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さいしょうごう へんち しきむげじざい ぐぜ
尽十方の最勝業なる遍知と色無碍自在と救世の大悲者と
およ か しん たい そう ほっしょう
及び彼の身の体と相となる法性真如海・無量功徳蔵と
ぎょう きみょう
如実修の行等とに、帰命したてまつる。
しゅじょう うたがい じゃしゅう しょうしん
衆生をして 疑を除き 邪執を捨て、大乗の正信を起こして
ぶっしゅ
仏種を断ぜざらしめんと欲するが為の故に。
帰命尽十方 最勝業遍知 色無碍自在 救世大悲者
及彼身体相 法性真如海 無量功徳蔵 如実修行等
為欲令衆生 除疑捨邪執 起大乗正信 仏種不断故
http://blogs.yahoo.co.jp/kyomutekisonzairon/7428671.html
http://blogs.yahoo.co.jp/kyomutekisonzairon/7511706.html 〜 帰命 尽十方
http://blogs.yahoo.co.jp/kyomutekisonzairon/7541886.html 〜 最勝業遍知
http://blogs.yahoo.co.jp/kyomutekisonzairon/7572282.html 〜 色無碍自在 救世大悲者
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帰命きみょう
業因縁のうちに、 不覚に 思い・言い・為して のた打ち回っているのであります。
これを 解脱するということは、 白昼夢です。
このことを、親鸞は
邪見憍慢悪衆生 信楽受持甚以難 難中之難無過斯
< 邪見憍慢kyoumanの悪衆生は
(弥陀の本願念仏を)信楽singyou受持することは 甚だ もって難し
難の中の難 この難に過ぎたるもの無し >
と、仰ったのでしょう。
「 合掌のない世界 言い換えると 邪見憍慢の悪衆生が
如来の生命に生きること ・ み法を聞いて信仰することは、
困難も困難、これに過ぎたる困難はない とのお言葉であります。 」(先師)
「 私どもは 知らず知らず 高上がりして、 合掌の世界を忘れます。
いいえ、気をつけて 内観するとき、
私どもは 永遠に 頭の高い 邪見憍慢悪衆生であります。
礼拝raihai合掌ということは、決して
自分が偉大であると思ったり、賢いと自惚れたりする時に 起こるものではありません。
自分の小さいことが知られ、無力なこと、愚かなこと、悪人であること等がわかった 心の
表現であります。
いかに 身体が 合掌礼拝の姿をしたところで、
それだけでは 決して、 真の合掌ではありません。
形よりは 心であります。
ただの理論では、どこを どう並べかえても、
生きた血の通った合掌は あり得ません。
(合掌は)自分の ほんとうにかえった姿であります。」(先師)
世尊我一心 帰命尽十方無碍光如来 願生安楽国 ( 天親tenjin 『浄土論』 )
< 世尊 われ一心に 尽十方無碍光如来に帰命し 安楽国に生ぜんと願じたてまつる >
という 天親の 「 帰命 」 は、
貧富・男女・老若・貴賎・賢愚・内外・上下・強弱などの ありとあらゆる地上の差別を超え、
諸国・諸民族を超えた、否 宇宙を貫く 如来に、 北インドの人・天親が 帰命しているのである。
そして、この世を はるかに超えた 安楽国に生まれんと 願っているのである。
中国の人・曇鸞donranは、これを
「 帰命とは、すなわち これ礼拝なり 」(『浄土論註』) と申された。
「 帰命とは 衆生にあっては、信心であります。
信心の心は 礼拝だ と言われたのであります。
すなわち 信仰の心は、礼拝となって 表れて来るのであります。
合掌礼拝をおいては、信仰は 単なる戯論keronとなるのであります。」
「 往生を願うということと、礼拝するということの間には、 離すことのできぬ関係があります。
如実の礼拝の中には、往生を願うという心持が 生まれてきているのです。
帰命を離れて 往生は 成立たたないのであります。」(先師)
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ん〜〜〜〜〜 なんか やっぱり 難しい
2007/3/18(日) 午前 4:21 [ 建築や ]
お久しぶりです。そうですね。「帰命」ということ、「礼拝」ということ 〜 「難中の難」ですか?! 「これに過ぎたるはなし」と、親鸞は言っていますね。言っていることが 言葉が聞き慣れなくて 難しいということもありますが、その言葉の言っている内容が 実は 我々人間には 受取り難いということもありますね。ところが 驚くべきことに、文盲の老婆が これを喜んで聞くんですね。ただ、盲目的に有難がっているのではなく、ちゃんと言葉の意味が分かって、喜ぶんです。こんなことが、昔は 有り触れたことだったんです。合掌
2007/3/18(日) 午後 0:35 [ kyomutekisonzairon ]
そうですか、言葉としては わかるのですが、当時としては きっと 大衆の人々、つまり 一般庶民に やっと これらの事が 布教されて みんな 喜んだんでしょうね。親鸞は そういう人だったと 聞いていますし、私も 尊敬する人ですから。 「帰命」や「礼拝」 これは 宗教には 共通する事ですが、形式ではなく 心に 落ちるには 現代では なかなか 難しいと感じています。
2007/3/19(月) 午前 5:02 [ 建築や ]
htkmさんへ。礼拝(腰を曲げて頭を下げる、頭を地につける)が、心から腑に落ちてなされる ということは、本当に難しいことですね。私も 形ではするのですが、心から ということは出来ていません。しかし、これは 出来ない自分を自分が責める(焦る)ことではないんですね。礼拝することによって、絶対者から 心から礼拝していない自分を知らされること、即ち ‘私は 帰命(心から礼拝する)ということが出来ない存在である’ということを 徹底的に自覚せしめられることを、実は 絶対者は 私に願っているんですね。合掌
2007/3/19(月) 午後 6:21 [ kyomutekisonzairon ]
(追って)心からの礼拝(帰命kimyou)は、こうした自覚のところに、絶対者によって 私に恵まれるものなんですね。私が 自分を強いて 礼拝する というのではなく・・・。合掌
2007/3/19(月) 午後 6:29 [ kyomutekisonzairon ]
ビハーラって ご存じですか。ご存じでしたら、どう思われますか。私は 宗教の使命だと思ってますが、私も何も出来ていません。
2007/10/31(水) 午前 6:15 [ sinran ]
ikeotoさんへ。こんばんわ。
ビハーラというのは、最近よく耳にする 仏教精神に基づいた「末期ガンなどのターミナルケア」のことでしょうか?
私は、具体的に よくは知らないのですが、伝統的な仏教が 死者供養から 生者の苦しみに眼を向けるのは、よいことだと思います。
ただ、その場合 キリスト教の伝統を背景とした「ホスピス」というものに対抗した 二番煎じであってはならないでしょうね。
それは、仏教教団が この末期の患者に特化したビハーラに深入りすることは、欧米のホスピスというものに 仏教が振り回されることになりますし、
また、仏教教団が 死者供養に特化したようなことになってはならないでしょうね。
医者の側が、末期患者にたいして ビハーラを選ぶのならよいが、仏教の側が 自己を これに売り込むことになっては よくないと思います。
仏教は、むしろ 西欧医学全般に対して、それに唯々諾々と隷属するのではなく また その二番煎じに甘んずるのではなく、人間の病と死とに対する西欧的な考え方自体に問題を提起し、医療のあり方の方向を変えるくらいの志願が欲しいですね。
合掌
2007/10/31(水) 午後 7:45 [ kyomutekisonzairon ]