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明日の私を 想像することはできる。
しかし、それが 如何に 移ろい易く 止め難い ものであろうと、
私は 明日に居るのではなく、 今に居るのである。
今以外に、 私の居る場所がない!
しかるに、私を存在せしめる 今という たった一つの場は、
あっと言う間に 消失してしまう。
すなわち、一時間前の私は もはや消滅しているのである。
しかし この間、 私は 変ることなく 私であった。
昨日の私 と 今の私 と、
奇妙なことに 同じ私であると 感じている。
これは、記憶という 過去の貯蔵庫があるからか? or 霊魂というものがあるからか?
否、そうではないであろう。
例えば、 この机が ここにあるのは 何故か?
4年前、私が ここに置いたから 今 ここにある。
すなわち、過去のものが 今 あるのは、
私だけではなく、この机も そうである。
机に 自己を記憶する能力 や 霊魂 がないように、 私も 記憶とか霊魂とかがあるから、
今 あるのではない。 記憶が失われても、 私は 今 あるのだ。
すなわち、過去の持続というものは、 記憶という 人間特有の心の働きだけでなく、
広く この世界に行き渡っている 現実である。
机という実体があって、4年前から ずっと ここにあるのではない。
そうではなく、ここに 机を置いた時は、
もはや 永遠に還らない 今は失われた 4年前である。
その過去の 私の行為の結果が、 今 私と机として ここに残っているのである。
今 私は 机の前に 座っているが、 この現実は
過去の そうしたことが無ければ あり得ないことである。
すなわち、私が 過去のことを記憶するまでもなく、
今の現実に、 過去が ここに露出しているのである。
合掌
● kyomu- の アッピール ●
原子力発電を やめよう! & 六ヶ所村再処理施設を 止めよう!
―――― 欲望の奴隷になって、冷静な判断を失うまい!
子孫に 我らの負債を 残すまい! ――――
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あくまでもひとつに意見ですけど、
その場合「レベル」というのは霊的次元を上げること(虚無的存在論さんは、霊という言葉は嫌いかもしれませんけど(^^
レベルを上げるとは、仏や神の域に「一段階ずつ」近づくということです、その種の形而上学では。
2009/3/23(月) 午後 9:53 [ カール(カヲル32) ]
仏教では、「罪悪を感じる肉体のある世界」は存在しない(一切、空)なのではないですか(^^)
色即是空、空即是色とも言いますけど(^^
2009/3/23(月) 午後 9:56 [ カール(カヲル32) ]
私は最近「罪悪感そのものがエゴに属する」
「エゴがなくなれば、罪悪感もなくなる」という説を肯定し始めています・・。
ブッダやイエスが登場してから、約2000年は「罪悪感が宗教だ」というのが流行りましたが、
2009/3/23(月) 午後 9:58 [ カール(カヲル32) ]
21世紀からは「罪悪感を消す」のが段々主流になっていくと予測しています。罪悪感は、自分だけでなく、他人も傷つけますから。
それと、この世のことは、全て「幻想」「錯覚」の一種とも思っています。
現在の物理学では、この世と見える三次元の世界は、ホログラムの一種ということが、わかっているわけなので・・。
2009/3/23(月) 午後 10:01 [ カール(カヲル32) ]
↑また物理学について書いてしまいましたが(^^
2009/3/23(月) 午後 10:02 [ カール(カヲル32) ]
KAORUさんへ。こんばんわ。
そう、よくお分かりですね。 「霊」という言葉は 好きではありません。
第2コメント。「色即是空、空即是色」という言葉は、よく読んでいただくと、
色(形あるもの)は、即ち これは 空(形なきもの)だ。
また、空(形なきもの)は、即ち これは 色(形あるもの)だ。
ということですね。
だから、「肉体のある世界 は存在しない」と言っているのではありません。
存在しているかどうか? ではなく、<肉体はあるが、その「実体」はない>
と言っているのです。
しかし、これは 概念(言葉)で捉えるべきものではなく、仏の智慧によって
照らしだされた現実を言っているのです。
「罪悪感そのものがエゴに属する」 と仰る「 罪悪 」とは どのようなものと
考えられていますか? 合掌
2009/3/24(火) 午前 0:05 [ kyomutekisonzairon ]
(追って)
再び第2コメント。又、「この世のことは、全て幻想・錯覚の一種」という
KAORUさんの、織田信長や豊臣秀吉バリの「思い」について ―――
この世を浮世(夢幻の如くなり)というのは、ある種の感覚ですね。
まっとうな感覚・感慨でしょう。 仏教も 同じようなことを言います。
しかしながら、仏教の言う「夢幻」と信長や秀吉の言う「夢幻」とは、言葉は同じ
でも 内実は違います。
仏教は、<信長や秀吉の「夢幻」は 迷いの世界である> と言います。
何故か? ――― 彼らの「夢幻」は、彼ら自身が そう見るのですが、その見る主体
は、ものを間違って見る 人間の目しかもっていないからです。
仏教の「夢幻」は、人間が見る「夢幻」ではなく、仏(絶対者)の見る「夢幻」
です。 絶対・無限は、相対・有限を「夢幻」と見るのですね。
ただし、このことも 概念で捉えるべきものではありません。合掌
2009/3/24(火) 午前 0:31 [ kyomutekisonzairon ]
信長・秀吉バリのつもりはなかったんですけど(^^
仏教について語ろうとしてたんですよ(^^
2009/3/24(火) 午後 9:15 [ カール(カヲル32) ]
虚無的存在論さんは、瞑想を毎日なさってるのでしょうか?
2009/3/24(火) 午後 9:17 [ カール(カヲル32) ]
KAORUさんへ。
思いもよらないことを聞かれて、面食らわれたでしょうね。
私は、
「 この世のことは、全て幻想・錯覚 」という言葉と「 罪悪感を消す 」という言葉を
見て、彼らを思い出したのです。
織田信長は、幸若舞『敦盛』の一節「 人間五十年。下天のうちをくらぶれば
夢幻の如くなり。ひとたび生をうけ 滅せぬもののあるべきか 」を、
特に気に入っており、残忍な その 数々の所行(罪悪)で、有名な人ですね。
また、戦争と謀略に明け暮れた豊臣秀吉の辞世の句は、
「 露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢 」
というものでしたね。
彼らの人生の意味を 根本的に考えるのも、仏教なんですね。
ところで、
私は 「瞑想」はしていません。「迷走」や「妄想」は 毎日のことですが・・・。
ただ、そうしたなかで、お念仏を申しています。合掌
2009/3/25(水) 午前 1:11 [ kyomutekisonzairon ]
虚無的存在論さんにとっては、「考える」のが仏教なんですね(^^
虚無的存在論さんは、「霊」というコトバはお嫌いで、輪廻転生は信じないそうですが、人間は体に属するもので、カラダが死んだら、人間は無になるという、お考えであるということでしょうか?
2009/3/25(水) 午後 3:02 [ カール(カヲル32) ]
こんばんわ。 そう、仏教は 「考える」ですが、ヤミクモに考えるのでも、
科学や哲学のように 即ちアリストテレスやデカルトのように考えるのでも
ありません。
仏教は、「(教えを)聞いて 考える」ですね。そして、「実践する」です。
死んで、この肉体が 野に朽ち 或は焼却場で焼かれたら、肉体は バラバラに
なって 二度と元の肉体にはならないでしょう。
では、自己意識は? これも この世から無くなって、二度と元の自己意識に帰ら
ないでしょうね。
すると、私は 唯物論者なのか? というと、そうではありません。
唯物論者は、自己と世界を 自己の外に見て、それを云々しています。
即ち 彼は、自己と世界の外にあって、それを見ています。
彼は その時、自己からも 世界からも 疎外された存在となっています。
従って、彼は この「疎外感」に悩まざるをえず、自己の存在理由を喪失して、
つねに 自己と世界への不満足感に苛まれます。(続)
2009/3/25(水) 午後 7:11 [ kyomutekisonzairon ]
死ねば 自己意識も(まして霊魂というようなものも)無くなってしまうという
唯物論者の この考え方は、自己よりも物質を偏重しての考え方ですね。
死ねば バラバラな物質に帰るというわけですから。
また、霊魂の不滅ということを考えている人は、やはり 自己と世界の外に 自分を
置いて、自己と世界を見ていますね。すなわち 唯物論者と同じく 自己からも
世界からも 疎外されていて、その疎外感・不満足感・存在の欠損感に苛まれます。
それ故、この人は 物質よりも自己を偏重して、この肉体は崩壊しても 自己は
崩壊しないとして 霊魂の滅びないと考えるのでしょう。近頃流行の輪廻転生です。
どちらも、根本は 同じです。
すなわち、自己と世界を 外に見るという見方・考え方を取っています。
逆に言うと、自己と世界の外に それを見る自己・考える自己を仮構しています。
この見る(考える)自己が、唯物論とか輪廻転生とかを作り上げています。(続)
2009/3/25(水) 午後 7:29 [ kyomutekisonzairon ]
「唯物論は真実か否か?」という問いと同じく、「輪廻転生が本当かどうか?」
という問いは、間違った問いの立て方ですね。
すなわち、別の言葉で言うと、「死後の存在は 如何なるものか?」という問いは
‘一辺が10cmの正方形の半径は幾らか?’というふうな意味の無い問いです。
本当は、「どうして 死後を そんなに問題とするのか?」というふうに問うべき
なのでしょう。
そこに見えてくるのは、
死後を問題としている(せざるを得ない)自己が 如何なる場に立って、これを
問題としているか? 死後を問うている自己とは 如何なる自己か?
ということなんですね。
これが、仏教の問いの立て方なんですね。 合掌
2009/3/25(水) 午後 7:45 [ kyomutekisonzairon ]
釈尊が悟りをひらいたのは、瞑想の果てであると広く知られていますが、瞑想については、どうお考えですか?
一般的には、因果応報も仏教思想だと思いますが、因果応報については、御意見がありますか?
2009/3/25(水) 午後 10:43 [ カール(カヲル32) ]
現在もっている「このカラダ」を離れた意識というものについては、なにか御意見がありますか?ちょっと、お答えがわかりにくかったので・・。ごめんなさい。
仏教経典には、ブッダが悟ったとき、それまでの前世を何十種類も思い出したというような記述がありますが、
虚無的存在論さんが仏教と考えていらっしゃるのは、どのお経の、どの部分ですか?
虚無的存在論さんは、どの本やお経から、仏教を学ばれたのですか?
虚無的存在論さんには、お師匠さんがいらっしゃるんですね(^^
2009/3/25(水) 午後 10:46 [ カール(カヲル32) ]
KAORU2さんへ。 こんばんわ。 たくさん 質問 ありがとうございます。
何か、インタビューのようですね。
まず、「瞑想」について。
釈尊のは、ふつう「禅定(ぜんじょう)」と言いますね。インドでは、これは戸外で
やりました。人里 離れた樹下などで。雨季には 屋根のある所でやりました。
この修行のやり方は、今日 「禅宗」が専売特許にしていますね。
大乗仏教は、みな 禅定を大切にはしますが、必ずしも その修行は ‘禅定だけ
でなくてはならない’とはしません。
禅定は、「六波羅密(六度)」の修行体系の中の一つですし、
この禅定は、またヨーガ(唯識)の修行体系では 「止観」と言われますね。
この「止観」は、浄土教においては 「五念門」の修行体系に編成し直され
ています。 私が学んでいるのは、この浄土教です。
浄土教は、昔より「三経一論」と言って、三つのお経と一つの論を大切にします。
「大無量寿経」「観無量寿経」「阿弥陀経」の三つの経典と天親(世親)の
「浄土論」及び、この論を 中国の曇鸞が釈した「浄土論註」ですね。
(続)
2009/3/26(木) 午前 1:24 [ kyomutekisonzairon ]
私は、師より これらを中心に、「念仏申す」ということを教わりました。
「 因果応報 」について。
因果応報とは、ふつう「因縁」とか「縁起」とか言いますね。
ものが生起消滅する この世の有り様を、釈尊は「無常」と言いましたが、それを
別の観点から「因縁」と言いますね。 因縁については、このコメント欄の
第4番目に swnfm-さんへのコメントとして ちょっと述べています。
ただ、
仏教説話にある「前世の果報としての今世」とか「今世の果報としての来世」を
言うのではありません。
あくまでも、この世の有り様(「無常」の世界)の見方です。
カラダと意識とを 別々のものと考えることは、仏教ではありません。
これは依報(カラダor物質世界)・正報(自己意識)といわれますが、仏教は
「依報不二」と言います。2つが離れたら、2つともその存在性を失います。
すなわち、カラダと意識は 別のモノですが、しかし 丁度 紙の裏表のように
別々にすることができないものと考えます。 我々の これが現実でしょう。
現実に即して、仏教は モノを考えます。 合掌
2009/3/26(木) 午前 1:58 [ kyomutekisonzairon ]
なるほど。浄土教から勉強されているわけですね。お答えくださって、ありがとうございます。
仏教といっても、流派によって違いますので・・。
いろんな仏教があるともいえますし、それでいいと思ってます^^
2009/3/27(金) 午後 8:32 [ カール(カヲル32) ]
KAORU さんへ。う〜ん、なるほど。仏教は 流派によって違いがありますね。
しかし、「 いろんな仏教 」があってはなりませんね。それでは、「仏」教ではなく
「宗祖」教になりますね。
「いろんな仏教」があって、「 それでいいと思 」った瞬間に、それは仏教では
なくなります。
およそ、それが仏教と言う限りは、ここの処の厳しさを失ってはなりませんね。
他宗をも批判できなくては、仏教ではありません。合掌
2009/3/27(金) 午後 8:54 [ kyomutekisonzairon ]