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★ パンチェン・ラマ チベット仏教ゲルク派における ダライ・ラマに次ぐ高位の僧及びその称号 無量光仏(阿弥陀仏)の化身とされ、転生によって後継者が定められる チベット第2の都市・シガツェ市(日喀則)のタシルンポ寺(扎什倫布)の座主 (以下、「ダライ・ラマ法王日本代表部事務所」のHPより) パンチェン・ラマの位は、1642年 ダライ・ラマ五世がゲルク派を強化するため、 偉大な学者を意味するパンチェン・ラマの称号を 師のタシルンポ僧院院長に与えたこと から始まった。 それ以来、交互に師となり弟子となり、仏教の発展と民衆のために尽くしてきた。 しかし、ダライ・ラマとタシルンポ僧院のパンチェン・ラマとの関係は、必ずしも常に 良好なものとは言えなかった。時には 両ラマの宮廷間は緊張関係にあり、中国は両ラマ の緊張関係を しばしば利用しようとしてきた。 ダライ・ラマとパンチェン・ラマの関係を、チベットに侵攻した中国は、チベット人を 分断し その宗教と文化を破壊するための手段として利用した。 現在の紛争は、パンチェン・ラマ9世とパンチェン・ラマの中国亡命を強く不満とした ダライ・ラマ13世の論争に遡る。 ダライ・ラマ13世は 1933年に死亡し、現在のダライ・ラマは1935年に生まれた。 パンチェン・ラマ9世は 1937年にチベットへ帰国の途についたが、帰国途中 アムドで死亡 した。1939年、現在のダライ・ラマ14世が転生者として布告され、1940年2月に ラサで 即位した。 一方 パンチェン・ラマは、転生者が承認される1944年まで空位だった。この転生候補者 の承認には、中国の政治的状況が強く関係していた。 1949年国民党は ラサの中国大使館廃止を受け、この転生候補をパンチェン・ラマ十世 として承認し、6月11日に国民党政府が認可した。 しかし、数週間も経たないうちに アムド(チベット西部)が共産党軍に占領され、 同時に パンチェン・ラマも 彼らの手中に落ちた。彼らが パンチェン・ラマをダライ ・ラマの権威失墜に利用しようとしたためだった。 1949年 中国共産党が政権につき、1950年に 中華人民共和国が宣言された。 同年に 中国は チベット全面侵攻を開始して、たちまち チベットのほとんど全土を占領した。 国外、特にイギリス、インドからの援助を得られないまま、チベット政府は 中国と妥協 に努めるほかに 選択の余地は無かった。 この試みの一環として、当時16歳で 全権を掌握していたダライ・ラマは、紛争解決を 協議するために 北京の中国政府に使節団を派遣した。 だが チベット使節団は、事実上 紛争解決を協議するどころではなく、中国が指示した 「 チベットの平和的解放に関する17か条協定 」 を承認することしかできなかった。 これは 1951年5月23日に調印された。この協定が チベットの独立を実質的に終わらせた。 さらに チベット使節団は、中国が選定した パンチェン・ラマ十世を承認させられた。 中国の白書に、次のような一節がある。 「 1653年と1713年、時の清朝皇帝は、それぞれダライ・ラマ5世とパンチェン・ラマ5世 に尊称を贈った。それ以来、ダライ・ラマとパンチェン・ラマの称号が使われるように なり、チベットの政教一致体制が確立した。ダライ・ラマは ラサにあってチベットの 大部分を治め、パンチェン・ラマはシガツェにいて残りの地域を治めた。 」 ところが、この記述にはまったく根拠がない。 チベットの宗教学者であった賢人ツォンカパ(1357〜1419)は、チベット仏教のゲルク派 [黄帽派]を開き、これは ニンマ派、サキャ派、カギュー派に続いて チベット仏教4つ目 の主要宗派となった。 そのツォンカパの高弟に、パンチェン・ゲドゥン・トゥプパ という僧がいた。 そのパンチェン・ゲドゥン・トゥプパの3代目の生れ変りを、ソナム・ギャツォという。 彼は モンゴルのアルタン・ハーンに招かれ、そこで始めて ダライ・ラマの称号を 与えられた。称号は 先々代にさかのぼって追贈され、ソナム・ギャツォは ダライ・ ラマ3世となる。 かくして ダライ・ラマの系譜が始まるのである。 したがって 中国政府の言うように、ダライ・ラマの称号が 清の皇帝によって 17世紀 に授けられたとするのは 誤りである。 ダライ・ラマ3世とアルタン・ハーンとの関係は 宗教的なものだったが、2C後の1642年 両者の関係は 政治的なものへと発展する。ダライ・ラマ5世(1617〜82)が、モンゴル の部族王グシリ・ハーンの支援により、政教両界においてチベットの最高権威になる のである。 ダライ・ラマ5世は その恩賞として、グシリ.・ハーンに チューキ・ギェルポの称号 (「法の王」)を与えた。 歴代ダライ・ラマは、この時から 最高統治者としてチベット を治めるようになる。 したがって、ダライ・ラマの政治権威の確立は、白書に書かれる ような清の皇帝によるものではなく、ダライ・ラマ5世が モンゴルの首長の支援を得て 築いたものだ。 それは、清朝が 成立する2年前の出来事であった。 タシルンポ寺は、ダライ・ラマ1世 パンチェン・ゲドゥン・トゥプパによって、1447年に 建てられた。歴代は、その深遠な学識ゆえに「パンチェン」という称号が与えられている。 ダライ・ラマ5世は、その師パンチェン・ロサン・チューキ・ギェルツェン(1570〜1662) に、タシルンポ寺と若干の領地を与えた。 それ以来、パンチェン・ラマは その転生者 によって継承され、タシルンポ寺とその寺領地を受け継いでいく。 この相続形式は、 チベット政府から私有地をもらっていた サキャ、パスパ、ダキャプ・ロデン・シェラプ などの転生ラマにも多くみることができた。 ただ、そこに 政治の色合いは含まれない。 パンチェン・ラマなどの高僧がもちえたのは、中国の内容とは違い、ひとえに宗教権威のみ であって、行政には いっさい関知することがなかった。 シガツェやタシルンポ寺の行政権は、ラサ政府の任命した地方行政官が持っていた。 ・・・・ 以上 歴代のパンチェン・ラマ 1.ケドゥプ・ゲレクベルサンボ (1385 - 1438) 2.ソナムチョクラン (1439 - 1504) 3.エンサパ・ロサントンドゥプ (1505 - 66) 4.ロサンチューキゲルツェン (1567 - 1662) 5.ロサンイェーシェー (1663 - 1737) 6.ロサンペルテンイェーシェー (1738 - 80) 7.テンペーニマ (1782 - 1854) 8.ペルテンチューキタクパ (1855 - 82) 9.ゲレクナムゲル (1883 - 1937) 10.ロサンティンレールンドゥプチューキゲルツェン (1938 - 89) 11.ゲンドゥン・チューキ・ニマ 1995 ダライラマが指名 or ギェンツェン・ノルブ (1989 - ) 1995 中国が指名した <<<<
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