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龍馬が江戸で修行していた頃、もともと持っていた海外情報というのは
どのような程度の情報であったか。
たとえば、どんな国があって、どんな人たちがどのような国のシステムで生活をしているか・・・・
もちろん大半の人は詳しく理解していない時代であろう。
アメリカの情報は一部、当時の琉球を通じて薩摩にもたらされていた。
東インド艦隊がすでに寄港していたからである。
イギリスの船を偽ったり、1840年代には多くの外国船が立ち寄り
交易を求めている。
しかし、その当時まだ、アメリカについての情報は少ない。
アメリカのほうは、新興国で日本との交易のあるオランダを通じて
開国を打診していた。外国の情報それ自体、
一部の人たちだけがその情報を得ていた。
また、当時の幕閣の中でも薩摩の島津斉彬のような情報通は
むしろ少数派で、300年の太平の弊害として、保守派官僚が
大勢を占めている。
薩摩同様、土佐にとってはこの時代、もっとも大きな情報源が
現れたこと。それがその後の日本を変える原動力となった。
産業革命、近代化への黎明は、一人の男の漂流に始まる。
偶然、まさしく歴史の偶然としか言いようもないが、
ペリー来航の2年前、漂流しアメリカの捕鯨船に助けられたジョン万次郎(中浜万次郎)が帰国した。
アメリカの上海行きの商船に乗り込み、持ち帰った小舟で琉球についた。
薩摩、長崎での取り調べを受けるが、鎖国時代としては、国外へ出ること自体が禁じられて
いた。当然帰国についても、厳しい取り調べを受けた。琉球の港から、薩摩、長崎奉行所をへて、
国外から帰った万次郎に、英雄的な歓迎はまっていなかった。
むしろ場所を変えて、同じことの繰り返し。長崎奉行所では18回取り調べ(お白州)をうける。
万次郎は幼くして父親を亡くし、寺子屋にも行けず、読み書きができなかった。
加えて、その後彼の受けたカルチャーショックの落差は、かれの脳裏から母国の土佐弁さえも
忘れさせていた。
土佐では、河田小龍が取り調べ官となって取り調べは70日に及んだ。
時の藩政を任せれていた吉田東洋は、弟子でもあった小龍を呼んで言った。
「おマンに来てもろたがは、ほかでもない、うわさに聞いちゅうったと思うが、清水の中の濱の万次郎というがは、漂流して、アメリカの漁師に助けられて、10年ば、鯨をとって世界ば回ったと。けんど、いまひとつ、言葉がわかんで、 薩摩や長崎でもなんちゃ裁きができんかったき。たんだ、島津公からは大事に扱えと。船のことや、
外国のことに、こじゃんと知っちゅうそうぜ、役にたつろう。」
河田は自身も興味をもって引き受けた。
ジョン万次郎の英語(米語)は当時の最高レベルであったろう。
万次郎は現地米国で航海術や造船の勉強をして主席で卒業しているから。
日本語(土佐弁)よりも英語で話すことのほうが早かった。
取り調べて行くうちに、小龍は、その価値の大きさに内心湧き上がる興奮を抑えきれなかった。
許可をえて、彼を自宅に連れて帰って、同じ蒲団で寝ながら、話をもとに、挿絵を加えながら
まとめていった。
嘉永6年の初め、万次郎が故郷の中の浜(土佐清水中浜)に帰れたのは、琉球に到着してから1年半以上もたっていた。
この間、龍馬との出会いがあったかどうかは、定かではないが、小龍の報告書を
つうじて、アメリカの事情を知るには、今少し時間がかかったことであろう。
龍馬は江戸で修行し始めたころ嘉永6年、海岸警護に狩りだされ、そこで、黒船に出会う。
文字通り 「太平の眠りを覚ます上喜撰、たった4杯で夜も眠れず」
いうありさまであっただろう。
大砲が鳴り響くと幕府は役人は半ば錯乱状態になったはずである。
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