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〜〜〜〜 「時間」 というものがあるのではなく、「因縁」 がある
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昭和14年(1939)の 先師の文を 引用します。
「 4月に 降ってから後 5,6,7,8,9と 5ヶ月も 雨らしい雨は降らない。
60年来の 大干ばつであるという。 一度植えられた稲も、今は惨憺たる有様である。
汽車の窓にも 目を覆いたくなる。
しかるに、この乾燥しきった野山に、大木も小草も 枯死せずに生きている様を見て、
路傍の小草小木に 手をかけて 労ってやりたい心がする。
よくも 生きているものである。
・・・・・
中国筋は 東北のようにはなく、恵まれた地方である。
それが この度 この@非常時に、この天災である。 しかし これを転じて、平年作で
あったよりも もっと大きなものを得たならば、決して 損失ではないのである。
・・・・・
本部(広島市内)の横の小川から、子供が フナを6尾ほどすくってきて、
私の部屋の 金魚鉢に入れたのは、 5月頃であった。
しかるに この小川には、フナや メダカや ウナギや、とても沢山な魚が生きていた。
水が無くなるにつれて、手の平ほどの水にも 何百という魚が 集まっていた。
それが、とうとう干からびてしまって、すべて死んだ。
救われた 6尾は 水に入れてもらい 餌をもらって、 元気に生きている。
書斎に入って これを見ると、念仏の種である。
幾百千万匹の生きものの中で、 たった6尾。 」
@ この年、大学に 軍事教練が必須科目となり、教科書の認可制が強化され、
学生の長髪が禁止となる
5月には、ソ連との間に、ノモンハン事件
7月に 米国は 日米通商航海条約の廃棄を通告
8月 アインシュタイン、レオ・シラードの要請を受けて、ルーズベルト大統領宛
の原爆開発を促す書簡に署名
又、独ソ不可侵条約が締結され、「欧州の天地は複雑怪奇」と平沼内閣総辞職
9月に入ると、ドイツ軍は ポーランドに侵攻し、第2次世界大戦が勃発
これは、このような時代の ある日の文章です。
この日から、6年後には ヒロシマのこの書斎は 原爆の惨禍の中にありました。
* * * * * * * *
この文章が書かれた 1939年9月から 1945年8月までに、
自然現象のためではなく、ただ 万物の霊長たる人類の 全くの人為のために、
何百万という人々の運命が、この水が涸れた小川のなかの 魚たちと同様なことになりました。
この文が書かれた当時において、 誰が その6年後の自分の境遇を 予想できたでしょう?
これは、今日においても 同様です。 たった6年後でも 自分が 如何なる境遇にあるか?
或は、この国が 世界が、どうなっているか? 誰が 予測できるでしょうか!
世の中が 不安になると 色んな予言者が出てきますが、
‘神のお告げだ’‘未来を予知する’と称する人の言は、ほぼ例外無しに、紛い物でしょう。
我々は 何度 騙されても、 面白がって 彼らの言に耳を傾けたがります。
これは、我々の <自己関心>の深さ故であり、<自惚unuboれ>の故でしょう。
すなわち 他はどうであれ、‘自分だけは 旨い汁を吸おう’ という <自己関心> や、
‘自分だけは 悪い境遇を免れ得る’ という <自惚れ> が、こうした言に騙される因でしょう。
しかし、時間の流れの中で、その予言があろうと なかろうと、
苛烈な運命に巻き込まれ 呑み込まれて、死ぬべき人は 予め決っていませんし、
それを免れて 生き残る人も、 私かも知れないし あなたかも知れません。
死ぬ人は 死んだのであり、 生き残る人は 生き残ったのです。
そこに、 一人一人の運命を司る 何らかの意志があるわけではありません。
死ぬのも 生き残るのも、 それは その人の 願望や善悪を越えたものでしょう。
――― ところで、
上は、ある時の間に起こったことを 切り取った文章です。
ここに起った出来事を 少し考えてみます。
この干ばつの年の5月に、子供は 宿題or家事労働から解放されて、
たまたま、小川で 魚取りに打ち興じたのでした。
( 何かの事情で、彼は この日 魚取りができなくなったかもしれないのですが・・・)
田植え前の小川では、温かい日の光の中で 魚たちが 元気に泳いでいました。
彼らは、突然の闖入者に 驚いて その手の網から逃れようと 右に左に 逃げ回りました。
しかし、ついに この子供の手にかかって 6匹のフナが捕まりました。
彼らに対して 殺生与奪の権をもつことになった この人間の子供は、
幸いなことに、彼らの命を弄び 粗末にする性格の者ではなかったために、
仲間からは引き離されはしましたが、 家に 連れて帰られ 窮屈な金魚鉢に入れられました。
彼らは 自由を奪われ 囚われの身となって、 生きていくに必要な 食い物も 水も、
全く この子供やその家の者たちの 慈悲に頼るほかない 境遇に置かれました。
辛くも 子供の手から免れた仲間らは、 6匹の境遇を 哀れまないものは居なかったでしょう。
しかし、夏が来たり 秋に入る頃になっても、雨が降りません。
田に入れる水にも こと欠き、 小川は だんだん水が乏しくなり 水溜りしかなくなりました。
魚たちは そこに群れて、背びれ尾びれを出し 泡を吹いて 押し合い減し合いしています。
ここまで来ると、捕われることなく自由であったはずの彼らの命運は 1〜2日のことです。
あっという間に 小川は 干上がって、 湿り気さえもなくなりました。
魚たちの 無数の干乾びた死骸が 小川や田圃の乾いた土のうえに散らばっています。
一方、かの囚われた6匹は、日照りのことも知らず 仲間たちの苛烈な運命さえ知らず、
狭さを託(かこ)ちながらも まだ元気で、ともかくも金魚鉢の中で泳いでいます。
雨が降り 小川に水がかえれば、子供の気紛れ次第で、また広い世界に帰れるかもしれません。
この生き残った6匹と 無数の死骸との命運の別れは、一体 どこにあるのでしょうか?
彼らの前世の善悪の業でしょうか? 或は 何か 運命を司るものの意志でしょうか?
とんでもないことです。 こうした説は、生き残ったものの手前勝手な解釈にすぎません。
今 幸いに ここまで、病気にもならず 生き残った6匹の境遇は、
直接には 子供の魚取り遊びの犠牲となったことに縁(よ)るのですが、
ここまで来るのには、数知れない無数の <因縁> が 微妙に働いた結果でしょう。
もし、何かの都合や 子供or家人の気紛れや、それらの1つでも 変っていれば、
彼らは 6匹とも、命を その時まで繋ぐことはできなかったでしょう。
元の命(因)は、このように 無数の事柄(縁)によって、辛うじて 今ある(果)のでした。
しかるに、子供の手から免れた 仲間たちは、
或は 鳥や鼬や蛇の餌食になり 或は 病気になって その命を失ったものもいたでしょうが、
最後は 干ばつによって 全滅の憂き目に遇います。
死という結果(果)に至るのは、 他の生物や病気や 或は日照りや・・・様々な縁があり、
それこそ 一匹一匹 皆 違うのですが、
生がある(因)限り、無数の縁を 掻(か)い潜って、ついには 死という果を得るものです。
この時 生き残った6匹は、この境遇を因として さらに 様々な事(縁)に触れながら、
それぞれに 生死を経験した(果報を得た)のですが、 今では
かの戦争を 各地で 様々に 経験した人々のように、その消息は 杳として 知れません。
――― 上の考察のように、この時の流れの間に起った事は、
まさに < 因縁 > と言うべきものです。
因に縁がはたらき、因は その縁に応対して(業)、果を生じる。
(その果の持続を 報と言います)
そして その果報を因として そこに縁がはたらき、因は その縁に業を起こして
新たな果を生じる。
このように、モノは 因・縁・業・果・報、 因・縁・業・果・報 ・・・・ と、
無限に 互いに重なり合って 続いていくのが、この「 時間 」の世界です。
そこに、いかなる 主宰神も 運命の必然も 法則も 時間も空間も 認めないのです。
ただ、あるのは < 因縁 > だけです。
** 「互いに重なり合って」とは、上の考察は 魚を中心にして見てみましたが、
子供を中心に見ると、魚は 彼の「因」ではなく 単なる「縁」となって、
彼において また別の因縁が 展開していったのでしょう。
又、先師を中心に この間の事を見てみると、魚や子供は 彼の念仏の縁と
なっています。
一つのモノが、縁ともなり 因ともなり 果ともなって、重なり合って 動いて
行くのが、< 因縁 > というものです。 これが 我々の世界です。
(つづく)
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その考察とは、経験世界の内に穴を掘っていかれているのでしょうね。
「数」をもってのみ世界を認識するというのは、西欧近代のものの見方ですが、
こういう文化的伝統が、ameni-さんの経験世界に 深く刻印しているのでしょう。
また、経験世界というのは、つねに立場的でなくては 経験とはなりませんね。
安定・不安定というのも、例えば 分子にとっては 動き回っているのが 安定
でしょう。しかし 我々にとっては じっと動かないのが安定です。又、魚には
水の中が安定ですが、人間にとっては 大地が安定です。
魚の見る世界は世界ではなく、人間の見る世界が 本当の世界だというのは、
人間にとってのみ 通用するものですね。
今日、我々の生活は、近代西欧の 線型的な時計の時間のために 強制的に
従属させられていますね。時計の時間とは 「数」で表される時間です。
即ち、今日の社会は、「数」の専横の世界でしょう。線型的世界は 「数」の
独壇場です。 合掌
2009/3/31(火) 午前 9:27 [ kyomutekisonzairon ]
原始人が指を折って数えたり、枝を並べて数えたりします。
また集団生活では人数を数える必要が不可欠です。
人間以外にチンパンジーは簡単な計算まで出来ます。
自然科学は数を数えるところから始まっています。
そして形を考える幾何学(線形)から次第に高等数学(非線形)に移って行きます。
数学は個人の認識が入らない正に客観的なものです。
だから誰でも使えるのです。数はデジタル化(情報伝達)の基本です。
雪の結晶やハニカムは6角形をしています。
ほかにも6角形のものは沢山存在します。
この共通的な形状を6と言う数字なくして説明は難しいですね。
非線形の世界でも数学は力を発揮しています。
数学は共通言語なのです。
物理学の複雑な現象も数式になって初めて共通化が認められるのです。個人の考えをいくら身振り手振りで表そうとしても伝わらないでしょう。
2009/3/31(火) 午後 1:05 [ ame**34 ]
こんばんわ。 仰るように、数字は たいへん 昔から ありましたね。
人類の文明というものは、数字なくしては、なかなか 難しいでしょう。
ただ、私が言っているのは、<全ての現象(モノ)を 数で扱おうor扱える>
という考え方(思想)なのです。
昔から 数を、我々人間は 扱ってきましたが、この思想によって、自然科学が
誕生したのでしょう。 もし、こういう思想が持たなければ、数字は使っても、
自然科学はありません。ギリシャの幾何はあっても、現代の幾何学はありません。
「数」で すべてを理解しようor理解可能だとする思想は、何か 紛い物を
その内に 潜ませていると、私は 考えているのです。
非線型の科学というのは、非線型の現象を 線型的世界で理解しようとする試み
でしょう。我々の知性は 線型的(足し算ie.四則演算)にしか働かないからです。
現代の数学は、色々なものを 足し算(掛け算は足し算の省力化ですね)で扱おう
とするものですね。 すなわち、ものを 計算可能にする技術です。(続)
2009/3/31(火) 午後 11:58 [ kyomutekisonzairon ]
計算不可能(=予測不可能)な現象が、非線型の現象ですね。それを計算可能に
敢えてしようというのが、非線型の科学でしょう。すなわち、非線型の現象を、
線型的世界で 解釈(=四則計算可能に)しようというのでしょう。
しかし、何故 そんなことをする必要があるのでしょうか?
私は、これを問うているのです。単に 好奇心では、今日 済まされないのでは
ないのでしょうか? ( 例えば、CERNの大型ハドロン衝突型加速器の建設には
多額の費用が必要でしたが、こうしたお金を使うだけの どういう価値が、これに
あるのか ということに、どう答えるか? というような問題ですね。)
合掌
2009/4/1(水) 午前 0:39 [ kyomutekisonzairon ]
非線形の世界でも予測する必要性が高い分野が多いのです。
天気予報や台風の進路予測、地震予測、地球温暖化…これらは単純な数式では計算出来ません。シミレーション手法しか今のところ無いのです。スーパーコンピューターが少し役立つ分野です。それでもなかなか予測と実際は合わないのです。しかし少しずつ精度は上がって行くでしょう。この過程の中で地球の大切さや人間活動の影響の大きさなどが判明して行く筈です。
CERNの大型加速器は無駄な公共投資かも知れません。
大勢の研究者の失業対策や企業利益の為の方が大きいでしょうね。
2009/4/1(水) 午後 6:15 [ ame**34 ]
こんばんわ。 仰るように、天気予報・巨大低気圧の挙動、地震、地球温暖化など
の予測は、予測困難な現象ですね。スーパーコンピューターでも、ムリだということ
も、先に「円周率πの読み上げについて」という記事で指摘しましたが、
πの計算をスーパーコンピューターを用いて、600時間ie.25日間計算し続けて、
たったの1兆2400億ケタまでしか計算できないわけですからね。
なので、こういうカオスの現象把握のために 四苦八苦している現状でしょう。
いろいろ 大仰な 素人を畏怖させるような理論が出ていますが、これを 人類の
輝かしい進歩と考えるのは、科学・技術者集団とその利害をともにする組織の、
やはり手前味噌ではないだろうか? と・・・。
それらの大仰さに比べて、例に挙げられたようなカオス現象を捉えたとは とても
言えないお粗末な現状は、際立っています。
社会全体が、彼らの利害のために引きづり回されることで 成立っているのが、
この文明社会というものではないか、と考えています。(続)
2009/4/2(木) 午前 1:18 [ kyomutekisonzairon ]
そもそも、天気予報や地震予知や温暖化予測が、何故 必要なのか? と
考えてみると、こうしたことの根拠が 実に薄弱だということに思い至るのでは
ないでしょうか?
例えば、地震予知について言うと、この国の都市のあり方自体が、本当の問題で
しょう。 都市のあり方が、さまざまな自然災害に脆弱なものとなっており、
こちらのほうが、今の場合は地震予知よりも、我々が本当に取り組むべき問題
でしょう。 田舎での地震は、都市ほどのダメージを与えません。
大地に背を向けた 人工都市(電化した市民生活・産業構造)というような地震
に脆弱な生活自体が、地震予知を必要としているのではないでしょうか?
温暖化予測も、現在の産業や生活のあり方が、これを必要とさせているので、
この我々のあり方を変えまいとするから、大仰な予測が必要となるのでしょう。
(続)
2009/4/2(木) 午前 1:43 [ kyomutekisonzairon ]
すなわち、地球環境or自然に背を向けた 我々のあり方・考え方が、こうした研究
を支えているということであれば、こうした研究から 我々は 自然の大切さを
決して学ぼうとはしないでしょう。
本当に自然の大切さを 我々が学ぼうというのであれば、科学・技術に支えられ
自然に背を向けた人工的な生活を捨てるのが、一番安上がりで 手っ取り早く、
科学者だけではなく 全ての人が、直接 それを学ぶことが可能なことになる
のではないでしょうか?
宇宙開発や加速器は、宇宙における人間の卑小さと宇宙の偉大さを学ぶためで
はなく、宇宙から 利得を掠め取ろうという意図でなされているのでしょう。
我々が、宇宙の荘厳さ と 宇宙からの利得 とを、同時に実現できるほど、
宇宙は 我々に好意的ではないのではないでしょうか? 合掌
2009/4/2(木) 午前 2:10 [ kyomutekisonzairon ]
人類がデジタル言語を持った時にパンドラの箱を開けてしまったのでしょう。人類以外の動物の言語は全てアナログだそうです。これは人間の脳がアナログ→デジタルの高速変換が出来る能力を得たためと言われています。 必然的に文字、数字、論理を生みやがてミーム(文明、文化)を発展させました。人類は自分の将来に対して自己責任を持たなくてはなりません。人間は生物ですから自然の営みから大きく外れた時にハルマゲドンの可能性が出てきます。欲の暴走をどうやってコントロールするか。このための人類の知恵の進歩の遅さにいらだつのです。
2009/4/2(木) 午後 10:14 [ ame**34 ]
こんばんわ。 デジタル、アナログの定義が よく分りませんが、確かに 人類は
言語をもったことは、自然の営みからの逸脱の 第一歩だったでしょうね。
いわゆる 大脳新皮質の異常増殖が、人類を特徴付けていますね。
近代西欧文明は、これを「文明」と言って讃美しましたし、自己を「理性的人間
ie.ホモサピエンス」と特徴付け、「文明の進歩」「生物の進化」の頂点にいると
して自己を認識しました。
この人類たる我々の自己認識(自己の定義)は、しかし 果たして妥当だったの
だろうか? という反省の声が、西欧内部でも 起っている一例を V.フランクル
に見ることができるのではないか と思い、「苦悩的人間」という人間の定義付け
を 先日 記事に紹介しました。
かって、こういう人間の暴走への危機意識は、主に 宗教が荷ってきましたが、
宗教のこの役割を、近代思想は 余りに軽視して、むしろ宗教の危険性と虚妄性を
理性の名によって強調し、宗教を排斥してきました。(続)
2009/4/3(金) 午後 7:06 [ kyomutekisonzairon ]
彼らの伝統においては、旧約聖書の「バベルの塔」の話を始め、人間の暴走への
危機感を しっかりと踏まえていたのですが、近代西欧は 自己へのこの危機感
を捨て去る方向に 突っ走ってきました。 彼らには それなりの理由があった
だろうことは 同情せざるを得ませんが、彼らと伝統を異にする我々までが、
彼ら西欧の誤った思潮に 呑み込まれれば、人類全体が 引き返しのきかない悲惨
なことになってしまうでしょう。
今日、我々は ものを考えるのに、従来の権威である西欧の概念では 埒があかなく
なっているという時代認識が 必要なのではないか? と、私は考えるのです。
西欧とは違った概念を使って、ものを考える時代が来なくてはならないだろう、
と・・・・。
ところで、ミームという言葉ですが、私は この言葉についてよく知りませんが、
よく似た仏教の言葉に、「種子(しゅうじ)」というのがあります。これは ミーム
と似ていますが、まったく思考の土台・発想が違ったものです。合掌
2009/4/3(金) 午後 7:32 [ kyomutekisonzairon ]
宗教や哲学は欲の暴走を押さえる方法としては有効でした。いろんな宗教は時代や地域性がありますね。イスラムはやはり砂漠地域の宗教です。そこに八百万の神は適さないでしょう。日本にはイスラムは根付かないでしょう。宗教は限定された地域集団なら規範としても有効でしょう。しかし集団が大きくなり利益集団や政治勢力となると体質がかわってきます。また大変保守的になり時代の変化に追従できなくなります。現代は個人の生きる目的や人類の進む道に明るい未来を持てなくなり新しい哲学を求めています。そしてそれを政治に生かしてほしいと。そして地球も悲鳴を上げていると。
2009/4/4(土) 午後 8:37 [ ame**34 ]
つい最近まで、山や大木や岩などを畏れるということが、わが国にもありましたね。
それに触れることを憚るといった感情、あるいは「祟り」という観念・・・。
これらは、原始的な愚かな観念であると、学校やマスコミによって鼓吹され、
そうした観念に捉われず、合理的(科学的)に考えることが優れているのだ と、
今日の我々は 思い込んでいます。
しかし、我々の祖先たちの こうした観念や感情は、合理主義で突っ走って
その弊害が危機的状況となった今日においては、深い意味をもっていたことを
改めて 思い知らされるような気がします。
今の話題の文脈では、自然のものに対する そうした観念や感情は、実は 我々人間
の欲の暴走を抑止していたのだと・・・。 ここに、人間とは 権力(勢力)者や富者をも
平等に その行動を規制させる性格をもつものでした。(続)
2009/4/4(土) 午後 11:59 [ kyomutekisonzairon ]
これは、アニミズムと言われるものでしょうが、こうしたものに縛られていては、
山を崩し 谷を埋めて、鉄道や道路も 空港も ゴルフ場も 団地も 作ることが
できません。 或は ダムも造れませんし、海浜では 港湾も造れません。
人間活動を規制していた 昔の神々を殺して、我々の欲望にフリーハンドを得させる
ということがなければ、近代国民国家 及び資本主義経済は成立ちません。
この神々を殺す論理が、唯物論であり 合理主義(=科学主義)であり また、
自由・平等・博愛を人間にのみ認める「人権思想」でしょう。
即ち、この アニミズムと言われるものは、神々(自然物)に畏れを懐いていた
わけですが、逆に言うと 人間が 自分自身の行為(言動)に対して危機感を
もっていたということでもあるでしょう。‘ 自分は 何を仕出かすか分らない ’
という・・・。
極めて まっとうな この自己認識を、現代人は喪失して、歪で傲慢な自己を
生きており、その個人主義的な自己に 我々は悩んでいます。(続)
2009/4/5(日) 午前 0:24 [ kyomutekisonzairon ]
自然のものに 神々を見るというのは、本来 砂漠地帯の宗教でもありました。
イスラームが出てくる前は、彼らは「ジャーヒリア」と言って 神々の世界でした。
砂漠地帯の宗教は、一神教でなくてはならないというのは、西欧人やムスリムの
臆断だと思います。
神々を信ずるというのは、何か 文化程度の低い 誤った世界認識だというのは、
デカルト以来の近代西欧のイデオロギー以上の根拠はないでしょう。
神々の存在を感ずるとは、即ち 自然の中に包摂された自己の認識でしょう。
西欧近代の これを貶するのは、自然の外に自己を置いて 自然を 自己の掌握下に
置こうとする自己意識でしょう。
すなわち、自己のいる場が、自然をこういう2通りの見方をさせるというだけの
ことで、前者は 自然の恩恵を感じて生きるところに、自然に神々を見ますし、
後者は 自然を自己が生きるために利用する対象とするわけで、自然は 殺傷与奪
の権を 何憚ることなしに 人間がもてる 単なる物質でなくてはなりません。 合掌
2009/4/5(日) 午前 1:05 [ kyomutekisonzairon ]
考えている方向は大体同じ方向のようですね。謙虚さを無くした人間が増えすぎました。自然や他人に対する謙虚さが必要ですね。利益先取り競争が目先の利益を優先しているのです。自然を破壊し、公害を出し、薬の副作用に目をつぶり、利益を得ようとする。悪貨が良貨を駆逐するの例えが当てはまります。結局そのマイナス面が自分や大勢の人に降りかかってやっとブレーキが掛かる。人間の歴史を見るとそのように動いています。大災害の後になって少し謙虚になる。次の大災害が起こる前に謙虚さの大切さを普及させたい。
2009/4/5(日) 午後 10:22 [ ame**34 ]
こんばんわ。 現代社会という船の行く手に 何か大きな岩礁があって、危険な事態に
陥っているという認識は、共通しているのでしょうね。
ただ、その岩礁の正体が 未だ明瞭ではありませんね。又、その対処の仕方も・・・。
で、対処の仕方ですが、仰るように 岩礁に乗り上げて 船が大破する前に、何とか
座礁を回避すべく 努力したいわけですが、私は これについては 悲観的なのです。
座礁するだろうと思っています。
で、私は 座礁して 船が大破した際、 できるだけその被害を少なくすべく、今から
その仕込み・手当てをしておく。そして 座礁の後に、我々は どういう社会を
作っていくのか? ということを考えるのです。合掌
2009/4/6(月) 午前 1:31 [ kyomutekisonzairon ]
因果応報より因縁業果のほうがかっこいいし、真理に近い言語道断ではないでしょうか?
namaste.
2011/2/6(日) 午前 4:48 [ 誰彼便(たそがれ びん) ]
delompa さんへ。 こんにちわ。
インドから帰国しました。 ご挨拶 ありがとうございます。
祝杯 ――― 酒は あまり飲めません。多少 嗜む程度です。向うでも ビールが
ありましたが、いつも 2人で 1本を明けていました。向うのビールも 結構
イケました。
> 因果応報より 因縁業果のほうが・・・
――― 因縁業果報 ( 因縁業果だけではありません ) というのを 約(ツヅ)めて
因果応報と言います。 ふつうは 因果応報と言われて、この言葉は 手垢に塗れて
いますので、因縁業果報と言った方が 新鮮さを感ずるかもしれませんね。
手垢というのは、例えば 「 仏 」を<亡者>と同義に使ったり、「 往生した 」という
のを <困った>という意味で使ったり・・・と 仏教用語が 本来の意味を離れて
世間で使われていて、今日の我々の仏教理解を 大きく妨げていますから。
合掌
2011/2/6(日) 午後 4:49 [ kyomutekisonzairon ]
関西弁なのかなぁ?
最たるものがあります。「おシャカにする」
あと、河内弁かなぁ?おっしゃるとおり「往生しまっせ」がありますね。
これらは仏教用語ではありませんから、あなたと意を異にします。わたしは、これら通俗語が好きで、情報の「報」が嫌いです。あしからずナマステ。
2011/2/6(日) 午後 5:46 [ 誰彼便(たそがれ びん) ]