|
★ イスマーイール・パシャ ( 1830 〜 95 )
ムハンマド・アリー朝( 1805〜1953 ) の第5代(在位1863-67)
** 創始者ムハンマド・アリー( 1769?-1849 トルコ語:メフメト・アリー )は、
マケドニアの港町カヴァラの商人だったが、ナポレオン(1769-1821)のエジプト侵攻に
対抗すべく オスマン帝国が 徴募・派遣したアルバニア人非正規軍の将校の一人
となり、侵攻に伴う戦乱状態を制して、1805 住民により エジプト総督に推挙さる
エジプトは、オスマン帝国支配下の州で、長らくマムルークら在地の有力者による
実効支配で半独立的状態だったが、オスマン帝国の承諾を受け 正式に総督に就任
カイロ城塞の大量殺戮でマムルーク勢力を一掃、エジプト支配権 掌握(‘11)。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A0%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%83%9E%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%AA%E3%83%BC
‘07 エジプトに上陸した英軍を破る /‘20 ナイル川上流のスーダンに進出、
その北部を版図に加う /‘21 ギリシャ独立戦争 〜 マフムト2世の援軍要請に応う
‘27 ナヴァリノ海戦で大敗
‘31 オスマン帝国に、出兵の見返りに約束されていた シリアを要求
ギリシア抑圧失敗に悔やむマフムト2世は アリーの要求を無視、クレタとキプロス
2島のみ領有を認む
この年、コレラ流行 〜 カイロの死者 3万人
イブラーヒーム・パシャ( 1789-1848 在位:1848 )
‘10 財務長官になり 財政基盤確立に貢献 /‘18 アラビア戦役に従軍、
遠征軍司令官として すぐれた軍事的才能を発揮し、第一次サウード王国を滅す
/‘ 32 第1次シリア戦役で活躍
( → 露<土側>/仏<エ側>、英の介入 ‘33 列強の干渉で キュタヒヤ条約
〜 オスマン、シリアと小アジア南部のキリキア地方をエジプトに割譲
露とウンキャル=スケレッシ条約〜秘密条項:露のトルコ援助の代償に、
ボスフォラス=ダーダネルス両海峡の通航権は露軍艦が独占
→ 英・仏 反発、 )
シリア統治、その近代化政策は 地元の反発を招く
【 第一次エジプト・トルコ戦は、アリーの政治的勝利に終わり、エジプトは
スーダンとシリアに加え、アラビア半島中央部のナジュド地方やイエメンも
勢力圏内に置き、オスマン帝国宗主権下に広大な支配地域を確立
しかし、この戦争は 宗主国・オスマン帝国のアリーへの敵意を煽り、
また ペルシア湾やアデンで アリーと勢力圏を接するようになった英国との
対立を深めることになった 】
‘37 ヴィクトリア女王即位( 18歳 〜1901 )
21歳、従弟のアルバートと結婚
‘61 42歳、アルバートを病気で失う
それ以来ずっと悲しみに沈んで、いつも喪服を着て悲しい顔をしていた
一時は、完全に引きこもり 女王の職務さえ果たさなかった
‘38 トルコ=イギリス通商条約 〜 外債導入・市場開放
/‘39 第2次シリア戦役に勝利(トルコに露、エジプトに仏が援助する)
→‘40 露・墺・普・英、四カ国協定
―― アリー、英に屈服
アリーのエジプト総督職の世襲権容認/シリアとクレタ・キプロス両島の返還
/エジプト軍備の縮小/総督世襲領域のエジプト限定/オスマン帝国スルタン
への臣従/露、ボスフォラス・ダーダネルス両海峡通航権を返還
アッバース・パシャ( 1812-1854 在位:1848〜54暗殺 )
サイード・パシャ( 1822-63 在位:54〜63 )
名君として評価されるが、スエズ運河開発によって財政を悪化させた
少年時代の家庭教師:フェルディナン・ド・レセップス(1805〜94)
‘51 オスマン政府より鉄道利権取得、スティーヴンソンと鉄道建設を契約
‘53 ペリー、浦賀に来航
クリミア戦争(〜 56)
ナポレオン3世(1808 - 1873 在位:1852〜70)の進言で、トルコ皇帝が
聖地エルサレムの管理権をギリシャ正教徒から奪い、カトリック教徒に与えたため、
ニコライ1世(1796 - 1855 在位1825〜55)、オスマン帝国に抗議し またトルコ領内
のギリシア正教徒保護を要求、
これが拒否されると トルコに宣戦
・・・・・ ということになっているが、・・・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%9F%E3%82%A2%E6%88%A6%E4%BA%89
‘55 カイロ−アレクサンドリア間の鉄道開通
‘56 フランスのレセップス、スエズ運河利権取得
英国は、インドへのルートとして、スエズ-アレクサンドリア間の鉄道建設を
始めており、レセップスの運河計画に激しく反対、度々 工事の着工を妨害
‘57 官用語をアラビア語と制定
インドで、セポイの反乱
翌年、ムガール帝国 滅
‘58 カイロ−アレクサンドリア−スエズ間の鉄道開通
‘59 4月 スエズ運河 着工(〜‘69 開通)
地中海岸の出口となる新しい港ポートサイドの起工式で、レセップスは、
< あなたがたが 運ぶものは、単なる土ではない
それは、あなたがたの家庭とこの国に、繁栄を運ぶのだ >
と高らかに宣言した
工事は、150万人のエジプト人による無給労働 と 工事期間中に12万5000人
の死亡者(主にコレラ)を出した
また、英国は スエズ・アレクサンドリア間の鉄道建設の時 エジプトの強制労働
に頼ったが、それを棚に上げて 仏国による強制労働をさかんに非難した
‘61 プロイセン、ヴィルヘルム1世即位
サルディーニャ王国、イタリア半島統一(イタリア王国成立)
‘63 ロンドンで世界最初の地下鉄が誕生
仏、カンボジアを保護国化
‘66 ノーベル、ダイナマイトを発明
‘67 郵便事業開始
この後、カイロ新市街 次第に建設される
‘68(明治元)
‘69 11/17 スエズ運河 開通 〜 仏との共同所有
→ 建設費はかさみ、その財政負担は エジプトの経済的自立に決定的な打撃となる
開通式ために ヴェルディのオペラ「アイーダ」の上演が予定されていたが、
完成が間に合わず、代わりに「リゴレット」上演
スエズ運河を利用する船で 毎年一番多いのは英国船であった
オペラ・ハウス開館
国立図書館開設
イスマーイール第2回欧州歴訪
‘70 普仏戦争、仏 第二帝政崩壊
‘71 カスル・アンニール橋開通(タハリール橋、カイロ−ゲズィーラ南部間)
オペラ「アイーダ」初演
‘75 11/ 運河会社の株を 英に売却
( 英首相:ディズレーリ 1804〜81、在任‘74〜80保守党/伊系ユダヤ人
購入資金は ロスチャイルド銀行からの借入 )
株17万6602株売却を伝えられた仏政府は、運河開通後1年で 大きく変っていた
‘70、ナポレオン3世は普仏戦争に敗れ退位、仏は 独に50億フランもの賠償金を課せられ
ており、とても巨額のエジプトの持ち株を買取る余裕はなかった
‘76 これ以降、国家財政は 英仏の管理下に置かれる
‘77 国庫歳入の79%が債務返済に充てられる状態、農民は重い税負担に苦しめらる
英領インド帝国成立(〜1947)
‘78 エジプトの債務返済に関する国際委員会開催
‘79 英と仏、イスマーイールを退位させ、従順なタウフィークをヘディーヴに据える
「祖国党」結成 ( 初の民族主義政党 )
‘80 第2次グラッドストン(1809〜98)内閣(〜85) 自由党
‘82 ウラービー陸軍大佐(1841〜1911/ 祖国党)ら 反乱を起す
翌年 陸軍大臣に就任して自由主義的な憲法を発布させる
英、 (スエズ運河保護の名目で)エジプトを軍事占領
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%93%E3%83%BC%E9%9D%A9%E5%91%BD
【 エジプト最初の民族革命。「 エジプト人のためのエジプト 」 をスローガン
としたアラービー=パシャの運動は、その後のエジプト民族主義運動の原点 】
‘82 英、エジプトを保護国化する
――→ 英国 3C政策 ( ケープタウン・カイロ・カルカッタ )
やがて、ドイツの 3B政策 ( ベルリン・ビザンティウム・バグダット )
と対峙、 第一次大戦へ
【 英国は、以後72年間にわたって スエズ運河地帯を支配下に置くことになる 】
この頃、ホテル建設多数(サヴォイ・ホテルなど)
ピラミッド付近の超高級ホテル、メナ・ハウス営業開始
‘91 カイロ動物園開園
1902 コレラ流行
ザマーレクの水族館開館
‘06 現在の新市街の中心部ガーデン・シティ開発開始
郊外の高級住宅地ヘリオポリス開発開始
‘08 エジプト大学設置 (現国立カイロ大学の前身)
‘14 第一次世界大戦
エジプト、英国の保護領となる
‘18 第一次世界大戦終結 〜 パリ和平会議へのエジプト代表団派遣運動
‘22 エジプトの名目的独立
この頃、民間の中小ラジオ放送局乱立
‘23 エジプト憲法制定
‘25 週刊誌ローズ・アルユースフ創刊
‘26 ワフド党、第三議会選挙に圧勝
‘28 ハサン・アルバンナー、イスラーム復興運動組織のムスリム同胞団結成
|