不刀 庵 閑話 シーズン2

剣道の故きを温ねて、新しき人生を知るブログ

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皇龍寺と新羅

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聖徳太子イコール蘇我氏の血族で百済系である。したがって、百済との交流が中心だったかというと
そうではなかった。むしろ、それ以上に当時の中国と韓半島の事情に精通し、それに負けない国家を
建設しようと努力したはずです。彼は摂政として、国を守るために、律令国家の形を整え、大陸に
負けない国威を示そうとしました。
第2回の遣隋使派遣のとき、小野妹子はこの上町台地から、瀬戸内海をわたって、日本海を渡って
隋の煬帝に謁見し、例の「日出る処の・・・・」をやってしまった。煬帝はかっかときたのですが
高句麗との戦いなど内憂があり、文官をこれをいさめ、日本と朝貢を結ぶことになります。
隋の律令の制度、中でも優秀の人を官吏に登用しする科挙の制度、政治家を世襲ささない。
冠位12階の制です。
この当時、聖徳太子がこころみたことが、現在の日本になぜできないのか不思議で仕方が無い
のですが、2世3世議員の多さ、世界的に見ても日本が変わらなければいけない時期に来て
いると思いませんかね。
いずれにせよ・・・
上町台地は大変な国際都市だったのです。特に難波の宮を中心に、海外に出て行く、あるいは
朝貢に訪れる人々の迎賓館が立つ。大都会ですね。
そんなところで剣道をしているのですね。
でも、大阪の古い有名私立高校や予備校など文化教育関連の施設が非常に多い。
不思議とここに集中しているのは、ここが歴史的に大事なところだったことに関連性無きに
しも非ずですね。
ところで、聖徳太子のブレーンが中国系の帰化人だったことから、彼を縁故に隋と新羅が
頻繁に朝貢にきます。中国を統一した隋の政治と改革を学び、新羅ではその当時建設された
皇龍寺の話をききつけたわけですね。

慶州に足を運んだとき、友人のSHU女史(前出)は私に新羅の皇龍寺の話を聞かせてくれました。
広大な敷地に百済の建築技術と隋のそれとを集め、世界に類を見ないすばらしい木造建築物を
立てたのです。それは、その寺院は僧侶100名以上(百座講)をして、国家安寧を祈願する
するものでした。
新羅の皇龍寺の伽藍配置こそ、四天王寺と法隆寺の基礎となったのでした。
残念ながら、今日慶州では、その痕跡を残すのみですが・・・

(写真:皇龍寺跡 韓国観光公社)

帰化人と土木工事

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ずーと以前仕事で福岡に出張したとき、ある繊維会社の重役が、駅に出迎えてくれました。
博多のいいところをずいぶん案内していただいた。大濠公園と水城跡が観光コースにも
なっています。
「このあたりは、大陸からの侵入に備えて、大昔から水城(みづき)があるんですよ。
土塁に堀をめぐらせたところですよ。それでね。その工事をした人たちが秦氏で
いまでも秦さんというのは結構多いんです。」
というような説明をうける。
さらに
「この秦は中国大陸からきた、人たちで秦の始皇帝の末裔らしい。」
というのであります。
中国で兵馬俑の巨大さを見てきているものの、この王族の一部がどうして
日本に来ているのか・・・正直いって私には理解できませんでした。
どうせ、でまかせか、あるいは後世にでっち上げた話に違いない。
長い間そう信じてきたのです。

しかし最近、それがそうでもないと思うようになったのです。

話を聖徳太子に戻しますと、そこに一人の家来というか、ぴったりと友人のように
付き従ったブレーンの存在があります。それは秦川勝(河勝:はたのかわかつ)で
ありました。この氏族は土木工事に精通していたと考えられます。
もともと、応神の御世に九州からその技術をみこまれ、九州から
近畿にはいってきた豪族の末です。
それが、仁徳時代に上町台地の内側にある河内湖へのバイパス
すなわち堀江(いまも地名の残る)を作る工事の担い手となります。
聖徳太子が摂政になると、さらにその頭角を表し、新羅系の仏師や建築土木の専門家
を使い、四天王寺や法隆寺の建設に携わることになります。

今で言うゼネコンさんのトップがこの川勝でした。
彼らは没落した秦王朝の残党として新羅または高句麗
の国境近くにすんでいた、どちらかという高句麗に協力していて
両国の衝突が激しくなり、高句麗が滅ぶと日本に亡命してきていたのでは
無いかと・・その彼らの優れた技術。あの兵馬俑を作ったわけですから・・・
に目をつけたは応神であり、仁徳天皇でした。

聖徳太子と四天王寺

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大連(おおむらじ)の物部守屋と大臣(おおおみ)蘇我馬子の対立は仏教
導入をめぐって大きくなっていきます。
もともと百済の交流の深かった蘇我氏は、百済王の使者よりもたらされた仏像
を庇護し寺の造営を進め、疫病平癒を掲げ、普及に努めます。
一方廃仏派の物部守屋はついに、意を決して、関係血族の皇子を伴い
河内に挙兵しました。 このとき若き聖徳太子は、馬子の血族として、
蘇我氏の軍に参戦してします。

厩戸(うまやど)の皇子は別名 上宮(じょうぐう)太子ともいわれ、
母の穴穂部間人皇女の実家の離れでうまれたので、馬子の名前から
厩戸と名付けられた。

仏教は聖徳太子以前は、単に天皇や有力豪族の病気をなおす祈祷の
ためにすぎなったのではないか・・・と

守屋が倒れて、聖徳太子はその戦勝を記念して四天王寺をたてます。
しかし、聖徳太子の偉大なところは、仏教を熟知し、その真理を
祭りごとに生かそうとしたことでした。17条の憲法はその仏教理念を
基礎とし、国家の制度の確立につくしたところです。

難波の宮

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 フィリピンのタガログ語もそうなんですが、
 器用にもともとの言語をベースに外来語を受け入れる性質。
 これはむしろ・・・オーストロネシア語族の特色なのかも知れません。
 以前いったことのある。南太平洋のバヌアツには面白い言語があります。
 バヌアツにはピジン語(ビスラマ語)といって、英語をうまく受け入れて
 独特の現地ミックス語が生まれています。
 「ミー ワンデン ツー スリープ」というと
  I want to sleep 意味となります。つまり すべて I My Me mine
の変化を Me で押し通す。  〜 何々したいはすべて wanden ワンデン
というものですね。
 オーストロネシア語族は広くポリネシア、ニュージーランドまでの範囲に及びます。
 日本語はその源流から、多くの言語おもにウラルアルタイ語系
 北方モンゴロイド言語がくみあわさって出来上がった。
 そこに韓半島からの流入者から多くの文化的影響を受けながら、
 同化し、多きな衝突をせづに根底のところで、独自性を持ちづづけたと
 いえるでしょう。

 流入した帰化人グループが、その流入の早い遅いで、グループがわかれ
 そのおさめたムラ。クニをベースに争います。

 あるものは仏教を積極的に推進し、あるもの神(カミ)をその祭事の
 拠り所としたはずです。 

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話が文化伝承になりましたが、その痕跡を示し、手がかりとなるのは・・・やはり言葉ですね。
ところが日本語の起源にかんしての詳しい研究が意外と空白なのに気付かれたかたは
ないでしょうか?
近年私は中国の雲南省は麗江(世界遺産)にいって、大きなショックをうけました。
それは、ナシ族という小数民族の持つ、象形文字(トンパ)文字でした。
日本にも祭儀のときに使われていた文字があってやはり、象形文字のような
スタイルをしています。(学説が分かれていますが・・・)
ホツマツタエという神代文字ですね。 これが私には
ズート気になって・・自分なりにそのルーツに共通項を探そうとしています。
自分の認印にトンパ文字で書いてもたったものを大事にしています。
雲南省はミャンマーをはじめメコンの源流としてタイ・ベトナム・ラオス
につながり、ここの陸稲(おかぼ)はジャポニカ種(日本米)の原種であることが
わかっています。 またこの地方のワ族は闘鶏を好みます。
これがタイにおりて、ベトナムをとおって、海路、九州や中国地方・そして浪速(灘波津)へ
そして、稲作と同時に闘鶏の飼育が盛んにおこなわれるようになりま
す、河内のシャモは、タイの以前の名前シャムがなまったものです。
小さい時、近所のお父さんが大事にかっていたのを覚えています。

さて、日本語の話に戻しましょう。このように古代に南方系のモンゴロイドが
海路を北上し日本にはいってきます。もちろんアイヌのような北方系も南下
してはいってきます。
いづれも縄文時代で、狩猟漁撈の生活が基本ですが・・・徐徐に稲作も
はいってきています。このときはほとんど、字をつかってはいなかった
でしょう。 現実にアイヌは明治まで字を持たなかったのですから。
やがて、大陸から少しずつ、モンゴルツングース(北方騎馬民族)が
入ってきました。彼らの強みは武器と馬でした。
不思議と戦いにならない。 彼れは、鹿のような角の王冠をい抱いた
異民族をみて「角がある人」とあがめ、戦意をもようすことがあまりなかったのです。
韓国の国立博物館や慶州でみられる。黄金の冠は無言にして。
文化の格差を示すに十分なものでした。

ちょうどそうですね。タヒチにゴーギャンがいって、その楽園の人たちと
溶け込んで、土着化したように。比喩はたいへん悪いですが・・・
オーストロネシア語族・マレー系インドネシア系南方モンゴロイドは
のんびりと生活をたのしんでいたのかも知れません。
それは征服した民族が被征服民族を抑圧して、無理やりことばを自分たち
の言葉すなわち古朝鮮語を強いることがなかった。
そして、大陸の文化をひろめながら同化していったと考えられます。
日本にクニが形成されたあとも頻繁に大陸からの訪問交流(朝貢)が
継続され・・・同時に、仏教の経典とともに漢字が
もたさらせることになります。古日本語は驚くほど、単純なシンタックスに
よって構成されていました。
日本の兵隊さんがインドネシアへ送られて憶えさせれたインドネシア語
というのは
「人はオラン。魚はイカン。 めしはナシ。」でした。
現在でもインドネシア語が日本人にとって憶えやすいのはそのルーツに原因が
あるのかもしれません。

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