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幸隆が八幡原に到着した頃には,誰の目にも越軍の優勢は明らかであるように見えた.
幸隆にすれば,思っていたことが現実になっていることに口惜しいと思う反面,自身の兵法が
間違っていなかったという,どこか優越感にも似た,相反する気持ちが存在するのであった.
その兵法は勘助から学んだことと自身が磨いてきたことの集大成でもあった.
「勘助どのが危ない,上杉の後方を取り固めよ」
馬上から号令しながら,武田の鶴翼の陣を後方より広げ,逆の鶴翼で上杉の軍を包囲しはじめた.
しばらくして,上杉謙信は兵を曳きはじめた.後方の脅威は,膠着していた戦場の状況を一変し始めた・
これこそは,勘助がもともと考えた策であり,前方,後方の鶴翼によって上杉越軍を一網打尽に打ち取ることは
勘助の描いた勝ちパターンであった.このとき勘助は,すでにこの世にいない.
謙信は戦場に放生月毛を打ち捨てた. 月毛の淡い乳白色は,槍傷によって既に鮮血に染まっている.
このまま,乗り続けることは,愛馬放生月毛を殺すことになる.あえて武田の戦利品にすることで,
愛馬は生きながらえる. 事実,この月毛は武田の武将によって再生した.
謙信は武田武将の首実検をすませた後,全軍に越後転身(撤退)を号令した.
その中に勘助の首はなかった.
世に言う川中島の顛末であるが,この後,第五次川中島を入れると,まさに10年におよび
激突があった. ついにこの竜虎の対決に決着がつくことがなかった.
関東の北条の動きもある.
信長・家康の連合軍は既に,東海・近江を掌握し,京を取りまく,周辺の反対勢力を除きつつある.
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歴史探索
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一方,単身御館の帷幕を飛び出した勘助は,味方の武将の援護に向かったが,時をおかずして,気がつけば
自身も敵の輪の中に入っている.
このとき勘助は既に70歳近い老境にあった.
(幸いなり,わが死に場所を得たり)
勘助は自身の策した戦略が逆に見破られ,劣勢に立たされる現状を見るに忍びなかった.
最後の力を振り絞る.
越軍の雑兵が勘助を取り囲んだ.
勘助の鎧は武田軍にしては珍しく,黒糸縅の大鎧であった.
すでにその鎧だけでも,足の悪い勘助にはもはや負担であった.
「われは,武田の山本勘助である.ほしくばこの首をしんぜ賜らん.されぞ,鬼神となりて
上杉の兵は一兵たりとも,越後には返し申さぬ.ものども如何」
(幸隆があとを引き受けてくれるであろう.勘助にはこれまで,そだててきた,武田の特殊部隊
すなわち,ののうや草の者たちの一団を幸隆が守ってくれるであろう.ただ勘助の
心残りと言えば,四郎勝頼の行く末であった.
山本勘助については,実証史学の歴史学者によっては過小評価される場合が多い.
近年,山本菅助名の文が見つかり,子孫の系譜が出てくるに及んで,その存在が
実証された,また,その末流には太平洋戦争の立役者で海軍「山本五十六」がいる.
これは歴史の不思議と言わざるを得ない.
ただし,軍師という役割が,この当時明確な存在感をもっていたかどうか,かなり疑わしい.
例えば,織田信長に直属の軍師がいただあろうか.武士団の中に一人毛色の変わった武将を
探せば,滝川一益ということになるが・・・・この滝川一益は,織田の諜報を担当した人物で
その出自からは明らかに忍者集団の一員であった.一益は真田家とも深い関係を持つにいたる.
何れにせよ.信長にあって,この一益は軍師ではない.戦略は信長自身かなりワンマンに決定
していた可能性が強い.
では徳川家康はどうであろうか.古参の武将がそのブレーンを形成している.重役会議の組織をもって
いて,そこで決定された方針で動いている.
後に功績を建ている,伊賀服部半蔵も軍師ではなかった.
軍師という明確な存在感を持つのは,豊臣秀吉の軍師(竹中・黒田)に待つしかない.中国の三国志のように
諸葛亮孔明をはじめ,多くの軍師が熱弁をふるい,諸将を動かしていくことが,日本ではなぜ育っていかったのだろうか.あくまでも仮説ではあるが・・・筆者としては忍者集団という特殊部隊の発達と関連性が深いと考える.
中国の思想家(諸子百家)は,その理論と哲学を説いて有力諸候に認めてもらう.認められなければ,場合によって他の諸候に鞍替えする.そういう流動性があり,兵法家・軍師または兵法学者が職業として存在した.
日本では,この流動性が少ない.
しかし・・・・これから紹介する真田2代目,幸隆の末子昌幸(まさゆき)がそれをやった.
云うなれば,勘助は兵法学者であり,目立たぬ存在でありながら,影武者を操り,信濃統合の基盤を創り
四郎勝頼を育てた.
また特殊兵団のその基礎を創り,幸隆を軍師に育てようとした.ある意味では独立した権威をもった集団の育成
でもあった. 第4次川中島を多くの戦死者・両軍合わせて約7000名を出した,その戦死者の中に,信玄の弟,信繁がいた.
そして,山本勘助もいた. 勘助の首は,上杉の兵から,武田の兵が取り返した,
その首を洗っている小川に武将の胴体が流れてきたので,合わせてみると,ぴたりとはまった.
この付近には,勘助の墓と胴合橋の名が残る.
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八幡原を唯、傲然とつきぬけようとする赤い集団が数騎あった。
「どけどけー。山本勘助である。 どけー」
まるでそれは海割れのように、一条の路が開けていくのであった。
それほど、疾風のような速さであった。
本陣に辿りついた。勘助は、正面の楯無の武者に会釈すると同時に、右脇にいた武将に
言った。
「我が軍の動きことごとく、見破られてございます。口惜しょうござりまする。
勘助一生の不覚にて、このお上は謙信を差し違える覚悟にて・・・・」
武将が立ち上がって言った。
「是非もなし、太郎をたすけよ」 太郎とは武田義信のことであった。
右側にいた武将こそ、信玄であった。
「御館様・・・承知つかまつりました。 御免。」
と言うが早いが片足を引きづりながら、戦場へと消えていった。
その経緯を見ていた謙信は、影武者の存在を見破った。
「 目指すは信玄殿の首一つ」
坂を駆け下りると同時に 2尺4寸の太刀、「姫鶴一文字」を抜き放つ。
謙信の太刀には鍔が無い、細身の長刀。本陣深く、飛び込んだ武将が
敵の大将謙信とは、武田の兵も気がつかない。
風のように、現れ、正面の武将に切り付け、手ごたえのある一撃を
浴びせたかと思うと、右わきの信玄めがけて、九つの渾身の
太刀は、力強く放たれる。信玄は軍扇にてこれを受けながした。
やがて、武田のひとりが槍をもって、馬の三頭(お尻の高いところ)を突き刺した。
放生は二本足で立ちあがると、大きくいなないた。
「ヒヒーン」
去るときもまた,謙信は風のようであった。
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数に勝る越軍は鶴翼の裏側に回りははじめた.
武田の赤備えの騎馬諸将が撃をとばすも,体勢は容易に戻ることがなかった.
越軍黒備えの一団が本陣旗本に切り込みはじめた.
山本勘助が妻女山の伏兵に翻弄されているとき,一人の伝令が馬に乗ってきた.
背中には折れた矢が一本突き刺さっていた.
「申し上げます.御館様本陣前に上杉全軍が迫っておりまする.急ぎ八幡原へ」
片目である勘助の瞳が張り裂けんばかりに開いたかと思うと
「すわ,一大事,たれか,幸隆にも伝えよ」
というが早いか,馬上の人となった.
勘助が八幡原に差し掛かった時には,巳の刻(午前10時ごろ)を過ぎていた.
幸隆は山の伏兵をそこそこに,しんがりを守りながらそのあとを追った.
もしこの武田の別働隊の到着がおくれていたら,日本の歴史はどうなっていたであろうか.
上杉が関東の覇者として,北条を抑え,京都の中原に出てきていたかもしれない.
一方武田本陣には,3人の武将がいた.中央に白熊毛の兜に,八幡太郎以来の家宝楯無の大鎧を付けた武将.両脇にも赤糸縅の大鎧に身を包む武将がいた.
にわかに,信玄のもとに伝礼が次々にやってくる.
一人左脇を固めていた武将が立ち上がり,中央ではなく右端にいる武将に配礼をした.
「兄上,それがしの出番でござれば,ご免」
というが早いか,中央の武将にも一礼して幕外に姿を消した.
信玄の周りには影武者が多い.いずれが誰なのか
検討もつかない.
この様子を小高い丘から眺めている武将がいた.
白い僧頭巾に蒲団鉢巻,馬はひときわ目立つ色で,緋の回しを付けている.
しかし,所謂白馬ではない.
この馬の名は,放生月毛(ほうじょうつきげ)毛並みはつややかにして,所謂月毛(クリーム色)
である,ここでいう放生は仏教の殺生戒を表す用語で,その昔,渡来人が縄文土着民の反乱を
鎮圧し,殲滅した民の魂,すなわち無辜(無実の罪で死んだ)の人々の怨霊を鎮める為,,生きもの(鳥や魚)逃がすことを放生(ほうじょう)といった.宇佐八幡などでそれが儀式化し,同音の豊穣(ほうじょう)と結びつき,今日,若狭小浜の放生(ほうぜ)祭にその名残をのこす.祭りの中でも神輿を担ぐ神官の衣は黄色であり,
秋の夜空に掛る満月の色を表す.
名馬の名はその月の色にちなんだものといえる.また騎乗の人はまさしく不識庵謙信であったならば,
義のために戦う,それ以上の無駄な殺生を欲するものではない.愛馬,放生(ほうじょう)にも,この乱世に
あって平穏浄土を求める願いを託すのであった.
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信濃の秋も9月(新暦10月)になると,収穫を終えて,冬支度に入らなければならない.越後の秋はさらに短い.
雑兵にとっては,少しでも早く郷里に凱旋し,長い冬の準備に入りたかったに違いない.
謙信にとっても,時間がない.9年以上にもわたる.川中島の攻防は,信濃の覇権を決定する
重要な戦いであり,その点では関東の北条,東海の徳川家康,と甲斐の武田同様
京・大坂への要衝である,この地を譲れない.
標高500M程の妻女山から一望できる八幡原には,夕日が映えて,千曲川周辺の田畑の実りも一層の豊穣なる輝きを増していた.
日が暮れて,謙信はかがり火をたき,案山子を陣幕の内側にたてて,千人窪と呼ばれる象山の尾根筋近くに,千人あまりの兵を埋伏させてから,密かに下山を開始した.
雨宮の渡しから,千曲川をゆっくりとわたって行く,この時期の千曲川の水位は最も浅かった.
夜陰の中を,粛然と進む.謙信に応援を求めた,村上義清はじめ,信濃の武将は十分地理を
知り尽いしていた.
山本勘助は別動隊を率いて,西側斜面からの道を上っていった.
いずれからとも言えぬ矢の嵐,待ち構えていた伏兵は,姿を現さず,仕掛けてはまた別の場所から
ゲリラ的に出てくる.やがて夜が白みかけて朝となった.
幸隆が武田の,別一手を率いて,妻女山に足を踏み入れた時には,越軍のほとんどは
もぬけの殻であった. 八幡原をおおっていた霧が薄らいだは辰の刻(午前8時ごろ)であった.
謙信の進む前に,赤い軍旗が見えはじめた.同様に信玄の陣営からも
黒い軍旗「昆」が見えている. 妻女山で攻撃を受けているはずの
毘沙門天の一団が忽然と目の前にいる.
越軍の炊飯は三日に一度まとめて焚いて,干して蓄える.
北国の保存食技術がある意味では,武田にその動向をつかみにくく
していた原因であるともいえる.
信玄の鶴翼の陣が大きく翼を広げた,各軍の動きが早くなり法螺貝の響きに
戦端が切って落とされた.
謙信の車懸かりの円陣は槍衾を主体としてその周りをあわただしく,騎馬武者が
走りながら ,敵陣に切りかかる,翼の一部が敗れながら混戦状態となり初めた
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