不刀 庵 閑話 シーズン2

剣道の故きを温ねて、新しき人生を知るブログ

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たたら場と遠交

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阿蘇山周辺には沢山の鉱物がでた。鉄も豊富にとれた。
それが、鉄器(武具・刀剣)などに生産される。
たたら場(今でいう製鉄場兼鉄器武器製作所)がたくさん出来上がる。
当然豊かにもなる。
いまでも九州に刀匠が多い。

それだけではなく、それを韓半島の戦場へと輸出する。
任那の日本府を、倭の大陸進出の拠点と見なすか
あるいは貿易拠点とみなすかが、重要な部分ではないかと
物の製造をアウトソーシングした九州のたたら場が
どんどん優秀な鉄器を作って送った。
その交易が充実して、韓半島に人たちが倭を大国と見なすようになったとしたら
ものづくり日本の原型がこのころに生まれたと言えないだろうか
馬も増やし、育てるには九州は広く豊かであった。
武具武器、そして馬も増やして韓半島の戦争市場におくった。

馬を専門に種付けして増やした渡来人系豪族の根拠は
東大阪にもある。瓢箪山の上、郷土博物館周辺には
古墳があって河内の馬飼部(うまかいべ)が住んでいた痕跡。古墳には馬具や祭儀として
梅の種(輸入品)などが出土する。
同じ部族が九州にたはずである。おそらくはその馬飼部の祖先であろう。

韓国に駐在していたころ、ブンタはよく慶州の足を伸ばした。
慶州の古墳公園の中にある、展示室に日本の古墳出土共通点をおおく見た。
また慶州国立博物館には、新羅文化の出土品が多くある。
ほかに百済、伽耶の出土品との比較ができる。
伽耶のものは非常に日本の古墳出土品に近い。特に王冠の形やピラーは
日本のものに近い。

このころ、百済も高句麗も新羅も日本(倭国)をどう見ていただろう。
視点として軍事面からみると、よく見えてくるのではないかと。

孫子の兵法などによく出てくる「遠交近攻」自分からみて遠い方の国と
協力して近きを攻める。 百済や伽耶にしてみれば
倭国は隣国であるが、底には玄界灘という天然の要害があり、攻めてくる
国ではなかった。明らかに異国であって、自分たちの武具を供給してくれる
ところとなる。だから倭を味方に付けることが重要な課題であった。
その兵法軍略上に倭がいつも大切な位置にあった。
伽耶が滅んだとき、その人々は百済を頼んで亡命した。その人種と
人たちは百済にまた武具供給のパイプラインを強化したはすである。
百済としてはその関係をより密のするために。仏教を日本に伝え
貿易上の理由ともあいまって、漢字が導入される。
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写真;韓国観光公社

倭人と帰化人と隼人

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阿蘇山は火を噴きあげ、韓半島からの流入者や頻繁に訪れる朝貢の人たちには
強烈なるインパクトを与え続けた。韓半島にも、中国の中原にもこのような火山は見られない
当時のひとたちにしてみれば、豊かな、火の国であった。当初は日の国でも、金の国でも
まだなかった。

倭族という少数民族とブンタは雲南省で出会った。彼らの習慣や生活がいまも、日本人の
暮らしぶりに似ているし、米のルーツ、シャモ(闘鶏)の習慣、鳥居などの習慣に
その原型をみる。

人類学的には前に書いたようにオーストロネシア人に当たるのかも知れないが、中国の
長江(揚子江)流域にいた人たちがそのまま、河のながれのままに東棲し一部はそのまま
源流の地、雲南省にのこったとみるべきではないか。と。
福建省の奥地には、船の形の棺桶を岩の間に置く、風葬というのがある。
倭人伝には、死者を船に入れてひっぱったとあるところに船棺風習の
共通点をみる。山奥の少数民族がなぜ、古代倭人と同じ風習をもつのか。
雲南省や福建の倭族とその一族が混じれもなく、揚子江河口流域と韓半島や
日本の海域に勢力をもっていた部族の末裔だと言えないだろうか。

三国志の興亡。呉越の興亡。魏志倭人伝に出てくる頃の倭という人たちは、中国にいた
この集団と無関係とは思わない。高句麗とも戦い、明らかに韓半島にも住んでいた。
伽耶、馬韓、弁韓、から百済へと引き継がれるころの倭という人たちの舞台は
日本ではなかった。北九州と対馬。韓半島の南。あるいは揚子江の下流域にいた
人たちは稲とともに日本に流入する。
その時点で彼らは帰化人であり、弥生人であり倭人であった。

一方鹿児島から阿蘇山にかけては、南西諸島から流入してきた人たち。
どちらかといううとこれらの人たちは、ハワイやマオリやポリネシアにいるひとたちとも
近い。偶然かもしれないが西郷隆盛さんとハワイ出身の力士がよく似ているのも
どこかで関係があるのではないかと、今日でも、南西諸島には丸い顔立ちや、
彫りの深い顔立ちが多い。隼人族というのがそれならば、彼らは一つの王国を形成して
いたものの、北九州の小国すなわち卑弥呼によって、束ねられていたこれらの国と
阿蘇山周辺の国は一つではなかったと考えられる。
それが、500年以上たって、隋の時代になって、ひとつになっていたあるいは、
交流あった考えられる。神武天皇に当る人物が現存したとするならば、それをしたがえて
いなければ、東征はかなわなかったはずである。

小野妹子のあと、隋から派遣された一行の記録(隋の東夷伝)には阿蘇山が記載がある。
斐 世世(はいせいせい)が九州を回り、阿蘇を見たかどうか。
頻繁に訪れていた韓半島からの書物今風にいえばレポートを転用したのかどうか。
もし、阿蘇山が、このころ中国(隋)で有名になっていて、
「日出るところいうからには、火の山を見てきて報告せよ」
との要請を煬帝から受けいたとしたら・・・。

遣倭使 斐 世世は、神のいる山をみただろう。隼人の国の歓迎も受け、さらに瀬戸内海をわたり、上町に
辿りついたのでと思いを馳せる。

写真:大阪観光コンベンション 延齢寺
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隋と倭人

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倭国はようやくおさまった感があるが、今の四国・中国地方には、別の国があった。
九州にも王国があり、王がいる。
この6〜7Cの倭国を今日の日本の姿でみては、わかりにくい。
それぞれの村落を中心に適度の距離をおいて、国が存在していた。
人口は10万戸という記録があるものの、一番大きな国である倭国の場合の
推定であって、日本全体でいえば、100万人にも満たないのではないか
と・・・。

いずれにせよ、倭国の中心は飛鳥、そしてその玄関口はこの上町。
一方、九州阿蘇山の麓、火(日)の国、現在の熊本のあたり
には、もうひとつの国と王がいた。

激動の舞台

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隋という国、春秋戦国そして三国時代を経て中国は五胡十六国となり、それら南北の諸国を
統一したのが隋で、国家政策では、大変いい制度をつくったのです。
国を強くするために人材も活用し、土地開発を推進する制度の活用などがんばっています。
その制度をいち早く取り入れようと努力したのが聖徳大使日本なわけですね。
このときから日本の文化吸収力はすごいものがありました。

 一方韓国はというと、高句麗、新羅、百済と三国が覇を競っています。
日本(倭国)はというと、物部と蘇我の対立抗争、そのた豪族たちの土地をめぐる
争いは絶えません。
女帝を立てると不思議に収まることがおおかったのは、それ自身、卑弥呼いらいの
、王権(帝)の性格が加持祈祷、カミにつかえ、カミとなり、災害や厄病を除く
力を持つものであらねばならなかったのでは無いでしょうか?
各地の残る神社殿はその当時の豪族が神官的性格を強くもっていたことによります。
人口が増え、組織が複雑になると、それだけでは人々を納められなくなった。
中央集権国家形成のために、仏教や漢字を用いて人々を教化し、武具・鉄器などの
生産技術をUPする。百済・新羅・高句麗と韓半島の国際交流、と戦略的駆け引き
隋もそれに加わります。上町が、その国際外交の表舞台となりました。

小野妹子が華道の元祖

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小野妹子は聖徳大使のもう一人のブレーンでした。
かれは美男子にして、文武に優れた人です。
大陸への航海、常に危険が付きまといます。何しろ
日本海の荒波を押し渡り、韓半島を経由して、大陸の
トップに対面する。
今で言うところの特命全権大使です。
聖徳太子には、高句麗からきた仏教顧問もついていました。
このひとが韓半島の人間として「日出る処の・・・・」
を代筆したらしい・・・・
当時の日本人の感覚でこの文章はおかしいとおもうのですが
大きくでてしまったものです。

四天王寺は蘇我氏が物部氏に勝利したことを祈願して立てたという説
もありますが、日本としてはいっぱい背伸びをして
大陸の人たちに負けないところを見せる必要性があった
と思うのです。
太子はこの後、斑鳩に宮を構えますが、妹子は当時副都心と
なった。この上町台地と斑鳩の里をいききしながら
遣隋使出向の準備に余念がありません。
何しろ大仕事ですからね。
いろんな制度をまなんでこなければならない。しかも
技術者や僧侶なども招聘しなければならない。
下手をすると、その場で首が飛びます。

住吉大社に航行平安の祈願をかけて旅立ちます。
行列をしつられ、鳴り物入りで上町台地をたくさんの人たちに
見送られて、住吉まで。
そして、そして現在の住之江・南港のあたりから船出しとのでは
無いでしょうか。
騒乱や内乱の多い倭国から、新しい律令国家・日本としての
夢をのせて旅立ちます。

ところでこの小野妹子はのちの小野小町・小野道風などと同じ一族で、
京都八角堂の祖で池坊家の先祖に当たるところから華道の元祖となって
いるのは意外ですね。

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