として読みながら、教えるのでは間に合わない。
師匠がそれを自分のものとして、自得していなければ、血肉を添えて
教えることはできない。 剣道形という日本文化の伝承と、その神髄はやはり口伝される
べきものであろう。
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