混沌の時代のなかで、真実の光を求めて

現代に生きる私の上に 仏法は何ができるかを 試そうと思い立ちました。//全ての原発を 即刻停止して、 別の生き方をしましょう。

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議論の世界は 平面的である。
信ずる世界は 立体的である。
信ずる世界は 価値の世界である。存在の世界ではない。

概念の遊戯、理屈をいかに横にし、縦にしても、
その中からは生命は生れぬ。

生きて動く世界に 生命がある。
信ずる世界は 生命の動く世界である。

地獄か極楽かを 議論だてて、しかる後 信ずるのではない。
信ずることによって、地獄と極楽との 解決がつくのである。
信ずる者には 結果の心配さえいらぬ。

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「白鳥座X−1」さんへ。
お心は よく分ります。彼らの行状への怒りは、私にも あります。
しかし、上にdyhkr-さんにも 申し上げたように、私は 彼らの意に随う気は毛頭
ありませんし 彼らを擁護する気もありませんが、

本当の問題は、彼らにはなくて 我々の方にあります。
ここの所を ぜひ 分って頂きたいと思うのです。 彼らに責任転嫁してはダメ!
彼らも ああした形でしか生きられない 悲しい凡夫です。
ここの所を見切り、自己自身のあり方を問題とせねば、彼らの不行状に振り回
された生涯を送ることになり、こんなことは シャクです?!

釈迦の教えには、しかし今日の人類を救う思想を持っているかもしれないのです。
その釈迦の教えを 形骸に堕っしているとはいえ、唯一 保存しているのは、
既成教団です。大学の宗教学や哲学 或はインド哲学の教室には、知識はあっても
行法はありません。 ここの所を 我々は 冷静に見ておかねばなりません。
合掌

2008/9/22(月) 午後 8:55 [ kyomutekisonzairon ] 返信する

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言われていることに、納得です。

ここで問題となっていることは、実は、言っている対象にあるのではなく、こちらの方に問題がある、ということなのでしょう。

そして、それこそが仏教であるような気がします。

他説が誤りであると、思っている間は、未だ、本当に、釈迦の境地からは、遠いように感じられます。

すべての疑惑を超えた人、これこそが、真のバラモンと呼ばれるべき人なのでしょうね。

最も重要なことは、それを言葉で言うことよりも、実践そのものであらなければならないと、強く思っています。

2008/9/22(月) 午後 10:05 [ dyh ] 返信する

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『スッタ・ニパータ』に登場する釈迦は、次のように言っています。

『もしも人が見解によって清らかになり得るのであるならば、あるいはまた人が知識によって苦しみを捨て得るものであるならば、それでは煩悩にとらわれている人が(正しい道以外の)他の方法によっても清められることになるであろう。このように語る人を「偏見ある人」と呼ぶ。』(Sn.679)

『かれらははからいをなすことなく、(何物かを)特に重んずることもなく、「これこそが究極の清らかなことだ」と語ることもない。』(Sn.794)

2008/9/22(月) 午後 10:28 [ dyh ] 返信する

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『ところで、宗教団体がビジネス化するというのは、そこに需要あるからでしょう。』

全く、そのとおりですね。

やはり、求める人があるからこそ、与える人がいる、ということなのでしょう。

2008/9/22(月) 午後 10:36 [ dyh ] 返信する

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ところで、私は、経典の中で、『スッタ・ニパータ』、特にその4章と5章に、釈迦の起源があるのではないのかと考えています。

それは、それらが仏典の中で最古のものであり、釈迦の直説に最も近いのではないのかということ以上に、これらの経典に強く共感しているからなのです。

ただ、一つだけ言えることは、これらの経典が書かれた時代があまりにも古く、何らかのものを断定できる確証もないのでしょうね。

そうとは言っても、仏教には、それぞれに相異なる様々な仏教があり、その人にあった仏教こそが、自分の仏教である、ということでいいのだと思います。

2008/9/22(月) 午後 10:53 [ dyh ] 返信する

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『ゆっくりこんさんの師匠のような霊能者の場合はどうですかね?白鳥座さん、霞さん』

すみません、ゆっくりこんさんの師匠がどんな人なのか、わかんないんですけど…w 削除

2008/9/22(月) 午後 11:54 [ 南雲 霞 ] 返信する

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dyhkr-さんへ。
第一コメント。「 すべての疑惑を超えた人、これこそが、真のバラモンと
呼ばれるべき人 」――― これは 釈尊が言ったことですね。
で、釈尊は 2500年前の当時のインドの人々に、その迷いの生からの解放を唱導
した人でしょう。当時、その社会的権威は衰えたとはいえ いまだ健在で、
真の人間たることを自認していたバラモンの人に対して、
< 真のバラモンとは こうしたものでしょう > と語ったわけでしょう。
すなわち、そこには 伝統的なバラモン思考への 鋭い批判があるのでしょう。
‘ あなたが 思っている(目指している)真の人間とは、こういう人でしょう ’
と・・・。

我々日本人は、バラモンの伝統にはありませんから、もし 釈尊が この日本に興出
されたら、例えば ‘ 真の日本人or民主主義者とは こういう人でしょう ’とか
と言われるんじゃないでしょうか?
こういう言い方で、当時のインド思想を生きている彼らを批判されたのでしょう。

仏教は、インドでも 中国でも また日本でも 当該の文明自体の総体的批判ですね。
(続)

2008/9/23(火) 午前 9:50 [ kyomutekisonzairon ] 返信する

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第四コメント。
「 仏教には、それぞれに相異なる様々な仏教があり、その人にあった仏教こそが、
自分の仏教である、ということで良いのだ 」
―――そうですね。
< 青色青光 黄色黄光 赤色赤光 白色白光> と言いますからね。

ところで、この句は 色と光とがあります。 色は いろいろですが、その 様々な色
を持つモノが、同じ光に照らされて そのモノ独自の色に輝くのが 仏教ですね。

光に照らされなければ、皆 バラバラで そこは争闘の世界となってしまいます。
様々な色は 自己を照らされる光を求める・・・。それがさまざまな形の仏教
となったのでしょうね。

我々も、こうした光(仏の智慧・真如の光)に照らされて、はじめて それぞれの
存在(色)を 尊重できるようになるのでしょうね。合掌

2008/9/23(火) 午前 10:09 [ kyomutekisonzairon ] 返信する

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虚無さん。私は仏教やキリスト教を宗教と認めないと言っているのではありません。今の宗教の源流はすばらしいと思います。しかし、今現在の宗教家による宗教は宗教と認められないと思います。仏教といえどそれを学ぼうとする人には経典や機会もあるでしょうが、多くの一般人の考えを開いたり導いたり、社会を導いたり、生きる目標になるようにすることがなにもできていない。これができないと宗教ではないと思います。キリスト教もしかりでしょう。仏教会の頂点にいる人の名さえ私は知らない。ただの内部の奉りです。

日本に仏教がないと精神上もっと迷いが出るかもしれませんが、今は余りに消極的な効果しかない。宗教家は自分の役目をなんと考えているのかという気持ちです。

2008/9/23(火) 午後 3:30 [ 白鳥座X−1 ] 返信する

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白鳥座X−1さんの言われている意味が、よく分かるような気がします。

特に、仏教などは形式的、表面的になってしまった。一切の凡夫には、説教しても、どうせ分からないのだから、といった考えが、彼らの頭の隅にあるのかもしれませんね。

2008/9/23(火) 午後 4:00 [ dyh ] 返信する

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「白鳥座X−1」さんへ。
う〜ん、宗教家(キリスト教は 今は置いておきます。これは僧侶のことですね)
のテイタラクを見られての これは 苛立ちと慨嘆ですね。
裏を返せば、これは 宗教への大きな期待を抱かれているからなのでしょう。

そうですネ〜。 経典を親しく読むことができ、宗教施設を持っているという境遇
(宿善)にある人たちへの熱烈な叱咤激励ですね。
まことに、僧侶の人たちは 一般の人たちの こうしたお心を、真剣に受取らねば
なりませんね。従来の様々なイキサツを 引き破って、令法久住の念願に立ち返って
出直しをしなくてはならない!

いつまでも、お釈迦さまの甘茶を啜り 宗祖の庇護にあずかって、千年の夢を
貪るようなテイタラクをしている秋ではありません。
仏法の世界の獅子身中の虫は、一体 誰か?!

まさしく、仏法者 徒な慮りを捨て、奮起して その腰を上げるべし!
です。

ところで、仰る「宗教者」ですが、仏教の発想では この言葉は、何か違和感が
あります。(続)

2008/9/24(水) 午前 0:25 [ kyomutekisonzairon ] 返信する

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少なくとも 大乗仏教においては みな 人は、「生死の一大事」を課題として
持っていると言います。 一人 僧侶だけが、仏法者ではなく、皆 人は 仏法者
であるというんですね。

すなわち、人は みな こうした課題に対して 自ら責任を負っているものだと
考えています。 従って、仏教の停滞と堕落の責任は僧侶だけにあるのではない
というのが、大乗仏教たる在家仏教の面目ですね。
仏教は、制度や施設ではありません。仏教は、それを生きる人の日常生活そのもの
の ど真ん中に 生きて働いているものです。

仏教の衰退・堕落とは、在家の我々の生活自体が、「 生死の一大事 」という
人間我らの課題を喪失しているということでもあるでしょう。
自己の「 生死の一大事 」を、僧侶なり他人なりに 任せてしまうというのは、
我々の精神的な自殺行為ではないでしょうか?
自分の生と死は、自分で解決せねばなりません。 合掌

2008/9/24(水) 午前 0:46 [ kyomutekisonzairon ] 返信する

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dyhkr-さんへ。 仰ること 分らないではないですが、そうです ネ〜、
「 一切の凡夫には、説教しても、どうせ分からないのだから 」と、僧侶が思って
いるというのは 一面の真実でしょうね。

もう一面では、これは 彼らが 説教に自信がないんですね。仏法が よく分って
いないから 自信をもって説けないんです。
これが もし自信を持って説けば、大変なことになります。
自分が分っていないことを 自信をもって説く人というのは、化け物でしょう。
化け物の教えを聞けば、人は 人間ではなくなるでしょう。

いずれにしても 僧侶に対する不満は、人々の 僧侶の人々への期待の大きさ
の反動であることを、僧侶の方々は 深く受取って、ご自身に この期待を荷って
頂きたいものです。

しかし、また 一般の我らは、僧侶の人格を云々しても 始りません。彼らの
荷物は 彼らが背負うべきで、我々が 代りに背負ってやろうなどという親切など
犬も喰わないでしょう。

僧侶がどうあろうと、私は まず法を聞くことに専念すべきだと考えています。
合掌

2008/9/24(水) 午前 1:11 [ kyomutekisonzairon ] 返信する

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法と言われても虚無さんの法は深くもあり多彩でもあり、虚無さんほどの聡明な記憶力の良い方でないとなかなかついていけないような気がします。ノロカメさんの説に近いですが、やはり宗教は実践だと思います。
住岡夜晃さんのお話は深く判りやすいですが、まだ多岐にわたっていると思います。人によりそれぞれ実行してみようということが異なりますが、同じような考えの人も多いと思います。これらのお話を十数件ほどもっと判りやすく話していただければ、ついていける人も多く実行しようと思う人も多いのではないでしょうか。
こういうようなことを僧侶がするべきではないでしょうか。すでにされていても効果が認められません。どこかに欠陥があるのでしょう。

2008/9/24(水) 午後 6:31 [ 白鳥座X−1 ] 返信する

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「白鳥座X−1」さんへ。う〜ん、ちょっと誤解があるようです。
「 虚無の法 」 と言われますが、私が所有している法は、私の宿業の色に
彩られており、そんなものは 他の人には役に立ちません。
そもそも、もし そういう法が 私の所有物であれば、私は 万人に公開されている
公であるべき仏法を、私物化していることになってしまうでしょう。 それは、もはや
仏法ではなくなり、 私は 仏法の簒奪者となってしまうでしょう。

即ち 仏法は 決して 私の私有物ではありませんし、誰の所有物でもありません。
もちろん僧侶のモノでもないのです。

無学文盲の老婆に、その生きている意味を見出させる力があるものが、仏法です。
知識など、仏法がわかるのに 何の役にもたちません。
<読書百遍、意 自ずから通ず>と、昔から言われてきました。
最初は 難しそうでも、文字も知らない老婆が 漢文の仏法の言葉を、学者よりも
はるかに深く理解することができるのが、仏法の世界です。(続)

2008/9/24(水) 午後 8:32 [ kyomutekisonzairon ] 返信する

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今日の我々は、現代西欧文明の考え方を 常識としていますので、文盲の老婆が
一流の学者よりも 漢文で書かれた仏法を深く理解しているなどという 昔から
ありふれた 日本国の宗教的教養の世界を見失っているのです。

欠陥があるのは、仏法の方ではなく 今日の我々の常識の方でしょう。
西欧的思惟では理解できない広大な世界が、この世にはあるのだということを、
今日 危機の時代に生きる我々は、知っておかねばなりません。

また、我々が それを当然とする思考が、実は 西欧的なものに偏った考えなのだ
ということに、折りに触れて 気付いていかなくてはなりません。
我々は 近代公教育によって、人間にとって大事なものを多く失っているのです。
合掌

2008/9/24(水) 午後 8:36 [ kyomutekisonzairon ] 返信する

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重要なことは、『僧侶がどうあろうと、私はまず法を聞くことに専念すべきだと考えています。』と言われる、まさに、このことであると思います。

他者を、どうこう言う前に、己自身が変わらなければならないのでしょうね。

私は、初期の経典を見る限り、釈迦は、他者を変革したり、仏教の教祖になろうとする気持ちさえもなかったのではないのかと考えています。

他者や反対意見者に、その考えをねじ曲げさせ、さらには、自説を他者に押し付けようとする行為は、執着というものなのでしょう。

その話、以前に、釈迦の時代には、「仏教」という言葉さえもなかったのでしょうね。

2008/9/24(水) 午後 11:55 [ dyh ] 返信する

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釈迦は、誰かが、何らかの質問をもって尋ねに来たところ、それにこらえられていた程度のものであったのではないのかと思っています。

そもそも、悟っている人にとっては、自説を他者に認めてほしいという「承認欲求」などといったものは、存在しないのだと感じています。

2008/9/25(木) 午前 0:02 [ dyh ] 返信する

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dyhkr-さんへ。
「 他者を どうこういう(する)前に、己自身が まず変らなければならない 」
――― これが 仏教の基本ですね。 そして ずっと 最後まで そうですね。

「 他者や反対意見者に、」以下のコメントは、一応は そう言ってよいと思います。

ところで、仏教は 釈迦の一生を 修道の模範としますが、出家から成道までは、
自己の覚りを求めて 一進一退、たいへんな苦労を致します。
で、その成道以後は 梵天の勧請によって、一切衆生を 改めて見直します。
そこに 悩み苦しみ 悲痛に呻く衆生や 間違った見解に捉われて 自縄自縛
している人たちを発見して、彼は 深い悲しみを感じ 転法輪の歩みを始めました。
所謂 積極的に 彼がこの地上でなすべき 仕事を発見したのでしょう。

この転法輪の40年余りの歩みは、ただ隠者のような生活ではなく、まさに
東奔西走・悪戦苦闘の衆生救済の命をかけた旅であったでしょうね。
(続)

2008/9/25(木) 午前 1:05 [ kyomutekisonzairon ] 返信する

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そういう意味では、世間的でいう「承認欲求」ではありませんが、
まさに 人々に覚りを得させるべく、自己の言葉や仕草を通して その意を伝えたい
という願いに生きて、故郷に帰ることもなく ガンジス河中流域の諸都市を廻って
おられたのでしょうね。
合掌

2008/9/25(木) 午前 1:11 [ kyomutekisonzairon ] 返信する

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