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【 覆水 盆に返らず 】 の出典を まず見ておくと、 東晋の『拾遺記』に、
呂尚ryousyouと馬氏basiは夫婦だった。 夫の呂尚は 読書ばかりしていて 暮らしのこと
など全く考えない。 妻の馬氏はあきれてしまい、実家に帰ってしまった。
後に 呂尚は 立派に学問を積んで有名になり、「太公望」と呼ばれて高い位につき、斉の国
を与えられるまでになった。 それを知った馬氏は、馬に乗って近くを通りかかった呂尚の前
にひざまずき、自分が家を出たことを詫びて、再び夫婦になりたいと願い出た。
呂尚は 馬氏の目の前で 盆に水を入れ、それを傾けて地面にこぼし、
「 願いを叶えたいのなら、私がこぼした水をすくってみなさい 」と言った。
馬氏は 言われたとおりに、必死ですくおうとしたが、手ですくえるのは泥だけだった。
呂尚は 「 君は自ら望んで私と別れたのだ。今、改めて 私と一緒になりたいと言ううが、
覆した盆の水が再び戻せないように、復縁は無理だ。 一度してしまったことは、
もう取り返すことができないのだよ 」と言った。
( ちなみにこの話は太公望の数多くの伝説の一つであって、必ずしも史実とは限らない。
周代に盆という容器が存在しないし、前漢の人物・朱買臣に、同様の逸話がある
<『漢書(朱買臣伝)』> )
で、三省堂の『大辞林』には、
(1) いったん離別した夫婦の仲は元通りにならないことにいう
(2) 転じて、一度してしまったことは、取り返しがつかないことにいう
とあります。
@参考: 覆水難收
〔[(喝-口)+鳥]冠子注〕太公既封齊侯。道遇前妻。再拜求合。公取盆水覆地。令收之。
惟得少泥。公曰。誰言離更合。覆水定難收。
〔後漢書光武帝紀〕 反水不收。後悔無及。 〔何進傳〕 覆水不收。宜深思之。
〔李白詩〕 雨落不上天。水覆難再收。
* * * * * * *
文明時代になって以来 数千年、 我々は 代々 この 【 覆水 盆に返らず 】 という言葉の
お世話にならなかった程、 幸せ(?)な人は 恐らく たいへん少ないのではないでしょうか?
( もちろん 一昔前までは、 乳幼児死亡率は たいへん高く、 言葉を覚える前に
この世を去った人々も たくさん居ました。
しかし 我々が思うほど 彼らは不幸であったかどうかは、俄かには決められません。 )
地上で 我々が生きていくということは、自らの過去に対する悔恨なしには 済まないことです。
従って この言葉には、多くの人々の 様々な葛藤苦悩が 纏(まと)わりついているのでしょう。
ところで、
我々にとって、過去とは 今の自分の境遇を のっぴきならない形で 決めているものです。
そして、この境遇において 次々と生起する事どもに 悲喜・心労・鬱屈し、しかも そこで
生きていく他に 生きようのないもの(存在)が 我々でしょう。
こうした中で、少しく 智慧ある者は 明日のこと・将来のことを 思って、さらに悪い境遇に
ならないように より善い境遇になるように、今の境遇のなかで 為せることを為そうとします。
我々は 天の上・宇宙空間のどこかに 身を置く 天使や仙人のようなものではありません。
すなわち、地上を見下ろす存在ではなく、地上に張りついて 泥を舐めながら生きる存在です。
この柔らかく傷つき易い肉体を持ち、この肉体を維持し 保護するために 衣食住なしには、
時に 一日とてもたない存在です。 決して 肉体を持たない 神でも幽霊ではありません。
したがって、我々において 現在の状況を決めている過去は、 神や天使のように 天の上から
俯瞰する 〜 この時、私は あまりに歪小で、彼らの眼から 具体的な その姿を消します 〜
目を持つ 歴史学や生物学や物理学などの見る 過去・現在 ではありません。
(2/13)
私が 「現在」 と言う時、それは 誰か他の人の 今 ではありません。過去の 例えば
アインシュタインの「現在」でもなく、百年後の誰かにとっての「現在」でもありません。
私に「今」があるように、彼ら 過去の人にも 未来の人にも その人自身の「今」があります。
逆に、「今」を持っていない人というのは、 そもそも あり得ないことです。
アインシュタインの「現在」( 例えば 時空について思考していた 彼にとっての今 )は、
原爆投下がなければ この世に生を受けなかった子供の父親たる 私にとっては、「過去」
であります。 http://blogs.yahoo.co.jp/kyomutekisonzairon/9575358.html
すなわち、それらの事どもが どれ一つ欠けても、現在の私の境遇はないのであります。
互いに 「因」となり「縁」となって、多くのものが 重重無尽に寄り集まり 重なり合って
現在の私 (他の誰かではない!) の境遇があります。
この 私の今の境遇のことを 「果報」と言います。
(2/14)
我々は 現象の前後関係を見て、その前の事の中に 後の結果の原因を見出そうとします。
すなわち、過去を想起して 現象を時系列に並べることによって、そこに 原因-結果の緊密な
関係を 見出そうとします。 日常においても 科学研究においても・・・。
卑近な例として 例えば、 コップが テーブルから落ちて 大きな音をたてて割れた。
この時、我々は どうしたのか? と、思わない人は 少ないでしょう。 事の前後関係を見ると
服の袖が そのコップにかすって テーブルから落ちたのですが、 我々の思いは ここで
終らないのですね。 さらに この事の原因を求めようとします。
ある人は、その原因を <服の袖> に見るでしょう。 流行りのファッション性の高く実用的
でない その服を問題とするかもしれませんし、だらしなく袖をのばしていることを問題とする
かもしれません。‘ それが コップの割れた原因だ! ’と。
また ある人は、 そんなに簡単に落ちるほど テーブルの端に コップを置いたことを問題と
するかもしれません。 ‘ そんな所に 置くのが間違っている! それが 事の原因だ ’と。
別の人は、 そのコップ自体を問題し 美しいor形がよいが 実用的でない割れ易いコップを
買ったからだ と。
或は また、コップに触れた人を 急かして呼んだ声を、 或は また その声に 周囲を見ずに
あわてて立上った人の 粗忽さを、事の原因だとする人もいるでしょう。
また、物理学者なら そこに ニュートンの3つの力学法則を見出し、またこの現象を
位置エネルギーがどうの 運動エネルギーがどうの と、 いつ果てるともなく 滔々と細かに
説明しようとして、周りの人の顰蹙を買うでしょう。 何故なら コップは 結局 「法則」に
従って 割れたに過ぎないという 無責任な決定論(宿命論)を主張することになるからです。
でも、この場が 学校なら この人は それを聞く人々から 尊敬されるかもしれません。
・・・・ etc.
(2/16)
このように、ある一つの結果の原因を求めるとき、我々は その立場によって
多くの異なった原因を見出します。 そして、それらは皆 それぞれに理由がある訳です。
でも、その原因を見出すことによって、そこに起ってくるのは 多くの場合 争い事です。
我々は 各人各様に、事の原因を 過去に 何らか確定することで 事態を理解or判断し
あれやこれやと行動を起します。すなわち 多くの可能性の中から ある行動の選択をして
未来に向おうとします。
即ち、現在(結果)において 過去(原因)を見る人(立場)による特殊な見方が、我々に
未来(行動)を決定させ、そこに 多くの紛糾と矛盾を引き起こすということになります。
――― これが、およそ理性的(知性的)と 自ら称する 我々の活動の実際です。
( 科学研究の場合は、<行動の選択> というのは、その <世界観の選択> です )
すなわち、地上の我々は 天上の神の立場から 下を俯瞰するように、自らの過去を
従って 自らの現在と未来を見るということのできない存在です。
人それぞれに 同じモノを見ても、上のように その過去の見方を異にするのが、我々です。
客観的なものとされる学問でも、物理学と歴史学は どちらも過去を見ることによって成立
するものですが、 後者は 前者よりも 学者どおしの論争に決着をつけることが難しいのは、
その学者が 地上の人間の立場から 神の立場or天使の立場になれる度合いによるのでしょう。
これは、人間の立場から離れる(=非人になる)ほど、その見る処は 誰も異論を挟めなく
なるということでしょう。 即ち、この人が見る世界には この人自身は 消えているのです。
人としての自らの世界ie過去を、彼らは 物理学者のように 抹消するorそこから抜け出て幽霊
となることなしには、神の立場から見た 歴史学なるものを形成し得ないのが、我々でしょう。
ところで、この神の立場なり 幽霊なりは、地上にある我々において 具体的には 「傍観者」
(当事者ではない!)となることであり、「帝王」(血も涙もない者)となることでしょう。
** 因縁 : http://blogs.yahoo.co.jp/kyomutekisonzairon/9234534.html
(つづく)
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kodaizinさんへ。こんばんわ。
【 覆水 盆に返らず 】の現実を 「 免れることはできないし、免れる必要もない 」
ですね。 そして、ただ、こうした わが 「 存在をみつめるしか 」 ない。
と、私も思います。
で、その 見つめられた 「われ」 は、どんな 「われ」 でしょうか?
合掌
2008/2/14(木) 午後 6:12 [ kyomutekisonzairon ]
なるほど。あなたには、「われ」が見えておられるようですね。私はみつめているだけで、つかみどころもありません。まだまだ、生かされながら、生きているのみ。われとは何ぞや。お教えいただくために、読ませていただきます。
2008/2/14(木) 午後 9:09
kodaizinさんへ。 いえいえ、私も 同じです。
自分の正体が 見えているとは、とても言えません。
これを 明らかにすべく、ここに取り組んでいるのです。
ところで、「 私はみつめているだけで、つかみどころも 」 ないというのは、
おもしろい表現ですね。
問題は、‘ 自分が 自分を見ることができるか? 」ということです。
<見る自分> と <見られる自分> とですね、 この2つの自分のどちらが
本当の自分なのでしょう?
合掌
2008/2/15(金) 午前 0:36 [ kyomutekisonzairon ]
自分とはなにか。その一言に尽きると思うのですが。僕は、問答をする気はありませんが、ちょうど、今朝ほど、ブログに、目覚めて感じたことを書きました。どうぞ、拝見ください。ブログにこのようなことを書く気はなかったのでうが、これも1つの縁でしょうから。これからもよろしくお願いします。
2008/2/15(金) 午前 8:01
朝日新聞のかたえくぼに「羊水盆に還らず」で投稿したけど採用にならなかった・・南無
2008/2/15(金) 午前 8:04
kodaizinさんへ。 そうですか? 失礼しました。
また、このブログのことを 気にかけて下さり、有難うございます。
ご縁、ありがたいことだと思います。 今後ともよろしくお願いいたします。
合掌
2008/2/15(金) 午後 6:40 [ kyomutekisonzairon ]
poiste-さんへ。 それは 残念でしたね。
例の若い女性歌手(名前は知りませんが)のことについてだったのでしょうか?
私は、こうしたことに不案内・無関心で、事の経緯は 全く分っておりません。
合掌
2008/2/15(金) 午後 6:51 [ kyomutekisonzairon ]
悲しいお話です。零れ落ちた水が元には戻らなくても、原因を自分の外に探すのではなく
自分が次にいかにして零さないようにするか?考えたいですね。
2008/2/16(土) 午前 0:42
次が無いこともありますね
2008/2/16(土) 午前 3:12 [ 倖田來未 ]
「みさえ」さんへ。 そうですね。この一連の記事で 言いたいことを、先に言って
下さいました。
即ち、「 原因を自分の外に探すのではなく 」、その結果の因は、自分の内にある。
ということなんですね。
これを、グダグダと これから述べようとしているのです。
合掌
2008/2/16(土) 午後 7:31 [ kyomutekisonzairon ]
nanachanumekichiさんへ。 お早うございます。
「 現在の自分をどう評価するかは難しい 」〜 そう、私もそう思います。
過去の選択の善し悪しを決めるのも、「 現在の自分をどう評価するか 」 に
かかっているのですからね。
しかし、また 過去の 思い出したくない事・触れたくない事が 懐かしく平然と語れる
ようになるということなしには、今の私を 正しく評価することはできないでしょうね。
その時 始めて、我々は 自分の過ちだけでなく 他人の過ちも 許せるようになるんでしょうね。
合掌
2008/2/17(日) 午前 9:37 [ kyomutekisonzairon ]
少しは娑婆の俗世界のことも・・南無
2008/2/17(日) 午後 2:38
「なまず」さんへ。こんばんわ。
う〜ん、私は 「 娑婆 」の世界を語っていないと ご不満です。
仰る意味は よく分ります。
ところで、「 娑婆 」ですが、実は 私は この「 娑婆 」のことばかり
述べすぎてもいます。
というのは、仏教で 「 娑婆 」とは 「 忍土 」とも言い、苦を忍ぶ世界のことですね。
で、ここから 江戸時代になって、
吉原など 遊郭では、金さえ出せば 士農工商の身分に関係なく 誰でも自由に遊べる
ことから、遊郭を「 浄土 」に見立て、その外の世界を「娑婆」と言ったんですが、
遊女から見ると、郭kuruwaの中が「 娑婆 」で その外の世界こそ、自由に過ごせる
世界なので、この遊女の言い方の方が 一般的に使われるようになったのですね。
勿論、「なまず」さんは、刑務所に入っている人が言う 自由の世界という意味で
「 娑婆 」と言われているのではなく、苦の世界に 固く閉じ込められている意味
なのですが・・・。
(続)
2008/2/19(火) 午前 1:12 [ kyomutekisonzairon ]
しかし、我々は この日常の世界を、本当に 自由を奪われた「牢獄」と考えている
だろうか? 「苦の世界」と考えているだろうか? また、自分は 忍んでいるという
のは、何を忍んでいるのだろうか? そもそも 忍んでいるという自覚があるだろうか?
というようなことが、我々には 問われているんですね。
誰からか? 何からか? ――― 如来から 浄土から、問われているのでしょうね。
合掌
2008/2/19(火) 午前 1:24 [ kyomutekisonzairon ]
今の日本は、電気や水や食物は届くし、下水は流れ、ゴミも黙って引き取ってもらえるので、仏国のような気がします。まだまだでしょうか?
2008/2/21(木) 午後 10:13
hopi-さんへ。 「 仏国 」 とは、言い得て 妙ですね。
我々の普通の者が、平安時代の貴族の生活よりも 豊かな生活を享受しています。
海外からの山海の珍味を食らい、牛車ならぬ 自家用車で 山を越え河を渡り
瞬く間に 目的地に行けます。 海外でさえ、風雨に濡れずに ただ眠っている内に
行けます。 どんなに 寒かろうが 薄着で過ごせ、どんなに 暑かろうが
冷房病になるほどです。
かっての どんな王侯貴族も羨む生活を 一般の市民が享受している 今日の
民主主義社会を見て、まさに 「 仏国だ! 」 と 彼らは言うでしょうね。
我々は、しかし 自然支配の力を手に入れた分、代りに 二十日ネズミのように
時間に追われて、ゆったりと流れる時を喪失しているのですが・・・。
しかし それにもかかわらず、彼らが痛切に感じていた 「無常」と「罪悪」に、我々は
不感症になっているという奇妙なことが起こっています。
合掌
2008/2/22(金) 午後 6:56 [ kyomutekisonzairon ]
ありがとうございます。たとえば石油を燃やすと二酸化炭素になり、もう1億年くらい元には戻りません。燃えカスのウランの場合は半永久的に元に戻らないでしょう。心をうしなったかのように「覆水盆に返ら」ざる営みを、日々私たちは続けているのではないでしょうか。そうして私たちの子供の代には、皆が「覆水盆に返らず」や「無常」をかみしめていることでしょう。その「因」は子供たち自身に、というよりは私たち親の世代にあるのでしょうね。
2008/2/24(日) 午後 9:21
hopi-さんへ。 大気中のCO2濃度が どれくらいになるのか 分りませんが、
中世代には たいへん高い濃度だったようです。恐竜は この環境に適応して、
大変な繁栄をしたと言います。
したがって、
CO2やメタンなどの濃度が、温暖化を進めると言われていますが、温暖化自体に
問題があるのではなく、極めて急速な温暖化による 従来の我々生き物の生活環境
の攪乱と激変が、我々の社会の基盤を崩壊させ、事態に対する 我々の適応能力
を越えるのではないか? ということが問題なんでしょうね。
しかし、どんな厳しい状況となろうとも、多くの多くの犠牲を出しながらも、
人類は生き残るでしょう。
こうした状況をもたらしたのは、西欧近代の理念ですが 我々は これに身を委ね
また、積極的に関わってきたわけですから、これは自業自得というものです。
まさに 「覆水盆に返らず」 です。
まず、今日の我々は これが自業自得だ ということを率直に認めるべきでしょう。
(続)
2008/2/25(月) 午後 7:48 [ kyomutekisonzairon ]
ところが このことを怠って、
将来に起るであろう厳しい状況に驚いて 過剰反応し、それを避けるために、
原発に手を染めるとなると、その結果は 温暖化による被害の程度を上回り、子孫に
様々な 更なる重い負債を残し、人類の存続をも危険に晒らすことになるでしょう。
温暖化による災難は、できるだけ その被害を少なくすべく 我々は努力せねば
なりませんが、これに過剰反応して 過去に為し 現在為さざるを得ない事の結果
を 受止めるスベを考えようとはせず、これを先送りして
従来の行動or生活様式や思考のあり方を変更することなしに、この自己を押し通す
ことを前提に、この温暖化に対処しようとする故に、姑息な「排出権取引」とか
「原発」「高速増殖炉」などに手をつけることになるのでしょう。
これらのやり方は、一時凌ぎの誤魔化しで まったく事柄を解決しません。
(続)
2008/2/25(月) 午後 7:53 [ kyomutekisonzairon ]
< 自分たちがやってきたことが 間違っていたから、
こういうことになっているのである。>
ということを認めない限り、面前の悪い事態は 解決できないというのは、
およそ 事を為す人が、当然に考えることでしょうに、
どういうわけか、この環境問題に関しては、皆 腰が引けて 正しい判断が
できないのですね。
これは、何故か? というのが、孤軍奮闘、このブログの一つのテーマでもあります。
合掌
2008/2/25(月) 午後 7:54 [ kyomutekisonzairon ]