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先日、「 消費は美徳か 」の記事における 私のコメントに対して
swnfm-さんから 厳しい問いを頂き、
これに対する私の考えを その記事のコメント欄に記しておりましたが、
案に相違して 長いコメントとなり 未だ答えきれない状態です。
http://blogs.yahoo.co.jp/kyomutekisonzairon/54163248.html
また、「水がめ座」さんなどからも、様々な意味での困惑のメッセージを頂き、
いろいろ考えた末、ここで かのコメントを
「 時間とは何か? 」 という題でシリーズ化することで、
私の趣意を より分り易くできるのではないか? と考えました。
明らかにしたいことは、
救いとは何か? 魂はあるのか? この世で生きるとは何か? 修行の場なのか?
また、輪廻とは何か? 浄化とは何か? 浄土はあるのか? etc.
といったことです。
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そもそも、我々は 「未来」という時間を どのように考えるべきでしょうか?
もっと言うと、「過去」「現在」という時間も どう捉えたらよいのでしょうか?
すなわち、「時間」とは そもそも 何なのでしょうか?
我々は、「時間」というものを 多義的に捉えています。
物理学の時間 や 暦の時間、また 民族の歴史 や 個人の成育史 としての時間、
さらに日常の時計の時間・・・。
どれも それぞれに役割があり、我々にとって 無くてはならない時間です。
( 今日 暦法は、我々は イスラム暦ではなく キリスト教暦を拝借しています。
一応 外向きには 仏教徒にもかかわらず、我々は仏暦ではありませんし、
昔の五行・十干・十二支という中性的なものでもありません。
この暦法というものは、我々日本人(及び世俗化した欧米人)には、単に その利便性
〜 この利便性ということの意味を 我々は深く考えなくてはならないでしょうが 〜
のみから使用しています。
ムスリムやキリスト教徒やユダヤ教徒の暦法は、単に利便性だけではなく、彼らの
時間感覚そのもの、従って 彼らの生 や その共同体そのもの、そして 信仰生活
そのものでしょう。
暦法というものは 件の共同体の秩序を与えるものですから、昔から その共同体の
精神的or物理的な統治者の定めるものでした。 )
ところで、我々は 今日 どのような 「時間」 (歴史感覚ie.生活感覚ie.生の感覚) の中に
生きているのでしょうか?
これを思う時、今日 我々日本人は
極めて混乱した 「時間(感覚)」 の中に生きていることに気付きます。
「時間」 が混乱しているということは、生き方が混乱していることでもあります。
そして 結局、実利的な時間に追いまくられて、生の意味 従って 自己を喪失してしまいます。
参考:「西暦2006年になりました」 http://blogs.yahoo.co.jp/kyomutekisonzairon/22017387.html
そもそも 「時間」 とは 何なんでしょうか?
過去から 現在を通って 未来に続く 価値中立の のっぺらぼうな時の流れなのでしょうか?
それとも、過去から未来に向かって 何か 向上発展していく流れなのでしょうか?
或は 逆に、だんだんと悪くなり退化して流れていくものなのでしょうか?
また、それは 前もって 全てが決定されている必然的な流れなのでしょうか?
或は、予め 将来の全てが決定されたものではなく 気紛れに流れていくものなのでしょうか?
また、時間の流れ ie. 物事の生起消滅は、どういうふうに起るのでしょうか?
何か それを司るものが居る(ある)のでしょうか?
それとも、主宰神にせよ 法則にせよ、そんなものはないのでしょうか?
こうした疑問を 昔から 洋の東西を問わず 人は、時間というものに対して 懐いてきました。
今日の我々は、科学技術の様々な発見・発明の連続による生活の変化や 時代と共に種々の
権利を得てきたのを見て、 時間の流れが 人類の向上発展を現わしている と思われる証拠
を沢山挙げることができ、 人類は 段々と進歩していくものだということを 半ば信じています。
しかし、一方で そうではないように思われる 様々な事象が、我々に 将来への不安を掻き立て、
また ある場面では 人に 将来への絶望を懐かせざるを得ない現実も 顕わになっています。
参考:「時間について」 http://blogs.yahoo.co.jp/kyomutekisonzairon/11345272.html
我々は、ここにおいて 時間というものを、より根本的に考える必要があるようです。
合掌
(つづく)
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この記事を読んで感じました。私たちというか、中華文化のもっていた五行、十干、十支を組み合わせた暦では多分、巡り合わせとか、巡ってくるということを意識したのではないでしょうか? ただ増加して行くというのではなくて、、、 時間は自然の変化、体の変化(成長と老化)にも関係して感じていると思います。東洋的時間がほしいと思うこのごろです。最近の言葉ではスローライフとかいうのでしょうか。
2008/1/26(土) 午後 7:23
saidakyokoさんへ。 なるほど、中国の暦は 循環しますね。
仰るように、暦法というものは どれであれ それを創出した民族の自然観・世界観
などを基礎としているのでしょうね。
そして、その暦を使う人々は その自然観・世界観を共有することになるのでしょう。
すなわち、その文化領域内で 場所(空間)を異にしつつ、「時間」したがって運命
を共有するのでしょう。
西暦使用が、わが国で 一般化したのは、1964年(昭和39年)の東京オリンピック
以降のようです。
「 高度成長期を経て、キリスト教文化圏の情報が 日本人社会の中でも 日常的に
扱われるようになり、さらに元号が昭和から平成に替わってから、ますます西暦
を常用として生活する人々が多くなってきた 」(Wikipedia)と言います。
国際化にのめり込む中、我々にとって この抽象的・実利的時間を優先して生きる
という時代に 我々はありますが、これが 自然環境への我々の活動の負荷を抑制
する力とはならないばかりか、かえって それを助長する「時間」でしょうね。合掌
2008/1/27(日) 午前 9:49 [ kyomutekisonzairon ]
(追って)
したがって、この西暦の「時間」が、自然 従って人間(生活)の破壊を進めている
とすれば、今後 創出すべき「時間」は 経済合理性や物理学を基礎にした「時間」
ではなく、こうしたものに 我々人間が 暴走するのを 危険視し抑制する思想を
基礎としたものでなくてはならないでしょうね。
それは 物質の性質に依拠したものではなく、人間の生の有り方に根ざした「時間」
でなくてはならないでしょう。
こうした意味では、五行・十干・十二支は 極めて優れたものでしょうね。
西暦には、人間学が抜け落ちています。 これは、出来損ないの暦法ですね。
合掌
2008/1/27(日) 午前 10:11 [ kyomutekisonzairon ]
ぉはょ!ございます元旦愛'一連のお書き込み心して拝読致しました。
今年も宜しくお願い申し上げます(^〜^) 頓首
2013/1/1(火) 午前 11:04 [ {^美м楽^} ]
{^美м楽^} さんへ。こんばんわ。
読んでいただき有難うございます。
この記事を書いて4年が経ちましたが、この間 事態は想像もつかない展開
を辿ってきました。
改めて、気合を入れ直さなくてはならないことを気付かせて下さいました。
本年も よろしくお願いいたします。合掌
2013/1/1(火) 午後 9:27 [ kyomutekisonzairon ]