|
川中島合戦碑
「鞭聲(べんせい) 肅肅(しゅくしゅく) 夜 河を過る,
曉に見る 千兵の 大牙を擁するを。 遺恨なり 十年 一劍を磨き, 流星 光底 長蛇を逸す。」 頼山陽はこの第4次川中島の一戦をこのように詠った.永禄4年(1561年)8月の中旬越後より進軍した謙信は家臣がこぞって反対するなか,敵陣の奥深くの千曲川をわたって妻女山に陣を敷いた.その軍勢13000,対する信玄は8月下旬対岸に陣を挽いたあと,千曲川をわたって,海津城に
拠って対峙した. その数20000.数において,上杉勢を上回っている.
勘助と幸隆は別働隊を率いることになった.本陣は8000,別動隊12000は勘助の作戦である
「啄木鳥(きつつき)の策」を展開する.千曲川を背後とすれば,山の東脇と南正面からの
追い出し作戦で,八幡原(千曲川と犀川の間にある川中島の平野部)にて本隊旗本の牙旗,
「風林火山」が待ち受けているはずであった.
謙信も間者をつかっていたであろうが,その関連を示す資料は少ない.ただ自らを毘沙門天
の化身といって憚らなかった.その日常においても,真言密教に深く帰依し,武士であるというより
も僧侶としても,終生女人不犯を貫いた. 今日でいえば,そのカリスマ性のおいて,群を抜いている.
おそらくは,宗教家としての説得力によって,その家臣を束ね,共に死ぬ覚悟を抱かせる力において
他の武将にないものをもっていた.
英雄色を好むという点においては,信玄のほうが好色家であり,男性的であるといえる.しかしながら,
信玄は家族,臣下を分け隔てなく細心の配慮を怠らなかった.「人は石垣,人は城」を
信条として,甲斐の国統一後はあまり,大きな謀反がなかったことをみると,信玄堤など地域の灌漑や
富国に対する施策にその強みを見ることができる.また晩年謙信を苦しめた一向一揆に対しても
味方につけることができたのは,草の者たちなどの働きによる.
仏門に帰依したのは信玄も同様であるが,この龍虎ともいえる武将ふたりは,それぞれ得度後,謙信が不識庵,信玄は機山と号した.互いに意識し己を高め,武士団の結束を固めたライバルであり,僧籍のみならず,戦術家というもうひとつの大きな共通点を持つ. 謙信の得意とする戦術は「車懸り」円陣が回転しながら相手の奥深く入る.一方信玄の戦法は「鶴翼の陣」で,鶴の羽のように,本陣を中心に両側に広がり,相手を吸収しつつ,呑み込んでいく陣形であった.
謙信の陣営に一人の物見が走ってきて,言った
「海津城の様子がいつもと違うようでございまする」
「どのように変っておる」
「それが・・・多いのでございまする」
「何が多いというのか?」
「煙でございまする.」
「煙・・・」
「煙と申しましても飯を炊ぐときの・・・・」
この報告に,謙信は即座に反応した.
「全軍に申し伝てくだされー」と静かに下知した
「は,」 臣下の諸将一斉に,謙信に顔を向けた.
「お覚悟をお願いする.夜,下山いたそう.明日は戦(いくさ)なる故」
謙信は夜陰に乗じて・・・・山を降りる.何故か.
敵が妻女山を攻撃する為,長期化するかもしれない,山攻めに対して,兵糧を準備
しているからこそ,飯の炊ぐ量が多いのであり,それを戦略家としての謙信の直観が
見逃さなかったからである.
|
歴史探索
[ リスト | 詳細 ]
|
各地の情報の取得が重要であることを特に強く
提言し,それを吸収し,信玄に説いたのは武田の軍師山本勘助
であった.村上義清が上杉謙信に急援を求めたことによって,謙信が
義の為と称して軍を動かした. 第4次川中島である.
謙信は妻女山に軍を敷いた.勘助自身その情報源である草の者たちによって
その動きを察知していた.
「謙信は妻女山から,一歩も動こうとおりませぬ. 機をみて
夜襲撃をかける程の作戦でありましょう.」
「かもしれぬ」 信玄もうなずいた.
近くに真田幸隆もいた,これまでの知略によって「攻め弾正」をあだ名されるほどに
城攻めには定評があった.
譜代同様,副軍師としての役割を担っている.
歴史上に名高い川中島の一騎打ちが始まろうとしていた.
龍虎の壮絶な対決の次には天下の覇権がかかっている.
「当方は2手の軍を妻女山へ,山の背後から敵を河原に追い出し一気に雌雄を」
「川をわたって逃げてくる場合は本陣がこれを根絶やしに致しまする」
勘助の戦術に落ち度がおるとすれば,敵を排水の陣にすることは,逆に敵が
死に物狂いで反抗する可能性であった.
「そちの存念を申せ」 信玄はさらに幸隆に助言を求めた.
「それがしの,勘ではありますが謙信は押されて動くような武将ではありますまい.自ら手勢で
率先して,霧の状況をみて河原に出てくるでありましょう」
「ほーそれで」
「従って,ここは軍を分けることは危険であるかと」
幸隆は謙信の用兵のとりかたは信玄のそれとはまったく違うことに注目していた.
それは,正攻法すぎる正攻法,きわめてシンプルなものであった.
謙信にしてみれば,最初から妻女山に敵をおびき寄せ,
あたかも仏陀がその前世において,空腹なる母虎に身をなげうつような
いわば,自身の身を投げ打つ覚悟を全将兵に伝え,
それ以上に作戦がない.無の一撃に「乾坤一躑」である.謙信の
胸中には「厭離穢土,欣求浄土」が常にある.
信玄の放った草の者にしても,この捨て身の軍備えに
特段の知略を察知することはできなかった.
「動かざること山の如し」を軍旗とする武田軍には,
妻女山は天然の要害であり,難攻をほこる山城に見えた.
「謙信も軽々とは動かないでしょう.そのすきに当方の2手は
夜に攻め立てまする,蜂の子の逃げるがごとき有様かと」
幸隆の考えは違っていたが...
信玄は勘助の作戦を実行に移した.
妻女山(長野観光資料より)
|
|
テリトリーと所属する主家の領土に縛られる. 唯一,修験者または,勧進を集めてまわる寺社の修行僧あるいは芸能集団の一員などが例外となる.そなわち,相当に限られた者たちしか,他国を領土に立ち入ることができない. 当然のことながら,地理や他国の情報に乏しくなる場合が多い.
信長が桶狭間で今川を打ち破ることができたのは,草の者たちの情報によって
今川の動きを読んでいたことによる. 信長は信玄同様,草の者たちを活用し,反面恐れていた武将のひとり
であった.
戦国乱世において,各地へ自由に徘徊し,敵国の情勢を明確に伝えるには女性の方が適していた.
「巫女」の場合,各地で狩猟や下働きをしながら,副業として性交渉をする傀儡女(くぐつめ)に近い職業であるが,性交渉を主体とする旅女郎などとくらべ,芸能(技術)を有する点で違っている.芸能の優れたもの,たとえば平安から鎌倉にかけて,貴族を対象とする踊子である白拍子(しらびょうし)の存在は有名であるが,この場合,下げ髪に立烏帽子を被り、白小袖・紅の単・紅の長袴・白水干を着け、 白鞘巻の刀を佩刀し、蝙蝠(扇)を持つという、所謂男装であり,技量と美貌のある男装の麗人は今でいえば,タカラジェンヌであって,貴族たちの妾となる場合もあり,「祇王」は平清盛,「静御前」は源義経の愛妾であった.
故に,歩き巫女も遊女ではなく,芸能的技量を備え,立ち居振る舞いにおいても優れたものたちで,
性交渉はその職業的な一部であり,商売ではない. 寺社の庇護者や有力大名に引き上げてもらうことが
また,その芸能のステイタスをあげることであった. このころの日本は農村においては東南アジアの島嶼部
において多く見られる,母系社会を基盤に成り立っており,武士の社会構造に儒学が取り入れられることによって,父系を戸籍の基礎にして,長子相続に変っていったといえる.
江戸時代までの女たちの性に対する束縛は少なく、ある意味では現在よりも,はるかに開放的であった.また離婚についても女性側からの三行半が男性からと同等程度に多かったことは,先の母系制を考えれば説明がつきやすい.
驚くべきことは離婚後の女性が再婚(婿取り)することが容易であり子連れであっても,村の中でこれを捨て置かない、必然的に周囲が,縁を縁戚から執り成し女性を一人にすることは逆に少なかったことである.村社会は女性を中心に回っていたといっても過言ではない.
イエズス会の宣教師フロイスはこの時代の日本民族の特徴を細かく書き残している.その中で,婚姻後の女性が他と性交渉を持つこと(間男の不義,現在でいう不倫)もおおく,村が子供を生み育てるという観念が,
今日東南アジアの各地に残るもので,大陸文化や思想,仏教以前の日本縄文古来からの性意識について
現在の少子化を考える上で、今日の北欧の考え方同様に,この時代の方が優れていたかもしれない.
「ののう」はその時代に,活躍する「くノ一」であり,正しくは「九ノ一」 である. 九ノ一も意味は、人間の体には目や鼻などの八つの穴があり,女はそれよりも一つ多いというほどの意味であった.
日本風俗史博物館資料より、白拍子男装
|
|
高津の宮は浪速の地を皇都(高津宮)と定められ大阪隆昌の基を築かれた仁徳天皇を王神と仰ぐ神社であります。
仁徳天皇が高殿に昇られて人家の炊煙の乏しいのを見られて人民の窮乏を察し直ちに諸税を止めて庶民を救済されました御仁政はあまねく国民の敬慕する処であります。 http://www.kouzu.or.jp/img/nintoku.gif その御仁政を慕い平安期の初期清和天皇の貞観八年(866年)勅命(天皇の命令)によって旧都の遺跡を探索して社地を定め社殿を築いてお祭りしたのを創始といたします。以後世々皇室を始め時の幕府等の度々の御造営寄進を重ねて浪速津の守護神と仰がれ御神威輝き渡ったのでありますが、その後700年を経た正親町天皇の天正十一年(1583年)豊臣秀吉が大阪城の築城に際し比売古曽社の現在地に御遷座(神社の御神体が移ること)になって今日に及んでおります。 仁徳天皇の徳政を敬い大正十年に制定された大阪市歌にも「高津宮の昔より代々栄えをかさねきて民のかまどに立つけむりのにぎわいにまさる大阪市・・・」と歌われています。 昭和二十年三月の第二次大戦の戦火を浴び神輿庫を一つ残して社殿ことごとく焼失しました。しかし戦後氏子を始め崇敬の厚い奉賛により昭和三十六年十月社殿以下ことごとく復興完成を見ました。 高津の宮 HP より
桜の祭りは・・・・・
|
|
真田はもともと実田(さねだ)の名前であったとする説もあり,幸隆以前の記録が少ない.筆者は海野棟綱の子である幸隆が真田家(実田)頼昌の養子になったのではないかと推測する.
いずれにせよ,武田家との縁が真田の基礎を創ったといえる.真田家の特徴は,諜報を得意とする集団であったからこそ,その子昌幸・幸村の3代にわたって時代を柔軟に生き抜いたのではなかったか.
天文10年(1541年)に信玄(このとき晴信)が父・信虎を国外追放して家督を継ぎ、本格的な佐久・小県郡侵攻を再開する。幸隆は晴信期の武田氏に帰属して旧領を回復している。天文17年の上田原の合戦で、幸隆は調略を用いて佐久で抵抗を続ける望月の一部を武田方に臣従させた。この望月一党こそ甲賀の本家筋に当たる
. 幸隆は村上義清に対抗し崩せる人材として登用され,存分にその役割を果たした.
戸石城,攻略戦では一時撤退をするが,幸隆の調略でわずか一日で落ちた.
その後も幸隆は信玄,山本勘助に重用され,譜代に相当する待遇を得ている.信玄は信濃衆の多くを味方につけることに成功した,中でも幸隆の指導した,吾妻衆は甲州透破として各地の情報を信玄にもたらせた.
同時に望月千代女というものあり,甲賀の筆頭である上忍の家柄 甲賀望月の出身で、甲賀望月氏の本家に当たる信濃豪族の望月氏当主望月盛時に嫁入りしていたが,いわゆる「くノ一」であったから,信玄はこれに
「歩き巫女」を養成させた.千代女は信州小県郡禰津村(現長野県東御市祢津)の古御館に「甲斐信濃巫女道」の修練道場を開いた。歩き巫女とは戦乱の世で、孤児や捨て子となった少女達を数百人(200 - 300人)を集め、呪術や祈祷から忍術、護身術の他、相手が男性だった時の為に色香(性技等)で男を惑わし情報収集する方法などを教え、諸国を往来できるよう巫女としての修行も積ませたものをいう。
一人前となった巫女達は全国各地に送りこまれ、彼女達から知り得た情報を集め武田信玄に伝えた。
修行を積んだ歩き巫女達は、「ののう」と呼ばれ、現在も禰津村には巫女の家が並んだののう小路や墓が残る。
この「ののう」こそ,くノ一であり,幸隆の透破と望月の歩き巫女は密接な連絡網を持っていた.
いわゆる滋野三家(望月・海野・禰津)の一流であり,真田は海野の支流,望月の支流は甲賀五十三家の
| ||||||
| http://koukenchiai-mix.com/skin/dummy.gifhttps://fight.blogmura.com/kendo/ブログ村 格闘技 剣道 https://ping.blogmura.com/xmlrpc/9gpsiom5oetp | ||||||




