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私の居る所が 虚偽であるということ ――― これは、罪悪であります。 「 真実 」を ふみにじっているからであります。 「 真実 」は、太古から 原始の時代から、 我々人類 一人一人を、 昭々と 照らしてきたのである。 暗黒の中に生きる 苦悩の我々に、 大悲をもって 呼びかけつづけてきたのである。 「 大いなるもの・われ に帰れ 」と。 これを 南無阿弥陀仏 と言う。 私は、先師に 師に 当てにされうる者であろうか? よく よく 考えてみよ。 曰く。「 親鸞聖人は 念仏一つのためには 何でも捨てた 」(先師) と。 誤解や排斥・迫害の ただ中を、 黙々と歩む 「 顕真実 」の生活態度 ――― これを、「 法蔵菩薩 」 と言われてきたのであろう。 まことに その歩みを かの人々に見よ! そして、 無智なる私の かの人々に対する 固陋と残忍とを 見よ! 先生は、 これを 「 ご苦労の歴史 」 と言われた。 親鸞聖人は、 「 十七願海 」 と言った。 これが、「 得者を信ず 」(涅槃経) ということなのであろう。 なむあみだぶつ 時代の潮流が 大きく変っていた。 今まで聞いたことのないような 目新しい考え方が、 人々の周りで 声高に叫ばれていた。 この時から 20年後、すでに 明治国家体制たる 大日本帝国は 崩壊していた。 この間、わが国の人々は 激しい時代の流れに 呑み込まれ 翻弄された。 そして 先師は 亡くなり、 やがて 半世紀後の冷戦終結の後に 師も逝った。 法蔵(菩薩)の叫びは、こうした 時代潮流の波濤の中に 聞こえるのではない。 その一つ一つの波間に うなりを挙げている波濤の その遙か底に、静かに 熱く 叫んでいたのだ。 そして、昭和初年から 80年後の今日も、また そうである。 時代の猛り狂う海の 遙か底に、 法蔵は 狂乱の大悲をもって 静かに 静かに 呼びかけている。 時代社会の底から 聞こえてくる 「 真実 」の 声なき声に、 私は 耳を傾けなければならない! なむあみだぶつ 合掌
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僧伽について
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即ち、その宗祖(開祖)ではなく、その教徒によって その宗教が真実なものか
そうではないかが決まるのでしょう。
――― 仏教では、これを「 人・法蔵 」の問題として 捉えます。
まさに、ここに その宗教における 日々の 具体的な悪戦苦闘があるのでしょう。
「 法蔵菩薩=イエス=パウロ=仏さま(釈尊) 」
――― そうですね〜、「 = 」は 誤解を生ずる恐れがありますが、
(仏教では < 二にして一、一にして二 >という ものの見方をします)
浄土教徒は < イエスやパウロや釈迦に 法蔵菩薩を見出す > という方が
より正しい言い方かもしれません。
彼らに
仰るように「 仏性 」のハタラキを見いだすのが、浄土教徒の課題なんですね。
合掌
2009/6/13(土) 午後 7:17 [ kyomutekisonzairon ]
懲りずにご訪問ありがとうございます。
宗教に期待することは何か。善でもなく救済でもなく。不条理が因果律であろうと予定説であろうとどう受け止めても。不条理の中で、信じることが生きる『力』となることを期待しています。
信じるものは救われる。
2009/6/13(土) 午後 10:07 [ nanachan.umekichi ]
***さんへ。そうですね。こういう考えもあるのだということを、他の多くの方にも
知っていただくのは、ありがたいことだと 私も思います。
どうぞ、ご自由に お使いください。 合掌
2009/6/13(土) 午後 10:37 [ kyomutekisonzairon ]
nanachan.umekichi さんへ。お早うございます。
う〜ん、コメントの文ですが、「 主語 」が出てくると はっきりと ご趣旨が
わかるようになるのではないかと思います。
「 期待する 」のは、誰が 誰に期待するのか?
「 信ずる 」のは、誰が 何を信ずるのか?
「 救われる 」のは、誰が 何に救われるのか?
・・・・、といったことですね。
「 救われる 」ということが、誰か他人の上のことなのか?
誰か他人が救われねばならないのか?( 救われねばならぬ人は 沢山あります)
それとも、自分自身が そういう救われねばならない存在なのか?
――― 「 信ずる 」以前に、この事の見極めが はっきりしなくてはならないのが、
我々ではないでしょうか?
一体、私の<何が> 救われねばならないのか? ですね。
このことが ハッキリしないと、宗教は 様々な問題を引き起こします。 合掌
2009/6/14(日) 午前 9:14 [ kyomutekisonzairon ]
kyomuさん今晩は。分かり易くご説明下さり、有難うございました。
私は、キリストを伝えるとは慈悲に応える事ではないかと思っています。
私は伝えようとしているが未だ伝え切れていない段階です。
最初の二年程、私は尊敬する父に初めてお遣いを頼まれた子供のように
自分の使命に誇りを感じながら伝道をしていました。
人の孤独の原因は神から離れてしまった事によるのだと直感したのです。
しかし恥をかいたり葛藤に苦しむうち、次第に御父の目的は
別のところにあるのではないかと思うようになりました。
救い難い罪人は私以外に存在しない。
それは一般的クリスチャンの考えではないかもしれませんが
私にとっては神の国を信じることとイコールなのであります。
2009/6/15(月) 午後 9:53 [ - ]
watakusiさんへ。こんばんわ。
そうですね。 我々の孤独の原因は、神から離れてしまっているからでしょう。
離れるとは、神なしで生きているということですね。別の言葉で言えば、
神を無視して生きているということ、或は 神に背を向け 反逆しているという
ことでしょうね。
まことに、これは 救いがたい 私の現実です。 ここに「 罪 」というものが
あるのでしょう。
神は イエスを通して、こういう私の現実を 照らしだそうとなさっているので
しょう。 この 罪の現実が 明らかにならなくては、我々は 神を知ることも
できませんし、約束された神の国に入ることもできませんね。
仏教でいう 「 信ずる 」とは、この わが罪の現実を 明らかにされることです。
合掌
2009/6/15(月) 午後 11:48 [ kyomutekisonzairon ]
kyomuさん今晩は。いつもご丁寧なコメントを有難うございます。
仏教の「信ずる」とは己を削ぐというニュアンスでしょうか。
それが神の国に至るための方法と考えても宜しいのでしょうか。
私はあるとき宗教的体験をしました。大自然との一体感です。
そういうのを仏教では「一瞥」というのだと人に教えて貰いましたが、
私が見たのは「神=愛」、人間を友と呼ぶ霊、復活のイエスでした。
イエスが磔刑に処せられた天に昇ったことは知っていましたが
「復活」は余り一般的じゃないと思います。
私は、キリストは実は未だ生きてるんだ死んでないんだ等と
身近な処で吹聴したものでした。
そのような訳で私は一度もキリストを信じたことが無いが勝手に救わ
れた気になっているので、クリスチャンの言う「信じれば救われれる」
という事の意味がいまひとつ分かりません。彼らは何を信じているのでしょう?
2009/6/16(火) 午後 11:54 [ - ]
これをクリスチャンに直接尋ねると嫌な顔をされてしまったり、
貴方にもそのうち理解出来るわよと軽くあしらわれたりでションボリです。
あまり干渉しないでくれという事なのか、悪霊憑きと警戒されている
のか、この質問が人を選ぶ事だけは学習しましたが^^;
kyomuさんは何か答えをお持ちですか。宜しければご教示願えませんか。
2009/6/16(火) 午後 11:58 [ - ]
watakusiさんへ。 こんばんわ。 う〜ん、そうですね。
体験されたことが どういうものなのか、今少し 分りかねますが、
watakusiさんは、新約聖書を読まれていて、そこに ご自身の 違和感を持たれ
たところが、すなわち 聖書本来のものの考え方・感じ方なのでしょうね。
(クリスチャンへの違和感というより、聖書の記述への違和感ですね)
今一つ、「 神の愛 」は「 私の罪悪 」と 表裏一体だということが、
体験には ありましたか?
実は、これは キリスト教と浄土教に 共通の構造なんですね。
これがために、それらは 民族性を越えて 世界宗教となり得るものです。
即ち、人類の罪悪を見出したところに、これらの宗教の普遍性があるんですね。
大自然との一体感というのは、いろいろの有り方があるでしょうが、これだけでは
キリスト教でも 仏教でもありません。
もし、ここに 自己の卑小さ と 大自然の大きさ を同時に感じられたなら、
少なくとも仏教に 触れてはおられるでしょうね。合掌
2009/6/17(水) 午前 1:32 [ kyomutekisonzairon ]
kyomuさん今晩は。仰せのようにどのような神秘体験も「教え」が無ければそれは単なる生理現象であるし、それに何か特別な意味合いを持たせれば今流行りのスピリチュアルになってしまうのではと思います。
神の愛と自分の罪は分かち難いセットであっても、表裏一体という認識はありませんでした。それでも善と悪は表裏一体であると思います。この世には善である神しか実在していないのに、私の眼には確かに悪魔が見える…私を取り巻く困った問題に唯一の共通点は、私が関わっているという事実。ああ原因は私か、と思いました。
よく知られているように聖書の歴史は改竄?の歴史であり、その事実を無視して霊や無謬説を信じることに私はあまり関心がありません。
聖書が人の手による書物であるという事が必ずしも冒涜にはならないと思うのですが、きっとそれは人間とか文化に対する認識の差であり、越え難い壁なのだと思うようになりました。
2009/6/17(水) 午後 7:55 [ - ]
最近は伝統的キリスト教のドグマに苦しめられてきた信者が新しい聖書解釈のもと自由な信仰を持つようになったと知り一時は希望を持ったのですが、やはり私は異端のようなので伝統的信仰者への不用意な発言は慎まなければと思います。
この度はお時間を頂きありがとうございました。
先日、ファン登録させていただきました。
また立ち寄らせて頂きますので宜しくお願い致します。
2009/6/17(水) 午後 8:03 [ - ]
watakusiさんへ。 こんばんわ。
「 どのような神秘体験も『教え』が無ければそれは単なる生理現象である 」
というのは、炯眼だと思います。
この『教え』とは、その体験の実証性・真実性を保証するものですね。
『教え』とは、その実証者が すでにあったということですし、自分の得たものが
真実であるということを 証明するものですね。
逆に言うと、自分の独善性を解毒するものであり、他者(社会性)の発見ですね。
上に述べた表裏一体とは、
「 神の愛 」は、「 私の罪悪 」への愛だということです。
キリスト教と浄土教とは、ニュアンスorその構想が違いますが、
「神」があって 「私の罪悪」があるのではなく、「私の罪悪」ゆえに 「神の愛」
があるというところが、その信仰の すわり ではないでしょうか?
キリスト教では、ちょっと不明瞭な処がありますが、「悪魔」は 他(外)にある
のではなく、私の内にあって 私そのものでしょうね。(続)
2009/6/17(水) 午後 11:25 [ kyomutekisonzairon ]
仏教では、これを「 無明・煩悩 」とも言います。
聖書の歴史を
改竄の歴史と見るか、その時代・その環境における記者の信仰告白と見るか、
によって 聖書に対する姿勢は 違ってくるでしょうね。
仏教の経典の場合も、そうですね。
経典or聖書の「 無謬 」は、いわゆる科学的客観性のことではなく、信仰的な無謬性
ですね。科学的無謬性は 宗教的無謬性とは 次元の違うものでしょうね。
「 聖書が人の手による書物であるという事が 必ずしも冒涜にはならない 」
と、私も思います。 ただ、そういう事実と、その聖書を通して「神の愛」・
「私の罪悪」を見出していくということとは、次元が違う 二つの事実でしょうね。
私は、何も 伝統的なキリスト教を 擁護しているのではありません。
そこには、仰るドグマなど、克服しなくてはならない多くの困難な問題があると
思ってはいますが、その克服の試みである 聖書の近代的解釈(新しい聖書解釈)
も、必ずしも 成功しているとは 思えません。(続)
2009/6/17(水) 午後 11:52 [ kyomutekisonzairon ]
聖書なり仏典なりの教えの内に、ご自身の得られたものの実証性を より深く
見出していかれれば、そこに 社会性を獲得していかれるのではないでしょうか?
そして、キリスト教2000年の歴史を ご自身一身に荷負することができる
ようになり、まさに 「イエスは 今 生きていらっしゃいます」と 現代に 堂々と
表明できるようになるのではないでしょうか? 合掌
2009/6/17(水) 午後 11:58 [ kyomutekisonzairon ]
kyomuさん今晩は。大変貴重なアドバイス有難うございます。
私には勿体無いことで、大切に致します。
聖書の科学的解釈と信仰は次元の違うものだと私も思っています。
しかし其々の次元はそれ自体部分的なものであって貴賤などなく、
その一つ一つは其々が一枚岩の如く一貫しているべきだと思います。
信仰とはそのように幾つもの理解が層になっているものではないでしょうか。
神は愛であるけれど他宗教は悪であるとか、隣人に向かって愛が無い
等というのは幾つかの次元を跨いだ理解で一貫性に欠けていると思います。
その次元で言うなら聖書は捏造されたただの古本でしょうと言いたくなります。
2009/6/18(木) 午後 7:08 [ - ]
仰せのように、信仰の成熟度は社会性と深い関係にあるのではと
想像したことはありますが、それが具体的にどういう事なのか、
私は未だ殆ど理解できていないと思います。
それは自分の立場を真に理解していないということであり、
『私の居る所が虚偽であるということ』とは、この事かと思います。
2009/6/18(木) 午後 7:18 [ - ]
watakusiさんへ。キリスト教は、パウロによって その形ができましたね。
キリスト教は、イエスが形作ったものではなく、まず パウロによるイエス解釈
の教でしょう。 ここに、すでに イエスの捏造(?)があります。
また、アウグスティヌスは、聖書を読んで パウロ以来のイエスへの信仰に 新たな
視界を開き、後世の人々のキリスト教信仰に 大きな影響を与えましたね。
彼らは、科学的な聖書解釈を知っていたわけではありませんが、しかし 深い宗教性
を開きました。そして、彼らの信仰を キリスト教と、今日の我々は言っています。
イエスが 生きておれば、その形の想像を絶する変容に驚いたでしょう。
パウロにさえ、彼は驚いて 抗議をしたかもしれません。
以上のように、キリスト教の歴史を見れば、改竄と捏造の歴史でしょう。しかし、
この中から、アウグスティヌスなどが出てきたということは、驚くべきことで、
単に、これを改竄と捏造の歴史だとは 言い得ないものがあります。(続)
2009/6/18(木) 午後 8:47 [ kyomutekisonzairon ]
この全歴史を その善も悪も すべて見て、しかも これを宗教性の発露と
受け取る歴史観がなくては、イエスはハシゴを外されて 二階に取り残されます。
もちろん、キリスト教界が 実際に為した悪徳の数々は、承知の上のことで、
しかも この全歴史を 啓蒙思想のように、虚偽と詐欺の歴史としてしまっては、
‘角を矯めて 牛を殺す’ということになりかねません。
はるか東海の島国に住む我々は、キリスト教界が為してきたことに 深い影響を
善きにつけ悪しきにつけ 被っていますので、彼らの歴史は 我々の運命の一部と
なっています。
それ故に、この全歴史は 他人事とはなし得ない我々ですので、これを 何とか
排除するのではなく、仏教徒の私も意味あるものとせねばなりません。合掌
2009/6/18(木) 午後 8:49 [ kyomutekisonzairon ]
kyomuさんの仰る通りだと思います。
お陰さまで自分なりに心の整理ができたように思います。
このたびは、本当に有難うございました(´∀`*)
2009/6/18(木) 午後 9:34 [ - ]
watakusiさんへ。
こちらこそ、ものを考えるキッカケを頂きまして、有難うございました。
合掌
2009/6/20(土) 午前 0:36 [ kyomutekisonzairon ]