不刀 庵 閑話 シーズン2

剣道の故きを温ねて、新しき人生を知るブログ

無くて七癖

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 腹蔵なくしゃべる、江戸っこにはない、人懐っこさ。
佐那にとっては龍馬のカラッとした大きさが目立つのであった。
事実、土佐人の気質はひょうきんで・・
どこか隙のある、男らしさであり、そのパーフォーマンスと
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見せ方はどこの地方よりも群を抜いている。
その裏表のなさをを見せる。あるいは本当に裏表がない。
 
この部分がどこからくるのか?
捕鯨を主とした、共同作業がその土壌を生んだとの説
山と平野部が狭いために、自然に農業と漁師の
結び付きが強く、物々交換的な自由取引も多かった。
その裏表のなさに佐那はひかれていった。
 
一方、
佐那の薙刀(なぎなた)は「鬼小町」と呼ばれる切っ掛けとなった。
幼少から鍛えたその技と勢い、ひとかどの男といえども手に負えない。
 
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 黒船を見てからの龍馬は、とてつもないカルチャーショックに襲われている。
土佐人としての海洋民族の血が騒いでいる。
 
 「あレバーの太い 舟に大砲ば積んじょったら、刀がなんちゃ使いモンになりゃせんろう」
 
 龍馬は夜も寝れなかった。日本がやられる。自分は剣の修行だけしとっていいものであろうか?
 日本人のこのころの平均寿命は驚くほど短い。
 
 寝ぼけた頭で、翌早朝に龍馬は稽古に出た。一人長刀を持った少女が近づいてきた。
師範の重太郎の妹、佐那であった。 いわゆる異種稽古であった。
佐那は道場の切り盛りやほかの稽古事も多く、稽古は毎日というわけではなかった。
この年、重太郎は鳥取藩の馬回りとして仕官していた。
自然、佐那も忙しくなった。道場を守っていかなければならない。
道場主 定吉も体調を崩していた。
ほとんど重太郎が道場の指導にあたっていた。 
本家お玉が池も代が移り、道三郎が指揮をしているが・・・おとなしい仁徳の士で
ブレーンとして良い人材はそだてていたものの、マリスマ性に欠けていた。
この時、重太郎の名声は結構江戸では有名であった。
佐那は色白で、顔は丸く、眉毛が少し目立つ、童顔であるが凛として美人の誉れが
高い。この時まだ16歳で、顔には少しニキビがあった。
佐那の指示で、脛あてをつけさせられた龍馬は、長刀に対する、ある種の
病的なトラウマを感じていた。それは姉、乙女の長刀が原因かもしれない。
(長刀はちーと苦手じやき。)
そう思いながら、指導者としての存在感を持ち始めている、少女にたいして
参りましたと断るわけにもいかぬ。
龍馬は剣を交えた。
 
最初は龍馬の繰り出す、力任せの剣に少したじろぎながらも、
龍馬の息が乱れ出してからの佐那の繰り出す、長刀の切っ先はいずれも
たがわず命中する。突きを入れると同時、体を入れ替え、手を持ち替えた
脛をはたった。甲高い竹をはじく音が道場に鳴り響いた。
 
「参りました。」
龍馬は声を張り上げた。 19歳の龍馬が面目を保つためにはむしろ、
そういうほかはなかった。
重太郎はにただにこにことほくそ笑んでいるだけだった。
 
佐那は静かにそんきょをする。
 
練習が終わって、龍馬が井戸端で汗を拭いている。
剣友たちが、いった。
「龍馬、お佐那様の突きは気持ち良かったか?」
「てんご イイナヤ。あればのハチキン、江戸にいるとは思わなんだき。
しかもー。こじゃんと太い足で、踏み込んでくるき、ホラー。たまーるか。
土佐の姉ヤンを超えちゅう。」
「おい。」
剣友の顔が一瞬強張っかと思うと・・・道場の入り口へ目線をそらした。
入り口で、佐那が睨みながら・・・
「太くありません。 足を見てもいないのに。 」
「ア、えらいことを−−−−。」
龍馬は背を丸くすると、頭をかくそぶりをした。
 
 
 
 
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実際には、万次郎と龍馬はすれ違いが多かった。
たがいに時代にほんろうされ続けた。そして時代はそれぞれに過酷であった。1852年
万次郎が土佐に戻ってきた時も龍馬は知るすべもない。
 
龍馬の世界観はこのときまだ、田舎の攘夷論に同調する程度でしかなかったであろう。
翌年、お互い、江戸に行くこととなって、嘉永6年(1853年)、
江戸という幕府のお膝もとで、いながら会うことがなかった。
「漂流ばして、10年ば外国にいたそうな」
土佐藩邸にいったとき、噂にきいいてはいるものの、出会った可能性は少ない。
このとき万次郎は、通詞となり直参旗本待遇となっているので、
屋敷もあてがわれたことであろう。
万次郎の世界は大きく変わった。
アメリカからハワイへ、ハワイから、琉球(沖縄)、薩摩、そして長崎、土佐、最後に江戸となった。
薩摩の待遇がよかったものの、長崎のお白州で取り調べを受けた立場からの、コペルニクス的
出世である。それだけ幕府がほしい情報を万次郎は持っていた。
 
ただ、河田小龍にも学んだが日本語(漢字)や江戸の侍言葉を彼はこのころ、
猛勉強をせざるを得なかった。 それはアメリカの学校での自由な勉強とは
うって変って、必要に迫られる部分も多かったであろう。
彼の偉いところは、日本語の知識をリカバーしながら、辞書の作成や翻訳にも
果敢に取り組んでいったことであろう。 それは日本の近代化への戦いでもあった。
 
龍馬はこのころ、小千葉道場でしごかれ、日々剣道の修行にいそしんでいた。
剣道の練習は早い、早朝稽古が主流。住み込みもいるが、地方の留学生は
藩の上屋敷または、自費で借り上げた家から通っている。
 
沿岸警備の要請はここ桶町の道場にも来ていた。
「黒い大きな船が、来てるそうだ。」
重太郎は龍馬にいった。
 
「へー、上陸して攻めてきますろうか?」
龍馬にとっては、異人とたたかって、その首をとることを
思い浮かべると、武者震いする場合もあった。
 
このときの気持ちを、国にいる乙女(おとめ)に書き送った。
 
黒船に出会ったとき、龍馬のこころに、刀の世界とは違うもの。
大砲を持つ船の威力、もくもく黒煙を上げながら、開国を
迫る力、それは世界の産業革命の力であったし、
浦島太郎に用意された、玉手箱であった。
 
 
 

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激しい変化、新しい環境に立ち向かう力。
現在は高知人の特質を、男であれば「いごっそう」
女であれば「はちきん」ということでくくって
しまうが・・・男っぽいとか男らしいとかいうことであるが

仕事柄多くの高知の方々と知り合うことができたのであるが
私は、「いごっそう」ほど土佐人の気質をうまく表現していないものはないと考える。
むしろ「あっけらかん」とした感じが強い。
芯の強さがあまり外に出ないが、相当にある。
コメデイアン 間 寛平 さん
広末涼子さん なんとなく 感じませんかね?

とくに親しい人と会話をするときに常に、カラかいながら、友情を交換し、
その言葉には滑稽な余韻が残る。ユーモアがあり、明るく人を傷つけない。

高知は現在も老人県のひとつで、80歳近いおじいさんが酒を飲みながら、73歳のおばあさんを口説く。こんな人たちを私は、他の地域の風土でみたことがない。
哲学的にいうと実存主義者が多い。考えを行動に移し、しかも大胆に太く行動することをいつも考える。
この気質は同じ四国でも阿波商人たちと一線を画するものである。
岩崎弥太郎の場合は、その商売の下積みが長かったことと、繊細な
「いごっそう」がうまくかみ合った。それが彼を政商に育てたのではないか。
と考える。 物事をいつも、ポジテイブに考える。黒潮の恵みを受けて
明日を心配しない楽天的な気質が生まれたとも考えられる。
豊かな海と山が、改革的な気骨と行動力を育てた。
ジョン万次郎と龍馬の場合
両者の共通項は人間愛であろうか。世話好きで、人を毛嫌いしない。
土地の人間として平等に付き合い。戦いが始まれば
一領具足を畑の小屋から引っ張り出して、馳せ参じる。
もともとの気質は野武士の気質であった。
彼らは、農民であり漁師であり武士であった。その気風がどこか土佐人に流れている。
土佐清水には宿毛湾があって、だるま夕日というのが現れる、これは全国でも珍しい。
これは海が穏やかで、晴れていると空気が澄んでいるために、波に夕日の底辺が触れると同時に、だるま夕日(ダブル夕日)となって燃えるように赤く見える。
だるま夕日・・・・・
ジョン万次郎と龍馬の心意気がちょうど、鏡のように反映し、一対の火の球と
なって、時代をリードし、ナビゲートしていったといえる。



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 余談になるが、ジョン万次郎を助けた船はジョン・ハウランド号といって捕鯨船であった。
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船長ホイットフィールド以下、太平洋のみならず、7つを海を賭けて、商業捕鯨を行っている
船であった。オランダに出遅れたもののアメリカは捕鯨によって、鯨油を獲得し
外貨を稼いだ。石油がまだ利用されていない時代、鯨油は貴重な産業資源であり
エネルギーであった。
黒船が開国をせまった理由。
このエネルギー獲得のために
日本という、東アジアの中継地点であり、エードステーションの獲得は、太平洋の
商業捕鯨の折り返し地点のハブとして有用であった。
 
また、マッコウクジラというもっとも良質の鯨油がとれるクジラの
あつまるところの一つにマリアナ海溝がある。
大王いかなどの餌が豊富にあるからである。
 
小笠原諸島の鳥島もその航海上に存在する。
ジョン万次郎は仲間4人とともに、ここに漂着し
143日間、飢えと戦っていた。
 
今日の情勢において、反捕鯨に回っている国々が実に
おおくの鯨を油だけの利用で、肉という食糧を捨てた。
アメリカやカナダ・ノルウエーのイヌイットなど
原住民生存型捕鯨を容認しているが、
日本の捕鯨もそれに当たる。
 
規模については、調査をして限度を国際的に
定めていくことは、賛成であるが、
石油がとれたから、捕鯨に反対するのは
あまりにも無理があるであろう。
 
商業捕鯨が欧米によって拡大し、
産業革命が軌道に乗り、農業プランテーションの
拡大には労働力が必要であった。
アフリカのある国に武器を最初は安く売り、
対立する部族を攻撃し、他の諸部族を従え
国家を創り、奴隷を生み出す。
その国家はさらに多くの大砲などの武器を
購入しようとする。その対価として
従えた部族を奴隷としてもらいうける。
その奴隷がアメリカ大陸や南米へと高く
売られていった。
19世紀当時貿易品目としての奴隷と労働市場が
現在の民族問題の多くを生み出している。
アパルトヘイトはその統治システムの
ひとつであった。
 
グローバリゼーションの中に存在する
エゴイズムや侵略のメカニズムこそは欧米が
考え出したものであろう。
少なくても、鎖国時代の日本にその
コンセプトはなかった。
織田信長は西洋を利用しようとした。
豊臣秀吉には西洋が怖いものでしかなかった。
徳川家康は外国を知る手段として、一部の外人(三浦按人など)
を優遇し、キリスト教の侵略パターンを研究していたといえる。
島原の乱はそのようにして生まれた。
ある意味では・・・虐殺であるが
国家としては、植民地化を免れた。
商業に専念するオランダのみを優遇したことは
ある意味では幕藩体制の安定に寄与した。
吉宗は享保の改革で、蘭学も保護し、外国書物の
取り入れも奨励した。
このことが、国際化の孤立を免れた。
医学については遅れていたものの、
種痘法などは、ジェンナーよりも早く発見していた。
麻酔なども「華岡青洲」において明らかであろう。
 
いずれにせよ、この商業捕鯨を援護するアジアの拠点づくりこそが
アメリカの目的であった。
(現在の防衛拠点としての日本の価値はこのときから変わっていない)
高知県(土佐藩)のふたり、一人は貧しい漁師、一人は富裕な下士。
ジョン万次郎も坂本竜馬も、このアメリカの欧州化と積極的な商業政策によって
大きくその人生を変えることになった。
 
 
 

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