混沌の時代のなかで、真実の光を求めて

現代に生きる私の上に 仏法は何ができるかを 試そうと思い立ちました。//全ての原発を 即刻停止して、 別の生き方をしましょう。

死者は何処へいったか?

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涅槃会

〜〜〜〜  涅槃会 (ねはんえ)
  〜〜〜〜
 釈迦が亡くなったのは、
 中国に仏教が伝わって以来、陰暦2月15日ということになっています。 仏教徒は、
 古来、この日を「 涅槃会 」と言って、その遺徳追慕と報恩のために法要をしてきました。

 今日の日本では、<時>を 陰暦では計らないので、古来からの「 涅槃会 」は、
 生活から遊離して、それが いつなのか よく分らなくなりました。
  ( キリスト生誕やバレンタインデーは はやっても、釈尊の 生誕会も成道会も涅槃会も
    いっこうに はやらない 世俗的キリスト教化した現代日本です。
    果ては、最近の日本人は死んだら 天国に行くのがはやっていて、浄土に還る人は
    めっきり少なくなって、浄土は シャッター通りorゴーストタウンになっているとか・・・。  )
   
 しかし、いつ 釈尊が亡くなったか、その正確な 年と日時が分らなくては、或は 世間に
 はやらないから、涅槃会は 無意味なものだ というというものでもないでしょう。

 ところで、今日の西欧産の暦で 2月15日というと、丁度 一週間後です。
 そこで、この涅槃会に因んで、釈尊のことについて 少し考えてみることにします。

 ^^^^^^^^^^                        〜〜〜〜〜


今まで 慣れ親しんでいたモノに、思いもしなかったようなことが起ったとき、 そのものを、
‘ そんなはずではなかった ’ と 蹴飛ばすのか? 
‘ もう、付き合いきれない ’と ・・・ 。
私たちが 生きているということは、 ただ 楽しかったらよいのでしょうか?
私は 楽しい、 私には 苦しみがない 
――― それだけで 満足できるでしょうか?
  哀れ、 私の日常は まさに このようなことで 始終しています。
この凡夫性の 帰結として、
この世の 極楽のような 華やかな宮殿の中、 
多くの人たちが希望する 幸福の条件の 全部揃(ソロ)った中に立って、
‘ 人生は 苦悩だ ’ と叫ばれた
  というふうに、 釈尊を 徹底して 私は理解できないのです。


釈迦は、王族として生まれ、 宗教の専門の家に 生まれたのではなかった。 
聖なるバラモンの伝統の中に その出自をもたない人であった。
そして 世俗のただ中で、その世俗のままでは 人生が完結しないことを見出した人であった。
バラモンの宗教的伝統の中で、その伝統が完結できないことを問題とした人ではない。
‘ 初めにヴェーダの伝統ありき ’ではなく、‘ 初めに世俗的現実ありき ’という人だった。

そして これを、世俗の生活をしつつ 問題とするのではなく、その生活を捨てて 出家によって 
解決しようとしたのは、彼が 沙門の伝統をもつインド文化圏の中に 生まれたが故であろう。
人間の問題を、世俗の中でではなく、その外で解決しよう(できる)という思考法である。
ここには、インド文化の 他の文化にはない 底の抜けた大きさと柔軟さがある。


ともあれ、彼は 出家した。 
<真理>を見出すためではなく、<世俗生活そのものの苦悩の解決>のために出家したのだ。
( さもなければ、 彼の出家は 中国人が言ったように、苦を恐れて逃避し 自己一身のみ
  が救われるために、その社会的責任を放棄した 卑怯者と言われてもしかたがない )

それ故に、 彼は ウパニシャッドなどの伝統的世界に呑み込まれることなく、五比丘から 
堕落者だと誤解を受けようとも、山を下りて 菩提樹下の 悟りの座に 坐りえたのである。
もし、その出家の主要動機が <真理>を得ることであったならば、伝統的思惟の世界に
奥深く入り込んで、 彼は 決して 山を下りるということはなかったであろう。


世俗の富と権力を集めた 金殿玉楼のただ中に、それに満たされざる苦悩を見出したところに、
釈尊の釈尊たるところがある。
ここに、 他の諸宗教に対して 仏教の問題意識の独自性がある。
私たちが生きているということは、ただ楽しかったら いいのでしょうか?
という 素朴で しかも根源的な 人間の問いを、 王宮の若きシッダールタは 密やかに懐き、
やがて、それを 我々人類の前に 提示したのである。 
これが、いわゆる 「 仏教 」であったのだ。

そして、この問いは、
今日の 輝かしい 科学技術文明が立っている足元を、即ち 私の生活そのものを
覆(クツガエ)すほどの 広くて深い 根源的な問いなのではなかったでしょうか?


                                  合掌


                 * 文中の「 肌色の背景と薄緑色の枠 」内は、先師のことば です 

 
 

閉じる コメント(8)

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こんばんは。
死者は、何所へ行くでしょうか。彼岸のあの世でしょうか。死者の為に供養を35年間、何故するでしょうか。死者の為ですか。残された家族の為ですか。死者は、浄仏になる為と、そして、この世に再び生れ変わって、又、もっと幸せな人生になるんだと、このように教えているでしょうね。その根拠は、インドから中国へとそして、日本へと伝わった事でしょうか。それとも日本の神社から産み出された教理でしょうか。もっともインドや中国の死生観日本と違った形で捉えていますが、如何でしょうか。

2009/5/11(月) 午後 7:49 [ nobu ]

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「kj0691man」さんへ。はじめまして。コメント、ありがとうございます。

死者についての我々の考えは、今日 たいへん混乱していますね。
仰っておられるのは、わが国の死者儀礼に伴う曖昧な観念のことでしょうか?
この習俗は 仏教が深く関与していますが、残念なことに これは 本来の仏教では
ありませんね。 歴史的なイキサツから 死者儀礼を仏教に委ねられて、そのために
仏教本来のものが 大変 歪曲されて 世間に流布するようになってしまいました。

仏教は 「生老病死(四苦)・愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五陰盛苦(計 八苦)」
を 本来 問題としますが、この内の「 死 」だけに 仏教が 特化したために、
仏教自体 したがって、仏教の「死者」観も イビツなものとなりました。

まず、言葉について。
「 彼岸 」とか 「 供養 」とかは、仏教用語ですね。
で、仏教で言う「 彼岸 」とは、<あの世>のことではありません。(続)

2009/5/12(火) 午前 0:55 [ kyomutekisonzairon ]

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丁度、「ホトケ(仏)になった」が 世間では<死んだ>という意味で使われたり、
「娑婆」が、<牢獄の外の世間>として使われたりするのと同じですね。

「 彼岸 」とは、超越的な世界のことを言います。時間・空間を超えたものです。
彼岸に対して、我々の時間・空間の世界・苦の世界を 「 此岸 」と言います。
すなわち、「 彼岸 」とは 真の安らぎの世界であり、これを「涅槃」と言います。
‘ なぜ、彼岸が 真の安らぎの世界か ’というと、煩悩を離れた世界だからです。

次に、「 供養 」とは、死者儀礼とは何の関係もありません。
供養とは、歴史的イキサツは置いておいて、本来の仏教の意味は、
自分の持っているモノを捧げて、相手を 尊び重んずる心を表明することです。
そして、それは 面前の生きている人にするのものです。死んだ人にしても
意味はありません。(続)

2009/5/12(火) 午前 1:20 [ kyomutekisonzairon ]

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しかし、たとえ 死んだ人であっても、もし その人が 今も 生き生きとした働き
を この世に残された人に及ぼして、尊ばれている場合には、
その人は 死んでいるのではなく、残された人にとっては 生きているのでしょう。
このときは、「 供養 」は成立するでしょうね。

世間で行われている死者儀礼としての供養は、すでに その人の人格的な影響は
多くの場合 失われていますから、本来の供養ではありません。
しかしながら、キリスト教徒の方にとっては、イエスは 今も 生き生きとした存在
ですから、死人ではなく 「 供養 」されて当然な存在と、仏教徒は考えます。

供養とは 死者儀礼ではなく、我々の 生きる依り処となり得るから「 供養 」という
ことがあるのですから・・・。

また、人は死んで どこへ行くか? ですが、これは もちろん 浄土に往生します。
合掌

2009/5/12(火) 午前 1:37 [ kyomutekisonzairon ]

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***さんへ。 こんばんわ。 新春のご挨拶、ありがとうございます。
昨年は、お母さまを亡くされたましたこと、お悔やみ申し上げます。

先師は、もちろん 私にとっては 供養すべき人です。
ところで、「 人は 念仏しなくても 浄土に往生するか? 」ですが、たぶん
これは、お母さまを思われての問いだと思います。

で、お母さまは もちろん、
弥陀の大悲のなか、浄土に往生されていらっしゃるのでしょう。これは 疑いないこと
だと思います。 そして、この世に残された わが子のありさまを見て、何とか救おう
と 心痛されているのだろうと思います。

この世に残された者が、愛する死者を救おうというのは、間違いですね。
もし、この世の者が 他者を救えるとすれば、生きている者をすら とてもできない
相談ですから、ましてや もはや 手の届かなくなった人を救えるということは
如何にしても あり得ないことです。(続)

2010/1/3(日) 午後 10:11 [ kyomutekisonzairon ]

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我々この世の者は、「娑婆(此岸)」の迷いの者ですから、「浄土(彼岸)」から
の救いのハタラキを受けるべき者です。
浄土にいらっしゃる以上、お母さまは この世の者を救うべく、そのお心を砕かれ
ているのでしょう。

この お母さまの心痛(菩薩の心)を癒し得るのは、即ち 成仏を可能とするのは、
この世(此岸)に残された者の責務でしょうね。その責務とは、此岸の迷妄の生を
転換して生きるようになることでしょう。 この世の全生涯を的にして、迷妄の生の
何たるかを わが子に教えるべく ご苦労なさった お母さまのご恩に報いるという
責務ですね。
「 ただ、念仏して 弥陀に助けられまいらすべし 」と、お母さまは 呼びかけて
おられるのではないでしょうか? 合掌

2010/1/3(日) 午後 10:35 [ kyomutekisonzairon ]

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いつも丁寧にお答えいただき、ありがとうございます。

2010/1/4(月) 午後 6:50 hop*519

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hopiさんへ。 合掌

2010/1/5(火) 午後 7:25 [ kyomutekisonzairon ]


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