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宗教と特性 「チベット政治史」(亜細亜大学アジア研究所)より抜粋 古代の文書によると、チベットの最も古い宗教 ボン教 は 西チベットのシャンシュンの シェンラプ・ミボを始祖とする。 シェンラプ・ミボが いつごろの人物であったかは、今なお 論争の対象となっている。 ボン教徒のある者は 仏陀の同時代人であったと、またある者は 仏陀の生まれかわりであった と主張する。 これらの説に反対して、シェンラプ・ミボは ある信仰篤い、しかし後に仏教の 教義に反旗を翻すことになった 仏教パンディットの生まれかわりであると主張する者もいる。 しかし 実際の伝道活動は、8C パドマサンバヴァの入蔵をもって開始され、徐々にボン教は その影響力を失っていった。しかし、辺地においては 今なおボン教が存在している。 一度に すべての仏教が チベットに伝来したわけではなく、さまざまな導師の尽力により、 さまざまな時代に伝来してきたのである。 主要な宗派は ニンマ派、カギュー派、サキャ派、ゲルク派の4つ。 その他 小さな宗派と しては シチェー派、チャクチェン(大印)派などがある。 しかし いずれも、チベット仏教であることにはかわりない。 また、イスラム教徒もヒンドゥー教徒も存在した。共産中国に占領される以前のチベットでは 信仰と思想の自由が保証されていたのである。 チベット人は 仏教に篤く帰依し、カルマ(業)の教義を信じている。カルマの法則によると この世の幸も不幸も すべて前世の果とみなされる。チベット人が たいそう同情深く、正直で、 陽気で、自分の運命に満足しきっている理由の一つがこれである。 チベット人は 忠誠心にとみ、正直で、柔和で、親切で、余暇を楽しむ。 チベットと国境を 接する中国とインドが、かつては 女性を劣った存在として蔑視していたのに反して、 チベット人は 女性に対し礼儀正しく、かつ対等な存在として扱っていた。これは、チベットに しばらく滞在しうることのできた外国人たちの意見でもある。 チベットには 「 ウー・ツァン人は 信心深く、カム人は よき戦士、アムド人は 世知にたけ、商売上手 」 という諺がある。 共産中国に占領される以前のチベットは、中世の西欧社会に類似した点もみられる封建社会で あった。 しかし最も貧しい農民や召使いでさえも 信仰や旅行に関しては なんら制限を 受けることはなかった。 また宗教を背景とした 特異な社会の流動性がみられた。 たとえば 現在のダライ・ラマ14世は 農民の出身である。 実際の所、活仏は 社会の あらゆる階層から出ている。 ● チベット仏教の歴史 仏教の本家本元は、釈尊が生まれたインドである。チベットは ヒマラヤ山脈を越えてインド の北隣なので、インドの直系の純粋な仏教を受け継ぎ、今日まで守り伝えている。 当時隆盛を極めていたチベットの古代帝国は、国家の指導理念を仏教に求め、寺院や僧侶に 手厚い保護を加えた。 ごく短期間に膨大な経典をチベット語に翻訳するなど、奇蹟的な偉業の 数々が達成されたのは、まさに 国運を賭けて進めた 仏教化政策の賜物である。 その後、9C中頃に 統一王国・吐蕃は崩壊し、仏教界も大きな痛手を被った。 けれども、仏教の信仰は 民衆の間へ広まり、好戦的で勇猛果敢なチベット人たちは、平和を 愛する心優しい民族へと変貌していったのである。 ( 8〜11Cの間、ニンマ派は チベット仏教で唯一の宗派であった ) 仏教は見事に再生を遂げた。そして、ミラレーパのような大聖者 や サキャパンディタを始め とする大学僧が輩出してきた。 ところが この時期、本家のインド仏教は衰退へ向かい、13C初頭に イスラム教徒の攻撃を 受け、滅亡を余儀なくされてしまう。 仏教側の最後の拠点だった大僧院の座主は ヒマラヤを 越えてチベットへ逃れ、大切に守り伝えてきた教えや戒律の全てをチベットの僧侶に託した。 このようにして、チベット仏教は インド仏教の本流を そのまま継承すべく運命づけられたのである。 13Cの中頃、チベットは モンゴル帝国の襲来を受け、軍事的には屈服せざるを得なかった。 ところが、宗教面では モンゴル人をチベット仏教に帰依させる結果となり、チベットは やがて 独立を回復することができた。 そして 14C後半には、ツォンカパという偉大な宗教家が現われ、仏教の複雑多岐にわたる 教理と実践を整合性のある一大体系にまとめあげた( ゲルグ派 1409立宗 )。 これによって チベット仏教は、思想哲学の面でも実践修業の面でも、極めて充実した内容を もつに至ったのである。 チベットで有名な ダライ・ラマとパンチェン・ラマの2大転生活仏は、いずれもツォンカパの 弟子の生まれ変わりとされている。 17C中頃 ダライ・ラマ法王を チベット全土の政治と宗教両面にわたる最高指導者とする 体制が確立され、 古代王国が崩壊してから久しく分裂状態にあったチベットは、宗教国家の 装いも新たに 再統一を果たしたのである。 それと前後して チベット仏教は、モンゴル、満州、そして北京にまで広められ、アジア大陸 随一の国際的な宗教に成長した。 仏教を精神的な共通基盤に、広範な地域の間で 文化交流 が進み、チベットは その1大中心地として繁栄を極めた。 |
チベット仏教
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ダライラマってただのおっさんじゃね?
2008/7/5(土) 午前 0:15 [ 超 仏 陀 ]
そう、日本の我々にとっては 彼は、「ただのオッサン」ですね。
外見は、そんじょそこらの「オッサン」と何も変りません。
しかし、人は 外見で判断してはなりませんね。
外見(顔貌や身体・地位・富)で 人を判断する人は、自分をも その外見と同一視
してしまい、世界を その表面でしか生きられない人となります。
合掌
2008/7/5(土) 午前 9:51 [ kyomutekisonzairon ]
中国が説明するチベッ○像は、ある時まで、中国の一部として、ここに一つの国家があった。だが、中国が統一される過程で、平和里に、彼らも中国の一員として統一国家に入ってきた、というもの。この論理は、新○についても、蒙古でも、東北でも同じ。
ヨーロッパの歴史を見るまでもなく、「分裂」ということはあっても、「統一」ということはない。
「平和里に」、ここが信じられるか。「侵略じゃないか」。しかも、民族と言語の壁を乗越えて。侵略を示す歴史的証拠は、無数にある。「平和里」を押し通そうとすると、どうしても言論弾圧が必要だ。これは、中国では、恒常的にやられてきた。いや、日本でも、世界中でやってきた。
中国は、それが素直に認められない。その理由は、中国が「領域」に組入れた版図が大きすぎるからだ。もともと、全く中国の領域じゃなかったからだ。
2009/3/1(日) 午前 10:55 [ 出野行男 ]
(続き)
このブログで、いくらかその事実が分かりました。
なお、チベッ○では、元々平等だとか、宗教の強制はしなかった、ということは私には信じられません。ただ、それだけの拘束ができるほど力がなかったためか区別できません。「只のおっさん」、だが、「中身は違うぞ」と言っても、大した証拠がある訳ではではない。
2009/3/1(日) 午前 10:55 [ 出野行男 ]
「出野」さんへ。 「中華人民共和国」は、仰るように その辺境を領有するために
その覇権主義的手法を使ってきましたし、今も使っていますね。
新疆もチベットも内モンゴルも台湾も 或は 国内の少数民族たちも、漢人のやり方
に、必ずしも すんなりと納得はしていないでしょう。
そもそも、彼らの集団意識は 本来、国家よりも 同族集団への帰属意識の方が
強いそうですね。 幾たびもの王朝の交替・異民族支配のなかで、この生き方は
代々 ますます彫琢されてきたのではないでしょうか?
共産党も この意識の変革は できなかったのではないでしょうか?
中央政府は、今や 共産主義というイデオロギーで 国をまとめるのではなく、
資本主義経済(物質的豊かさと拝金主義)をもって、この領域支配をやろうと
試みていますが、
共産主義が普遍的なものではなかったように、この資本主義も普遍的なものでは
ないということを、これから ますます 身をもって理解せねばならなくなる
ことでしょう。(続)
2009/3/2(月) 午後 5:24 [ kyomutekisonzairon ]
「 宗教の統制 」――― 宗教をもって成立っている社会を、それを宗教に統制
されていると否定的に見るか、それとも 平和で平等な社会であったと肯定的に
見るかは、その人の立場によるのでしょうね。
中世ヨーロッパの教会支配は、その桎梏から自由になりたい国王や市民にとって
は、打破すべき宗教統制だったでしょう。しかし、民衆の平凡な生活にとっては、
どうだったでしょうか? 権力と富を 己が自由にしたい国王 や 宗教的禁忌に
拘束されずに 自由に商売をして富を得たい市民には、それは桎梏であり統制で
あったわけですが・・・。
チベットは、清朝においては それなりの独立性を維持できており、今日のような
一方的な漢人支配ではなかったようです。
<皇帝の権力も遠方には及ばない>という形容にチベットほどふさわしい所はない
と言われています。(続)
2009/3/2(月) 午後 6:00 [ kyomutekisonzairon ]
(あるエピソード)
ダライラマ13世のとき、清朝の駐チベット大臣が ランバという名の貴族を
ガシャ政府の大臣に任命した。章程(「二十九条章程」)には 駐チベット大使に任命する権利があると定められていた。しかし、
ダライラマ13世は、ランバを謁見して彼に言った。
「 駐チベット大臣がお前をガシャのメンバーに任命したが、お前は 私のガシャの
メンバーではない 」と。
この言葉で十分だった。ランバは直ちにラサを離れ、自分の荘園に戻って二度と
現れなかった。そこで、ガシャは 駐チベット大臣にランバは死んだと報告した。
駐チベット大臣は もちろん数日前まで元気だったランバが死んだなどという
ことは信じなかったが、たとえ それを嘘と疑っても、彼は自分では捜し出して
ランバが死んでいないことを証明のしようもない。彼は ダライラマ13世が
任命した人を大臣とするのに同意するしかなかった。
章程が彼に与えた権力は 実際には存在しないに等しかったのだ。
ーーー 以上
2009/3/2(月) 午後 6:17 [ kyomutekisonzairon ]
今日の中国が、チベットに対する 欧米の人権派の指摘するような行状を克服して
しかも、国家の秩序を維持できるかは、欧米先進国の猿マネで、経済と科学技術に
頼る限り たいへん疑問です。 合掌
2009/3/2(月) 午後 6:18 [ kyomutekisonzairon ]