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「 ものは すべて、相対・有限なものである。 」
という命題の真偽について、すこし お遊びで 考えてみたいと思います
この命題は、真でしょうか 偽でしょうか? ――― どう思われるでしょうか?
* * * * *
( お屠蘇を飲みながら、記事を書いています。
元来 アルコールは 強くないのですが、それでも アルコールなしで、一日を終えることは
できない私です。
もちろん 中毒ではありません。 一日の疲れを 少量のアルコールで癒すのです。
で、このお屠蘇は、 すでに 私の中枢神経を麻痺させ 心地よい気分で PCに向っています。)
「 ものは すべて、相対・有限なものである。 」 という言葉(命題)は、
これを 私が言った場合には、実に 奇妙な事態に陥ります。
これは、恐らく 私が酔って目が回っているためではないと思うのですが・・・。
何故なら、この命題or世界に対する認識が 真である とすると、
これも 一つの <もの> ですから、これも相対・有限なもの ということになるでしょう。
つまり、この命題or認識も 永遠で絶対的なものではなく、やがて 移ろいゆくものということ
になります。
しかし、もし そうだとすると、
又しても この命題or認識は 真実を語っているもの・真の命題or認識だということになります。
すると また、この命題も 一つの <もの> ですから、・・・・。
真は 偽となり、それ故に また真となり、すると また偽となり・・・。
このように、無限循環に 私は 陥ってしまいます。
では、この命題は 始めっから 偽なのでしょうか?
「 諸行無常 」 という仏教のテーゼは、 まさしく この「 ものは すべて、相対・有限な
ものである。 」なのですが・・・。
釈尊は、 はたして ウソを語ったのでしょうか?
「 諸行無常 」とは、間違った言葉なのでしょうか? ここに、今日の我々の 言葉に対する
常識は、実は 大きなデッド・ロックに乗り上げているのです。
この世俗文明の中にある我々は、 言葉というものは 我々人間が発する言葉であり
それ以外の言葉があるとは認めません。 言葉は、我々の 知性と感情と意志の為すものであり
それ以外のものではないわけです。
そして、ここでは 上の釈尊の言葉「 諸行無常 」は、 自己矛盾のものであり 我々には
理解不能の言葉となります。 では、これは どういうことなのでしょうか?
我々の 言葉に対する考え方が 正しいのか? あるいは、釈尊が 正しいのか?
―――― はて、どうでしょうか? どう考えたら よいのでしょうか?
( 酔いで ロレツが回らなくなりました )
・ ・ ・ ・ ・
( お屠蘇の酔いは もう 醒めましたので、もう少し 考えます )
今日の論理学は、近代西欧のものであり、その言葉に対する考え方は たいへん精密では
あっても バイアスが 掛かっています。
すなわち、これは 人間知性で把握できるものしか、言葉の真理性を認めないのです。
しかし、昔 言葉に対するインドの見方(ie.論理学)には、
「 聖語 」というものがありました。 すなわち 言葉には、ただ 人間が喋るものだけではなく、
我々の認識能力を超えた絶対者の語った 聖なる言葉がある と言いました。
こうした 人間の認識能力を超えたものに対して、近代西欧の思考は 警戒的・禁欲的で、
これを その思惟の中から 「 疑しいもの・不確かなもの 」として排除することで 自己と世界
を知ろうと試みてきました。
このため、上のような言葉の矛盾に 我々は 困惑しなくてはならなくなりました。
釈尊の言葉である「 諸行無常 」も、我々現代人は これを 釈尊の意の如くには 十分に
理解できないということになっています。
実は、この 「 ものは すべて、相対・有限なものである 」、 すなわち 「 諸行無常 」
という言葉は、人間の語った言葉ではないのです。
これは、雪山童子が わが身を食わせることで 羅刹から聞き得た言葉で、
諸行無常 是生滅法 生滅滅已 寂滅為楽 (涅槃経)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AB%B8%E8%A1%8C%E7%84%A1%E5%B8%B8
の 四句のなかの 一句なのです。
すなわち、これは 雪山童子(ヒマラヤ山ー雪山ーで 修行していた若者)が、自分で考え
出した言葉ではなく、自身の命と引き換えに 羅刹から聞いた言葉であったわけです。
このように、仏教の言葉は みな 世俗(我々人間)の言葉ではなく、仏の語った言葉だ
というのが、昔からの約束事であったのです。 それは 人間知性に語りかけたものではなく、
人間の実存に語りかけた言葉です。
我々は ‘ 仏教は 宗教的であるよりは 哲学的だ ’ とかと よく言いますが、それは
西欧の宗教観から そう言うのであって 本来の仏教ではありませんし、こういう考えでは
仏教は 永遠に分からないでしょう。
深い迷いの中にあって しかも そのことを知らない我々を 目覚めさせるために、仏が
そうした我々に語りかけた言葉です。
すなわち 仏の智慧から出た言葉ですから、迷妄にある我々の言葉ではないのです。
このように、論理学が いやしくも 真実を 知ろうor明らかにしようとするなら、西欧の如く
「聖語」 というものを、その思考体系から排除しては、
結局 その自己矛盾を 如何に誤魔化すか? ということになります。
ここに、真実というものに対する 近代西欧の思考の限界を、我々は 見出すべき時機に
もはや来ているのではないでしょうか?
人間知性は、世俗的な事柄に対しては 大変 有効に働きました。しかし、人間は これに
納まるものではないということは、すでに 19C西欧で 実存哲学と一般に言われる思潮において
次第に自覚されて来ていました。
しかし、こんなことは 仏教では 当り前のことで、我々日本人が 卑下して 彼らから学ぶべき
ものではなく、逆に、彼ら西欧人たちが 仏教から 頭を下げて学ぶべきものであったでしょう。
(おわり)
★ 「 六ヶ所再処理工場を動かさない 」 http://blogs.yahoo.co.jp/kyomutekisonzairon/45054771.html
〜原子力資料情報室(CNIC)より
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既にお分かりのように私は仏教の(というか一般知識も><)予備知識がほとんど無く、ここを訪れる人からみると子供のような質問ばかり繰り返しているわけですが、でもkyomuさまが情熱を注ぐこの仏教というものに興味があります。別に「仏教」という名前の宗教でなくても、出発点は大して変わらないのではないかなどとも思います。いずれも大事なものを現代まで運んで来てくれているのだと思います。
2007/1/17(水) 午前 5:04
いろいろ丁寧に言葉を重ねていただき大変感謝しているのですが、やはり分からないことは沢山あります。理解する、納得するというのは人それぞれで、私はそんなに深く洞察する頭は持ち合わせていませんので、多分そのせいかと思います。あとは用語の問題ですかね。。言葉の定義が理解できていないものが多いので、他の記事等も読んだりはしていますが。単に知識としてだけでは難しいような言葉も多いので難渋します。
2007/1/17(水) 午前 5:19
仏教において言葉というのは大切なものでしょうか? 言葉の定義というのは勃興時期から一貫していてかつ精度の良いものなのでしょうか。以前記事にされていた因縁果のおはなしも十分論理的に説明いただいたにもかかわらず、私には大変分かりづらかった記憶があります。伝統的な宗教でもいろいろな亜種ができて力が分散したり教えが歪曲されてしまうことが多いようですが、それは言葉の定義が曖昧だ(にされた)からという側面があるのではないかと感じます。聖語には直接アクセスできない私たちにとっては普通の書き下した教えが唯一の理解すべき対象でしょうが、仏教の教えというものは正確に伝承されるのでしょうか。というかkyomuさまが受け取っている教えが正しいという根拠は何でしょうか。失礼な質問かもしれませんが素朴な疑問です。
2007/1/17(水) 午前 5:30
こんばんわ。でも、これを読まれるのは朝になりますか、すると「お早うございます」といった方がよいでしょうか? ///第1コメント〜 普通の人にとって、如何に科学的知見が進展しようと、自分の身体のことすら その知見を自分のものにすることはないですね。それすら分子生物学や生科学や医学や生態学やの知見は 膨大で、専門の科学者も 仰るようにその対象を細分化しているわけですから、まして他の分野の科学者は 自分の身体については 全くの素人でしかありません。まるで、旧約聖書のバベルの塔を築いているようです。(続)
2007/1/17(水) 午後 5:53 [ kyomutekisonzairon ]
皆 互いに異なる言語を語っていて 意思疎通できない状態となっています。これは、もはや 科学的言語が 世界全体の把握を個人が為すことの崩壊を意味しているのでしょう。言語は、人間個人の為す営みであり、人間個人の世界観と人生観を荷い 他者との意思の伝達可能性を荷うものだろうからです。如何に 科学が その客観性を主張しようとも、個人にとっては それは客観的でありえず、客観性を主張すればするほど その客観性を<信ぜよ>と 我々に要求するという その実証性を尊重する姿勢とは異質の権威主義的となります。(続)
2007/1/17(水) 午後 6:15 [ kyomutekisonzairon ]
したがって 科学の発展は、およそ 独立不覊の人間を作るという精神とは逆の 従属的依存的な人間を作ることになります。このことは、今日 強調してし過ぎることはないと 私は考えています。【 科学の発展は、科学者もそうでない人も 総じて人間をダメにする 】と。/// 仏教の言葉について。釈尊は 巧みに 彼の世界認識を語りましたが、それは 彼が きちっと定義された言葉を使ったからではありません。当時の北インドで使われていた言語(したがって思想)を使って、その教えを語りました。そして それを聞く人たちは(続)
2007/1/17(水) 午後 6:32 [ kyomutekisonzairon ]
彼の人格を通して語られる その言葉の真意をちゃんと理解できました。しかし、釈尊没後は その人格は失われて ただその語った言葉だけが残りました。後世の人たちは 時代と所を異にして もはや その言葉の真意がストレートには理解できなくなりました。それ故に その言葉の意味をはっきりさせるために、様々な工夫をしました。その1つが、言葉の定義ですね。およそ言葉は 多義的なものです。一つの言葉が 様々に解釈可能です。で、そこに定義を確定すべく 何世代にも亘って厳しい論争が為されました。その過程で(続)
2007/1/17(水) 午後 6:45 [ kyomutekisonzairon ]
様々な流派が生まれました。しかし、このことは 必ずしも悪いことではないというのが、大乗仏教の考え方です。皆、他流派を尊重するという姿勢を大切にするのです。ただ、その際 互いに厳しい論争をすることを避けませんでした。それは 一重に 真実を明らかにするためで、自己の流派の無謬性・唯一性を頭から信じ、その勢力を拡大するといったことのためではありません。もし、これを為すならば、近代思想が批判したキリスト教の悪しき側面と同じとなります。///仏教は 時代とともに 様々な流派が出て来ました。そして (続)
2007/1/17(水) 午後 7:00 [ kyomutekisonzairon ]
それは「仏教の教えが正しく伝承され」ていないからではありません。むしろ、その時代とその場所での 生々しい具体的な人間の課題を 仏教において取り組んだためでしょう。もし、教えの言葉が 2500年前と同じように語られたら、その語る人は その時代とその場所に生きている人たちの苦悩と課題を無視して 釈尊の時代のインドに生きているという、およそ人間離れした人となるでしょう。我々は みな 自己の課題を見出し それに取り組んで その真の解決を得ようとします。その解決の模範を 菩提樹下での釈尊の覚りに置く(続)
2007/1/17(水) 午後 7:10 [ kyomutekisonzairon ]
限りは、みな仏教徒なのです。そして その釈尊の覚りを 自己に実現すべく 具体的な時代と場所に制約された生活のなかで 探求するのです。そこに 様々な形の宗派が出てくるのです。そして それらは 皆 それぞれの問題・課題を抱えています。その宗派の課題を よく荷うことが 本来の仏教でしょう。そして あらゆる宗派に共通している課題は、その宗派の独善性と閉鎖性からの脱却です。これを自己の課題として認識していない宗派は、もはや仏教ではありません。/// 親鸞の教えが 正しいという根拠ですが、それは 1つに(続)
2007/1/17(水) 午後 7:25 [ kyomutekisonzairon ]
その教えの実証者が居るということです。2つに その教えが 如来(絶対者)を根拠としていることです。 3つに 自己自身への批判精神が 健全に しかも徹底的に働いていることです。すなわち 彼の先輩たちの教えに対して 深く頭を下げて 帰順していることです。4つに 人々と その教えを分かち合いたいという至純な願いを持っていることです。合掌
2007/1/17(水) 午後 7:37 [ kyomutekisonzairon ]
暫く時間が取れませんでしたが、細かく解説をありがとうございます。(仏教が)時代と場所に適応するというのは自然の流れですね。変質にはなっていないということでいいとは思うのですが、作法というか実践の形態ばかりに目がいく素人としては、そのバライエティに混乱することもあります。一般の人々にとって日々の実践は繰り返すほどに真実になってしまう大切な宗教の要素であると思います。
2007/1/23(火) 午前 4:31
また、私の場合、実体験としては、葬式仏教のような社会習慣や経済活動と強くリンクした仏教というものしかありませんので、今後どこかでkyomuさまのような深い洞察をもったお坊さんと話をする機会を持てれば、それは幸せなことだと思います。というか、このブログでのやり取りだけでも十分に満足はしていますが^^。知識のみならず人格においても優れた人に巡り会うことは、それ自体大変貴重な出来事だとは思います。
2007/1/23(火) 午前 4:42
4つの根拠ですが、1はまた実証のむずかしい問題に戻りそうなのでパスして、2と3について、また時間がある時に詳説を願いたいと思います。特に2はkyomuさま的にはごく自明な感じなのでしょうが、私には^^;。。。。あまりにも予備知識が無いので説明は無理ですというなら、諦めます。3については「徹底的に働いている」と表現するそのロジックを知りたいです。
2007/1/23(火) 午前 4:49
「知識のみならず人格においても優れた人に巡り会うことは、それ自体大変貴重な出来事だとは思います。」〜これが まさしく1の「実証者」ということですね。例えば、「先師のことば」は、このブログの中で 一番の人気です。それは、これを読む人が、‘ ここに 何か その正体は ハッキリとは分からないが、心を引き付けるものがある! ’と感じ、しかも、そこに 何か 人間の「真実」を 有無を言わさぬ形で感じ取っておられるのでしょう。これは 実証者のみが持つ力ですね。知的理解を越えたものです。 (続)
2007/1/23(火) 午後 6:52 [ kyomutekisonzairon ]
そして 何故 彼は 人を感動させるのか?ですが、それは 3が その人の上に成立っているからでしょう。「 自身は 現にこれ 罪悪生死の凡夫 」という自覚が 彼を貫いているんですね。心の奥の 如何なる自己肯定や自己弁護や独善をも見逃さない眼が 彼の存在を支えている。自分の都合で 自己を誤魔化そうとする卑劣な思いを 内に見逃さず しっかりと捉えることのできる眼ですね。この眼の前に 敗れ去った人なのです、この人は!。この眼を「仏智」と言います。我々人間の目(認識能力)ではなく、(続)
2007/1/23(火) 午後 7:08 [ kyomutekisonzairon ]
自己の立場 や 自己の都合 や 私的な欲望 やに 左右されない 如何なる曇りもない 如何なる曲がった処もない 真実清浄な眼ですね。これは その認識を真実だと外に主張することがなく(ここがキリスト教などと違うところです)、すべての汚濁を 静かに映し出して、その汚濁に染まることのない鏡のようなものです。ここに 「聖語」の意味があるんですね。我々は、聖語を通して仏の眼を知るのです。合掌
2007/1/23(火) 午後 7:19 [ kyomutekisonzairon ]
(追って)この仏智に照らされた姿は、親鸞の次の和讃でも知られます。〜〜「 浄土真宗に帰すれども 真実の心はあ(有)りがたし 虚仮koke不実hujituのわが身にて 清浄syouzyouの心もさらにな(無)し 」。ここには、宗教教団の教義などで、どうともならない人間の赤裸々な現実を 宗教の名をもって覆おうとする意図は 微塵もありませんね。これを 自己への批判精神が徹底的に働いている と言ったのです。これは 人間の知力のよく為し得るものではなく、仏智によって可能なのです。合掌
2007/1/23(火) 午後 7:29 [ kyomutekisonzairon ]
梵字にヒントがあることでしょう。合掌。
2007/1/29(月) 午後 4:15
actangelーさんへ。こんにちわ。 またまた、謎かけですね。もう少し 長いヒントをもらえませんか? 合掌
2007/1/29(月) 午後 6:45 [ kyomutekisonzairon ]