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〜〜〜〜〜(つづき)
こうした「時間」についての問いは、 「時間」そのものに対する問いであると同時に、
そうした問いを出す者自身の有り様を 問わねばならないという課題を孕んでいます。
すなわち、【 誰が どういう意図(心根)で この問いを発するのか? 】 という・・・。
例えば、時間を 時計の時間or物理学的時間としてしか思っていない人に対して、
‘ あなたは もう若くはない。人生の半ばを とうに越えて あなたに残された時間は
少なくなった。 老後のこと・今までの生き方について 今一度考え直したほうが
よいのではないか? ’
と言う時とか、 また 打ち続く不幸に 打ちひしがれている人に、
‘ あなたは 自分の将来を悲観絶望して “これが私の人生”と決め込んでいるが、
< 人生を結論とせず 人生を縁として生きる > という生き方もあるんだよ ’
という場合のように、
ある特殊な時間観念に執(とら)われている人に対して、
「 あなたの 時間の捉え方 は、どこか間違ってはいないか? 」
という問いを発することが 我々にはあります。
「時間」というものが、客観的に こうこういうものとしてある、と言う(見る)のは、
即ち 時間の「実体化」という 我々人間の モノを見る際のクセ(我執の一種)に由来しています。
かのデカルトは、わが<思い>以外の<モノ>を <延長>と<運動> として既定することで、
その後の自然科学が 長足の発展を遂げる礎石を置きました。
これは 又、「時間」というものを 物理的時間としてのみ認め、その他の時間を 客観的ではない
主観的なもの と一括りにして、それらを貶した社会を到来させることでもありました。
彼の世界観 従って「時間」の見方は、後の資本主義社会の発展にも 多大の寄与をしました。
( 「時間」というものは、モノの変化を認識する 我々の尺度でしょう。
‘時間があるのではなく モノの変化がある’ というのは さすがに 今日の物理学でも
常識的なことでしょう。
しかし、物理学に代表される科学は、この‘モノの変化’というときの‘モノ’を、
特殊なモノ(ie.物質や現象)に限りました。
この為に、自然科学は その力を発揮できたのですが、
逆に この計量可能な「客観的時間」による世界認識は、我々に 多くのモノを喪失させ
たことを 我々は 知らねばなりません。
「変化」は、科学が対象としてきた「モノ」だけではなかったのですし、
我々人間にとっては、もっと切実な「変化」する「モノ」があったはずなのです。
デカルトは、不毛な形而上学的「時間」の思弁(時間の実体化)から 西欧人を解放
しましたが、 彼自身は また「時間」を 特殊なモノを計量可能(明晰判明)にする
ie.自己の管理下に置く ための手段以上には 見做しませんでした。
彼は、自然の支配者になることは 目指しても、自然の中に生きる人間となること
には 無関心でした。
彼は、その口癖である「明晰判明」を モノにおいて適用はしても、彼自身に適用する
ことには その思惟の初めの あの粗雑な適用以外は 不熱心でした。
〜 これは、彼に限らず 西欧哲学一般が持つ 悲しい業ですし、西欧の思惟の密めた
動機・意図が ここにあるのでしょう 〜 )
参考:「科学と因縁について」
http://blogs.yahoo.co.jp/kyomutekisonzairon/13421916.html
http://blogs.yahoo.co.jp/kyomutekisonzairon/14010282.html
http://blogs.yahoo.co.jp/kyomutekisonzairon/16186395.html
http://blogs.yahoo.co.jp/kyomutekisonzairon/18010306.html
合掌
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4.科学・技術の批判は、第一義的に 誰か他の科学者・技術者への批判ではなく、
これ(科学・技術)に対する 私自身への批判です。
‘科学・技術を 私がどう見ているか? その見方・考え方は 問題が無いか?’
と、科学・技術を 自らの存在の無謬の前提にすることなく、私自身を問うことです。
なぜなら、もし 科学技術がなければ、今日のような地球規模での人間活動 ――
例えば、ごく普通のわが国の男女が 単に チョットした思いつきで、世界の何処でも
物見遊山の旅行が、普段着で雨風に晒されずにできます。 また この自分の行為に
何の罪悪感もなく・・・ ―― は不可能です。
しかし、この行為には ものすごいエネルギーを使わなくてはできない行為です。
この苛烈なエネルギーの使い方は、地球規模の環境破壊と無縁ではありません。
こうした事が 日常的に可能になった時代に、我々は生きていますが、これは
科学・技術あればこそのことでしょう。(続)
2008/2/21(木) 午後 6:34 [ kyomutekisonzairon ]
すなわち、「 科学・技術批判 」 とは、私自身の生き方の問題なのですね。
これを 仏教と言わずして、何と言えばよいのでしょうか?!
――― 私の生活(生き方)そのものの問題 として、これ(科学・技術)を
私は考えているのです。 すなわち 仏法の問題として 捉えているのです。
第2コメント。
「 圧倒的大多数の人が高い精神性に至るということは そもそもあり得るのか? 」
ですが、このように問われるお心、 よく分ります。
まさに、これは ‘ 何故 この世に不条理があるのか? ’という 我々人間の
根本的な問いと通底した問いですね。
で、この問いに対しても 仏教は、
<対象>を問題とするのではなく、こうした<認識>自体を問題とします。
<対象>とは、「圧倒的に大多数の人々」の「生活」のことですね。
で、<認識>とは、彼らが 「そのような高い精神性とは縁のない生活をしている」
という 私の見方ですね。
この 私の<認識>は、どう見ても 確かなように思えますが、
1.この<認識>は、本当に「現実」を見たものと言えるだろうか?
(続)
2008/2/21(木) 午後 7:10 [ kyomutekisonzairon ]
2.もし、こうした現実があるとして、何故 私は これを問題だと見るのか?
すなわち、この現実を <不条理> と思うのは、どうしてなのだろうか?
と、逆に この世の不条理を問う 私に、仏教は 問い返すのですね。
‘ 君の見方は 本当なのか? ’
‘ 何故、君は 世の不条理を 問題とするのか? せねばならないのか? ’
と、私の 心根を問うのです。
( ちょっと 休憩します ) 合掌
2008/2/21(木) 午後 7:19 [ kyomutekisonzairon ]
仏法との こうした問答を重ねるうちに、我々は だんだんと「 内観 」という方法
を身につけていきます。
外に 事の因を見るのではなく、私自身の内に 事の因を見出すのですね。
<事の因> とは、外に <世の不条理> を見る原因のことです。
また、< 世の不条理 > を見出し、自己以外のものに その因(責任)を置くとき、
その不条理な事に対する 私の態度として、
1. それは 私の責任ではないとして、それから背を向ける。事柄からの逃避です。
‘それは どうにもならないことだ’と 現状へ居直って、その解決を断念する。
いわゆる悲観主義であり また現実主義です。
2. それは **の責任だ・**の所為seiだとして、**を非難し攻撃する。
自分を棚に上げて、他を非難攻撃することに 始終する訳です。 責任転嫁です。
3. それは **を因とする故に、**と戦い **を打ち倒して、理想的な状態
を この地上(この世)に 実現しようとする。いわゆる理想主義です。
(続)
2008/2/22(金) 午前 0:08 [ kyomutekisonzairon ]
今の場合は、「 圧倒的大多数の人に 高い精神性 」 を実現するということにおいて、
この3つの態度が 我々の 普通の態度でしょう。
これが世に実現できない原因は、それこそ 人によって 種々様々に見出します。
特に この場合は、人間自体が それ( 社会の大多数の 高い精神性 )を実現
することができない存在だ と、人間のサガに、その原因を見ることが多いですね。
また、この不条理を 我々は何とかしようとして、
昔から 様々な宗教や哲学・思想が唱導されてきたのですが、
もし、我々が <自分の力>で、この地上に理想的な社会or国家を実現できる
〜 社会の大多数の人々に 高い精神性を実現できる 〜 と考えれば、
それは 全く 間違っているというのが、仏教の言うことですね。
(今日は ここまでにします) 合掌
2008/2/22(金) 午前 0:37 [ kyomutekisonzairon ]
ところで、
< 真理というものは、万人に公開されている > というのは、洋の東西を問わず
昔から言われてきたことです。
( ただ、この真理というものの捉え方が、近代西欧と それ以外では
随分と 違います。近代西欧のは デカルト的真理という特殊な真理概念
で、これを B.パスカルは <無用にして 不確実> と言っています。 )
そこで、こうした 昔からの 真理においては、
「圧倒的に大多数の人々が そのような高い精神性を得られる」
ということに対する疑いは、正当化されないことになります。
どうしてなのか?
――― 私には とても 「圧倒的に大多数の人々が 高い精神性を得られる」
ことは、信じられないのですが、しかし < 真理は 万人に公開されている >
のですから。
ここには、< 私の疑いに 問題がある > ということは でてきますが、
< 私の疑いが 正当である > ということは 出てこないことになります。
(続)
2008/2/22(金) 午後 10:52 [ kyomutekisonzairon ]
本当の宗教(真実の宗教)というものは、この 私における矛盾を根として、
そこに その教えが展開しているものなのです。
すなわち、私には どうしても 「圧倒的に大多数の人々が 高い精神性を得られる」
とは 思われないが、「圧倒的に大多数の人々が 高い精神性を得られる」 のだ
という 二律排反 の所に、真実の宗教というものは 成立っているのです。
如何にして この矛盾(二律排反)が 矛盾ではなくなるのか?
――― それは、絶対者によって この矛盾が 矛盾のままに矛盾でなくなる
のですね。
浄土教の言葉で言えば、
‘弥陀の大悲本願によって すべての人は 浄土に往生し 仏と成るのだ’
ということになります。
大乗仏教一般の言葉でいえば、
‘ 一切衆生 悉有仏性、 一切衆生 悉皆成仏 ’ と言います。
これらの言葉ie.事態は デカルト的思惟では、ついに明らかとはならないのですね。
(続)
2008/2/22(金) 午後 11:28 [ kyomutekisonzairon ]
http://pagead2.googlesyndication.com/pagead/imgad?id=CN7x8aGl-8D6SxCsAhjvATIIq2z35VEbQdI
あなたを癒す仏教美術
http://www.rakuten.ne.jp/gold/naka/
仏教終わったな!
おめえも道楽参拝してるしよ
癒しの仏像♪南無阿弥陀仏
念仏となえりゃ誰でも極楽往生!
楽しもうぜ〜!
2008/2/22(金) 午後 11:40 [ 超仏陀 ]
死を前にした人に、
‘ 心配ない 心配ない。 なむあみだぶつ と念仏申そう。
阿弥陀さまは 必ず あなたを救ってくださるのです。’
と言い得るのですね。
** ここで、< 救う > とは、イエスや釈迦と同じ精神性を獲得することです。
社会全体を救うのは、デカルト的知性による 我ら人間の理想ではなく、
絶対者の智慧と救済意志によることなのですね。
デカルト的知性では、社会全体の救いということは 永遠に実現不可能です。
我々は、自己の力による 社会の救済ということを明らかに断念した時に、始めて
そこに 社会全体の救いの可能性が開けてくるのですね。
合掌
2008/2/22(金) 午後 11:42 [ kyomutekisonzairon ]
ん? これは「超仏陀」さんではないですか! ビックリしました。
仏像・仏画を売る商売をはじめられましたか?
ですが 残念ながら、私は 自分で 慣れない筆で書いた「南無阿弥陀仏」を
<おとこ>に掲げていますが、これで十分なのです。
それに、私は 仏像を見て 癒されようとは、思ってはいないのです。
また、恐らく このブログを見て、苦しい思いをする人は出てきても、
癒される人は おられないのではないでしょうか?
もし、癒される人がおられたら、 何か間違って 記事やコメントを読まれて
おられるのでしょうね。合掌
2008/2/23(土) 午前 0:06 [ kyomutekisonzairon ]
(引き続き)
「 仏教に布教という概念はない 」 でしょうね。
「布教」とは、キリスト教的文脈の言葉ですからね。
よく似た仏教の言葉としては、「流通(るずう)」とか「教化(きょうげ)」とか
といったものがあります。
しかし、これは 他人にその信仰を伝えるという所は似ているように見えますが、
キリスト教のものとは、その文脈・考え方・意義が違います。
その違いの現れとしては、キリスト教のような 他人に対する執拗なお節介が
仏教にはありません。もっとナイーブに他人に語り掛けます。
(もっとも、仏教の中でも 日蓮の流れは、お節介が好きですが・・・)
でも、ナイーブだということは、他人の運命に淡白だというのではありません。
それは それは 痛切な関心と責任感を持っていますが、その現れ方が違うのです。
普共諸衆生 往生安楽国
(あまねく ものものの衆生とともに 安楽の国に往生せん) とか、
(続)
2008/2/23(土) 午前 0:53 [ kyomutekisonzairon ]
願以此功徳 平等施一切 同発菩提心 往生安楽国
(願わくは この功徳をもって 平等に 一切に施し、同じく菩提心を発okoし
安楽国に往生せん)とか、
吾誓得仏 普行此願 一切恐懼 為作大安
(吾れ 誓いて 仏を得んに、普ねく この願を行じて、一切の恐懼kuku〜恐れ懼れる者〜に ために大安を作naさん)とか
といった他者に対する願・姿勢を、仏教はもつのです。
しかし、 最後は 彼の運命を、その人自身の意志の選択に委ねるのが仏教です。
( ここのところが、仏教の他の運命に対する責任感の驚くべき深さです。
これは、現代流の個人の自由の尊重とかというものとは、しかし 全然違います。 )
合掌
2008/2/23(土) 午前 1:04 [ kyomutekisonzairon ]
●「 宗教信仰は 自己満足ではないか? 」
これは、微妙な問題です。
「自己満足」とは、その信心が 客観性のない 主観的なものということですね。
別の言葉で言えば、独善的で ナルシシズム(自己陶酔)で、一人決めの満足です。
すなわち、その世界に 他のもの(現実・事実・真実や他の人)を容れないで、
それらを無視し 背を向けて 自分だけの世界に閉じこもるものですね。
自分だけよければ 良い訳で、事実がどうあろうと 他人がどうであろうとも、
いっこう関心がないわけです。
虚偽を真実と為し 幻想を現実と為し、それで やっと 自分を支えようとします。
すなわち、この人は 現実に触れる事を恐れ 真実を見るのに耐えられずに、
現実を逃避し 真実を無視して、手前勝手な主観的な世界を仮構して その内に
安らごうとするのですね。
そこに 他人が居ても 物があっても、それらは 自分のための道具以上のもの
ではなく、それを自楽のための手段とする以外のものとはなりません。
信仰も 卑しい自己を護る 甲冑であり 城となります。(続)
2008/2/23(土) 午前 8:55 [ kyomutekisonzairon ]
即ち 信仰は、自己中心・自己主張・自己満足・自己弁護・現実逃避の具となり、
そうした自己を正当化すべきものとなります。
恐らく、これから免れる人は 誰も居ないでしょうね。
これは、宗教をやっていようが やっていまいが、人間共通の 深いサガですね。
どんなに賢い人も 科学者も哲学者も、誰も こうした自己満足というものから
自由な人がいないのは、多くの宗教信仰の人と同じでしょうね。
問題は、我々が 自己(他人のではない!)のこうしたあり方に どれだけ自覚的
であろうとしているか? 自覚的でありえるか? ということですね。
すなわち、自己満足が悪いのではなく、
自らの自己満足を自覚していないのが問題なのでしょう。
ソクラテスは < 無知の知 > と言いました。 自分は何でも知っている・
知りうるという 一般の人の独善(自己満足)に対して、彼は
< 自分は 何も知っていないということを知っている >
と言いましたね。
(続)
2008/2/23(土) 午前 9:26 [ kyomutekisonzairon ]
仏教も 同じです。
否、仏教は このこと(自覚)に対して ソクラテスよりも徹底的に問題とします。
即ち プラトンを弟子とすることはあり得ないのです。
(プラトンは 彼の学園に入るのに 数学研究を前提としました。
これは、彼が ソクラテスの意義を誤解したためです。)
(つづきは また にします) 合掌
2008/2/23(土) 午前 9:29 [ kyomutekisonzairon ]
ところで、もし その宗教が 真実のものなら、それによって 我々は 自らの存在に
満足せしめられなくてはならないでしょう。
自らに満足できないならば、我々は不満のうちに生きねばならないことになります。
インドの天親という人の『願生偈』には、
浄光明満足 如鏡日月輪 ( 浄光明 満足すること、鏡と日月輪との如し )
衆生所願楽 一切能満足 ( 衆生の願楽する所 一切 よく満足す )
観仏本願力 遇無空過者 能令速満足 功徳大宝海
( 仏の本願力を観ずるに 遇うて空しく過ぐる者なし
よく速やかに 功徳の大宝海を満足せしむ )
というふうに、「 満足 」という言葉が出てきます。(続)
2008/2/24(日) 午前 1:10 [ kyomutekisonzairon ]
前二者は、浄土のはたらきを述べています。すなわち、
< 浄土の清浄なる光明は それ自体 何ら欠けるところなく 満足していて
この世の 鏡と太陽や月のようだ > と言い、又
< 浄土は 衆生(私)の願う(楽も[ねがう])所を、すべて よく満足せしめる >
と言っています。
最後の句は、仏のはたらきを述べて、
< 仏(弥陀)の本願力を 観ずると、それに遇う人で 人生を空しく過ごす者は
いない。 よく 速やかに (浄土及び仏の)功徳の大宝海を その身に満足せしめる >
と言っています。
ここに言っている 「 満足 」 は、いわゆる自己満足ではありません。
浄土自体が、すでに 我々の様々な問題を 十全に解決している場であり、
我々は ここにおいてこそ 真の満足というものが得られるのだと言っており、
(続)
2008/2/24(日) 午前 1:58 [ kyomutekisonzairon ]
さらに、この世の我々は このままでは 欠陥多く遺漏を免れず 日々を空過せざるを
得ない者であり、 不平不満で始終して 本当に満足することができない者だが、
それ故に、仏は この我らを救わんとして 自ら発(おこ)した 本願力に、もし 私が
遇うことができたなら、 必ず 速かに 仏の功徳大宝海を恵まれ、生きていること・
生まれてきたこと、すなわち自己の存在に 本当の満足を与えられるのだ
と言っています。
こういう 「 満足 」 というものが あるのですね。
これは、自己中心に非らず 自己主張に非らず 自己弁護に非らず 勿論 現実逃避
でもありません。
人間を越えた世界で、私的な自己満足をせざるを得ない人間の解決を果し遂げて、
真の 客観的で公平無私の「 満足 」すなわち「 仏 」 たらしめんというのが、
仏教なんですね。 合掌
2008/2/24(日) 午前 2:15 [ kyomutekisonzairon ]
いつもそうですが,言葉を尽くして各論点について解説していただきありがとうございます.何度も読み直して私も少し理解が深まった気がします.少し時間が出来たらまた私の疑問などぶつけさせていただこうと思いますが,どうぞよろしくお願いいたします.
2008/2/28(木) 午前 6:47
こんにちわ。 読んでくださって、有難うございます。
じっくりと ゆっくりと 思惟して頂ければ、幸いです。
合掌
2008/2/28(木) 午後 5:38 [ kyomutekisonzairon ]