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町つくりや町おこしには、キャラクターが必要で。
ブンタの住む所には司馬遼太郎さんの記念館がり、近くには
S高校・大学内に 田辺聖子さんの資料間がある。
司馬遼太郎さんの記念館には休日に今日でもたくさんの人たちが来ている。
そこで、ブンタの提案は あの 夫婦善哉を書いた 織田作之助さんに
登場していただき・・・・・・
町おこしをしていただきたいのです。
織田作(オダサク)は
略歴は・・・・・・
大阪市南区生玉前町(現天王寺区上汐町4丁目27)にて、仕出屋「魚春」の織田鶴吉、たかゑの長男として生まれ・・・・その後
1920年 大阪市立東平野第一尋常高等小学校(現・大阪市立生魂小学校)に入学。
1931年 旧制大阪府立高津中学校(現・大阪府立高津高等学校)を卒業し、第三高等学校(新制京都大学教養部の前身)文科甲類に合格。
1935年頃の学生時代に後の妻となる宮田一枝と出会い同棲生活を始める。同時期、作家活動を開始。当初は劇作家志望で『嶽水会雑誌』に戯曲「饒舌」を発表したりしたが、スタンダールに影響を受けて小説家へ志向を転換。青山光二らと共に同人誌『海風』を創刊、1938年には処女作「雨」を発表して武田麟太郎の注目を受ける。
1939年3月に帰阪。長姉・タツの嫁ぎ先である竹中国治郎のもとへ寄寓する(ちなみにこの夫婦は、三高時代の学費を全額負担するなど、学生時代の作之助に対し惜しみない援助を行っていた)。7月15日、阿倍野の料亭「ちとせ」で宮田一枝と挙式し、南河内郡野田村(現・堺市)へ移る。尚、この時期、作之助は日本織物新聞社や日本工業新聞社への勤務を経験している。
一方で作家活動も続け、1939年9月には『海風』6号に「俗臭」を発表。この作品は、義兄竹中国治郎の長兄・吉川重太郎の生涯に題を得たものだが、これが翌年、室生犀星の推薦で芥川龍之介賞候補作となって注目を集める。更に7月に発表した「夫婦善哉」(小説)が改造社の第一回文芸推薦作品となり、これを機に本格的な作家生活に入る。
大阪名物・難波『自由軒』の「元祖・混ぜカレー」を好んで食べていたらしい。自由軒本店には、「織田作死んでカレーライスをのこす」と書かれた額縁入りの写真が、今でも大切に飾られている。
自由軒と織田作之助【自由軒オフィシャルサイト】
出世作となった「俗臭」「夫婦善哉」をはじめ、「競馬」「世相」など短編を得意とした。また出身地である大阪に拘りを持ち、その作品には大阪の庶民(特に放浪者)の暮らしが描かれていることが特徴である。
となるが、「木の町」という短編がもっとも、この上町周辺を描いているので・・・・・
できれば・・・・大正から昭和初期の・・・レトロで
オダサクの町として復興させてほしいものである。
写真:大阪観光コンベンション
略歴 :WIKIPEDIA
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