縄文人(2)縄文土器の分布 : 北は 宗谷岬と千島列島、 南は 沖縄島を限界とし、( 宮古島や八重山諸島は 台湾の土器と同系統 ) 縄文時代は 1万年という長い期間に渡った為、大規模な気候変動を経験した。 また、日本列島は 南北に極めて長く、地形も変化に富んでいる為、現在と同じく 縄文時代も 気候や植生の地域差は大きかった。 ―― 縄文の文化形式は 歴史的にも地域的にも 一様でなく、多様な形式を持った 最後の氷河期が終って BC.4000年頃まで(草創期から前期)は、 地球の気温は 徐々に温暖化。 この間、日本列島は 100m以上もの海面上昇を経験しており、 海面は 今より 3〜5mも高かった(縄文海進)。 '''草創期'''( 約15,000〜12,000年前 ) 最終氷期の約2万年前の最盛期が過ぎると 地球規模で温暖化に向かう。 しかし、最後の氷期である晩氷期(約1万3000〜1万年前)の気候は、 数百年で 寒冷期と温暖期が入れ替わるほど 急激な環境変化が、短期間の内に起った。 それまでは 針葉樹林が列島を覆っていたが、西南日本から太平洋沿岸伝いに 落葉広葉樹林が拡がって、北海道を除き 列島の多くが落葉広葉樹林と 照葉樹林で覆われ、コナラ亜属やブナ属、クリ属など堅果類が繁茂するようになる。 又、温暖化による植生の変化は、 マンモスやトナカイ、或はナウマンゾウやオオツノジカなどの大型哺乳動物の 生息環境を悪化させ、約1万年前には、列島から これら大型哺乳動物は ほぼ絶滅。 環境の変化に伴い 貝類や魚類が新しい食糧資源になる。 狩猟の獲物は、ゾウや野牛の大型哺乳動物からシカやイノシシの中・小哺乳動物に変り、 弓矢が急速に普及する。 竪穴住居址から サケの顎骨( 小型の骨製U字型釣針 ) @ 縄文草創期の列島の植生は、冷涼で乾燥した草原が中心だったが、 落葉樹の森林も 一部で出現していた。 北海道とサハリンは繋がっていたし、津軽海峡は 冬には結氷し 北海道と 本州が繋がっていた。 瀬戸内海は まだ存在しておらず、本州、四国、九州、 種子島、屋久島、対馬列島は 一つの大きな島だった。 この大きな島と朝鮮半島の間は、幅15km程度の水路だった。 その後、温暖化で 海面が上昇し、対馬・朝鮮半島間の水路の幅が広がって 朝鮮海峡となり、対馬暖流が 日本海に流れ込む。 これにより、列島の日本海側に 豪雪地帯が出現し、その豊富な雪解け水によって、 日本海側には ブナなどの森林が形成される。 新しい道具が 短期間に数多く出現。 石器群では、大型の磨製石斧、石槍、植刃、断面が三角形の錐、半月系の石器、 有形尖頭器、矢柄研磨器、石鏃などが 出現。 使われなくなっていく石器群、新しく出現する石器群がめまぐるしく入れ替わった。 草創期前半、遺跡により 石器群の組合せが違う。 * 急激な気候の変化による植生や動物相、海岸線の移動などの環境の変化に 対応した道具が次々に考案された。 * 局部磨製石斧( 呪術か? ) 槍・弓矢。 現在知られる 最古の土器は、 青森県大平山元I遺跡 や 茨城県後野遺跡 出土の 無文土器(16,500年前 ) * 縄文的な型式の土器の変遷が定着するのは 草創期後半から。 隆線文系土器群が 本州、四国、九州と 広範囲に分布 狩猟・植物採取・漁労の三つの新たな生業体系をもとに 生産力が飛躍的に発展。 '''早期''' ( 約12,000〜 7,000年前 ) 人口 2万100人 列島が 完全に大陸から離れて島国となる。 初めは、現在より気温2度ほど低く、海水面も30mほど低かった。 大型哺乳動物は 季節によって広範囲に移動を繰り返すので、それを追って キャンプ生活 を営みつつ 頻繁に移動した。 キル・サイトやブロック、礫群、炭の粒の集中する所は 列島内で数千カ所も発見され ているが、竪穴住居を伴う遺跡は、ほとんどない。 縄文への移行期である草創期には、 一時的に特定の場所で生活する半定住生活を送るようになり、 早期には 定住生活が出現。 鹿児島市加栗山遺跡(早期初頭): 16棟の竪穴住居跡、33基の煙道つき炉穴、 17基の集石など。 草創期の掃除山遺跡や前田遺跡の場合と違い、竪穴住居跡の数の大幅な増加、 住居の拡張、重複した住居跡、これらの住居跡やその他の遺構が 中央広場を 囲むように配置。 これとほぼ同時期の同県霧島市の上野原遺跡では 46棟の竪穴住居はじめ 多数の遺構。この内 13棟は、桜島起源の火山灰P-13に覆われており、同じ時に存在 したもの? 13棟は半環状に配置され、早期初頭 既に相当な規模の定住集落を形成。 縄文早期前半、関東地方に竪穴住居が もっとも顕著に普及。 現在知られる 竪穴住居遺跡は 65カ所、その数は 300棟を超える。 ( 最大の規模は、東京都府中市武蔵台遺跡、24棟の竪穴住居と多数の土坑を 半環状に配置 ) 南関東や南九州の早期前半の遺跡では、 植物質食料調理器具の石皿、磨石、敲石。加熱処理具の土器も大型化、出土数も増加 定住生活には、植物質食料、特に堅果類が食料の中心になっていたか? 南関東の定住集落の形成には、植物採集活動だけでなく、漁労活動も重要な役割を 果たしていたか? ( 堅果植物を叩いたり、砕いたり、すりつぶしたりするための石皿や磨製の石など。 網用の土錘・石錘。ヤス、銛。 ) @この時期の土器は、3系統があり、 北東アジア系は 北海道〜東日本、華北・華中系は 西日本、華南系は 南日本 から出土。 北海道函館市中野B遺跡からは 縄文早期中頃の500棟以上の竪穴住居跡、 多数の土壙墓、陥し穴、多数の土器、石皿、磨石、敲石、石錘などが出土し、その数は 40万点に上る。 津軽海峡に面した台地上にあり 漁労が盛んに行われ、長期にわたり 定住生活 を営めたか? 東海地方の早期には、静岡県富士宮市若宮遺跡は 28棟の竪穴住居をはじめ, 多数の遺構群とともに、土器と石器が 18,000点ほど出土。 この遺跡が 他の早期の遺跡と大いに違う点は、狩猟で使用する石鏃2168点も 出土したこと。 富士山麓のこの遺跡では、小谷が多く、舌状台地が連続する地形 が 哺乳動物の生息に適した場だった。 環境に恵まれ、獲物にも恵まれて定住生活を営む条件がそろっていたか? 貝塚は、この時期の前半、海が進入してできた海岸地域に作られた。 ヤマトシジミが主体。 最古級の貝塚: 横須賀市夏島貝塚、千葉県香取郡神崎町西之城貝塚。 押型文土器期の愛知県知多郡南知多町先刈(マズカリ)貝塚は 海面下13mから発見。 智頭枕田(チヅマクラダ)遺跡 〜 九州を除き、西日本最大規模の集落跡 縄文早期から弥生、奈良、平安に至る生活痕跡を残す複合遺跡 ・縄文中期末〜後期初の、竪穴住居跡12棟を中心に、掘立柱建物跡・配石遺構・ 貯蔵穴などからなる集落跡。 石囲炉の中心に埋甕を埋めており、東日本の影響を受けたと見られる。 半定住的な生活は、周辺地域の開拓までに至らなかったが、 定住をするようになると、周辺の照葉樹林や落葉樹林を切り開いていく。 ――→ クリやクルミなどの二次林(二次植生) また 定住化で、集落の周辺に 林床植物と呼ばれる 下草にも影響を与え、 ワラビ、ゼンマイ、フキ、クズ、ヤマイモ、ノビルなどの縄文人の主要で、安定した 食料資源となった有用植物が繁茂しやすい二次林的な環境(雑木林)が生れた。 (プラント・オパール分析) 縄文時代の建築材や燃料材は クリが大半で、集落の周辺にクリ林が広がっていた。 ( 縄文早期前半は、照葉樹林帯は 九州や四国の沿岸部および関東以西の太平洋沿岸部 に限られ、その他では 落葉樹が優勢。) 早期には定住集落が登場した他、本格的な漁業の開始、関東における外洋航行の開始など 新たな文化要素が加わる。 ( それまで縄文人が定住を避けた理由、即ち 食料確保や廃棄物問題、死生観上の要請 などが、定住でも解決できるようになったか? ) 早期前半 関東東部で 集中的に 板状土偶が作られる。 * 最古の土偶は、三重県松阪市飯南町粥見井尻(カユミイジリ)遺跡 3点 顔や手足はないが、乳房を明瞭に表現(約12000〜11000前) 土偶は、縄文の全期間を通して 列島各地で満遍なく使われていたのではなく、 時期と地域で 限定されていた。 中期に 土偶の使用は 一旦消滅。 後期前半、東日本で 再び使用されるようになる。 後期に、それまで土偶の見られなかった九州で、その北部及び中部に登場。 東日本に偏り、西日本は希。 犬の伴葬。屈葬。 約7300年前の鬼界カルデラの大噴火
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縄文時代は豊であったといわれていますが、日本の原風景ですね。日本の北と東、西、南と、それぞれが北東アジア、華北・華中、華南系と土器が関連しているのがおもしろいですね。この時代、これらの近い地方に交易があったと理解してもよいのでしょうか。以前、青森の縄文中期後期の三内円山遺跡を見に行ったことがありました。
2009/6/17(水) 午後 8:24
資料と結果の信憑性はどのくらいあるのでしょうか。
縄文時代、面白いですね。私は、南からは偶然により、北からは季節変動により、海洋人、大陸人が来たと考えています。あまり強力な資料はありませんが、現在に残っている生きた証拠(海流、人相、言葉、生業)からそんな事を考えています。
縄文時代に、主さんがこのような結論を出されたというのなら、その一部でもいいですから教えてください。
2009/6/18(木) 午後 9:07 [ 出野行男 ]
saidakyokoさんへ。
縄文時代は 最終氷期の後の 温暖化の進行で、地上の様相は 随分変りましたね。
縄文土器は、千島列島・北海道から沖縄まで ほぼ日本列島全域に広がって、
一つの文化圏を形成していたのでしょう。
しかも、それは 10,000年余り続いたのですから、今日の我々の生活を
深く既定しているのでしょうね。
それゆえ、アイヌ問題から 遡って、一足飛びで 縄文時代を、少し調べてみよう
と思いました。 いろいろと 現代を考える上で 示唆に富むものがあります。
――― 例えば、かの時代の温暖化も、その一つです。
大陸との交易については、あまり要領を獲ません。もう少し 調べてみます。
三内丸山遺跡については、縄文前期から中期ですので、後ほど取り上げたいと
考えています。
2009/6/20(土) 午前 0:16 [ kyomutekisonzairon ]
「出野行男」さんへ。
縄文時代の時代区分の暦年代の数字は、資料によって 若干の違いがあります。
一応、ここでは Wikipediaの数字に依りました。
これから、いろいろ調べつつ、記事を補正していきたいと考えています。
縄文時代の人々は、仰るように 様々な方面から 時代を異にして、この列島に
渡来してきたのでしょうね。 この間 10,000年以上ありますから、
その出自が 多様のなのは、当然でしょうね。 そして、この間 彼らにとっては
現代の我々には想像もできない位、時間は ゆっくりと流れていたのでしょう。
合掌
2009/6/20(土) 午前 0:32 [ kyomutekisonzairon ]
私は、地殻変動を考えていると、その始まりは、中国広東省あたりから始まり福建省、せっ江省へと移動し、そして、日本・九州へきて、さらに、今は東北、北海道へその本体が移ったような気がします。
そして、変動の終わったところから、岩石の収縮と共に、沈降海岸になり、現在に至っていると思えるのです。どうですか。私の構想。
その間に人類がこの運動にどんな関与をしていたのかと。
地殻変動
2009/6/20(土) 午前 0:45 [ 出野行男 ]
主さん、
物の本によると、北から移動してきた人は非常に多く、南から移動した人は少ないとあります。そこで、私は、北からは組織的、南からは偶然だと考えました。
それにしても、北から移動してくる人は2万年とかいう非常に新しい時代になっていますが、これが、私には納得できません。もっと早い時期から人類の移動があってもいいと思うのです。なぜなら、この人たちが、ベーリング海を通って、アメリカ大陸に移っていくのに、この期間がたった1万年かそこいらで移るには、時間がとても短すぎるのです。
それに対して、南から来る人は、流速の早い(時速7キロ)日本海流にたまたま流されて、インドネシアあたりから流れ着いた人が日本に住み着くようになるのです。海を漂流するのですから、ほとんどの人が死んでしまう、分かります。だけど、数が少なすぎるように思います。この流れは、3、4万年前から始まることになっています。私は、この点は、まあ、妥当かと思います。
全体を通じて、北と南の整合性がとれていないように思います。
2009/6/20(土) 午前 7:51 [ 出野行男 ]
華南からの流れについて何年か前に驚いたことがありました。華南で大洪水が起きたとき、流木やらゴミが7日後には日本の長崎や鹿児島の海岸に到着したのです。だから、大昔の人も、海流に乗ればきっととても速くついたのでしょうね。
2009/6/20(土) 午後 7:04
「出野行男」さんへ。 4万年前には、アルタイ地方に 細石器(細石刃)が
世界に先駆けて 使われはじめ、 これは 瞬く間に アラスカなど 世界各地に
広がったということです。
これは、長さ 約3cm以下、幅0.5cm前後の小形の石刃で、、幾つかを
木や動物の骨の柄に溝を掘って はめ込み、植刃器や尖頭器として用いられた
一種の替え刃式石器。槍や銛の先端近くに 刃として埋め込んで貫通性を高め、
槍全体を軽量化することで、投げ槍としての命中率を高めた、と言われますね。
日本列島では 九州と北海道に 14000〜12000年前ころ、濃密な 細石器
の遺跡が出てくるそうです。これは 縄文草創期ですね。
( 材料は、黒曜石、砂岩、チャート、流紋岩、ガラス質安山岩、硬質頁岩など )
細石刃文化は、
北東日本の「楔形細石刃」 と 南西日本の「野岳(ノダケ)・休場(ヤスミバ)型」や
「船野型細石刃」の二つの分布圏に分かれ、
前者は シベリアから北海道を経て 本州へ、 後者は 中国黄河中・下流から
九州を経て 本州へ及んだか? と。(続)
2009/6/21(日) 午前 0:27 [ kyomutekisonzairon ]
この説だと、
後期旧石器人が そのまま縄文人になったわけではないということになります。
列島が 大陸と陸続きになったのは、
約63万年前、43万年前、18万年前、2万年前の4回あったようですね。
そして、12000年前 大陸から切り離され、現在の列島となった、と。
43万年前にやってきたナウマンゾウなどの中国北部の動物群や それ以前から
居たものが、2万年以前の列島には棲息していたが、
最終氷期に大陸と繋がった北海道は マンモス動物群が宗谷陸橋を渡ってきて、
それらの混合相となった。
又、マンモス動物群を追って、後期旧石器人が渡ってきただろうと推測される。
本州・四国・九州・琉球では、新しい動物群が入ってこれなかったために
古くからその地域に生息していた固有種が多く残り、後期旧石器人は 入ってこなかった・・・。(続)
2009/6/21(日) 午前 0:56 [ kyomutekisonzairon ]
列島には、この間 幾度となく 北、西、南の陸狭( 宗谷・津軽・対馬・朝鮮などの
海峡 )を通って、いろいろな動物が渡ってきたし、さらに その動物群を追って
旧石器人が渡ってきたと言われているそうですね。
氷期を 約6万年前を境に 前半と後半に分けると、
前半は 温帯性の針葉樹によって占められる針葉樹林の時代。
後半は 約5万年前と約2万年前の亜寒帯の針葉樹が 繁栄する時期と、
それ以外のコナラ属が繁栄する時代からなる。
そして、最終氷期の最盛期である約2万年前の植生は、
北海道南部から中央高地にかけては 亜寒帯性針葉樹林で、それより西側は
温帯性針葉・広葉の混交林が広範囲に拡がり、暖温帯広葉樹林である照葉樹林
は、西南日本の太平洋側沿岸の一部と南西諸島に後退していたと言います。
約25000年前、姶良(アイラ)カルデラの巨大噴火。
大量の火山灰が 九州から東北日本までの植生に大きな影響を与えた。
気候が寒冷化に向かう過程で噴火が起こり、針葉樹林化を速めたと言いますね。
(続)
2009/6/21(日) 午前 1:24 [ kyomutekisonzairon ]
このことは、動物群や人間社会にも影響を及ぼし、それまで 全国均一な石器文化
を保持していたものが、 地域的な特色のある石器文化圏、ie.西日本と東日本
というような石器文化圏成立に影響したのであろうと言われます。
2006年1月現在、日本の旧石器で 層位が間違いなく確認できる最古のものは、
しかし、4万年前まで遡るかどうかといった状況で、列島全域で4000カ所を超える
旧石器時代の遺跡のほとんどが、約3万年前から1.2万年前の後期旧石器時代
のものだそうですね。
地殻変動 云々とは、列島の形成のことですか?
大陸氷河の溶融で、海水面が上昇し、さらに その水圧で 地殻が沈降と隆起を
したといったことを仰っているのですか?合掌
2009/6/21(日) 午前 1:43 [ kyomutekisonzairon ]
私は、北方民族が、マンモスなどを追って樺太から北海道へ南下したとうのは疑問に思います。
氷河期に人類が活動できたのは、夏のはずです。こんな寒い地方でも、夏には、気温が0度以上に上昇し、人間活動に良くなりました。だが、冬は、零下50度にも達し、彼らは熊と同じように冬眠生活をしていたはずです。みんな縮こまっているときに人間だけ元気に闇の中を駆け巡るのですか。
私の感じでは、食糧がなくなって、もう我慢の限界だとなったとき、マンモスとは関係なく、南下を始めたと思うのです。時期も冬じゃありません。春先、いや、初夏にです。初夏ならば、流氷はたくさんあるし、一日のうち20時間くらいは明るいので、一縷の望みを託して、生き延びの大冒険をやったのです。
この感じは、アフリカで、鰐のたくさんいる川を象やカバ、牛が多少の被害にあうのは承知で、一気に川を渡っていくのと同じです。
この考えに意見があれば話してください。
2009/6/21(日) 午前 8:16 [ 出野行男 ]
北海道の常呂(ところ)と言うところには、樺太(サハリン)からの漂流物遺跡がたくさんあります。私は、北から必死の思いで薄氷を渡ってきた人が一時休憩したところだと思います。
私は、常呂遺跡の話を聞いた時、自分の説が正しいと思いました。
2009/6/21(日) 午前 8:20 [ 出野行男 ]
「出野行男」さんへ。 こんばんわ。 おもしろい説ですね。
最後の氷期に 北方の旧石器人が、食糧不足のために 南下したと・・・。
色々と考えさせられました。
分らない所が多いので、まず マンモスについて調べてみます。 合掌
2009/6/22(月) 午前 1:17 [ kyomutekisonzairon ]
虚無さん
宜しくお願いします。私も、一生懸命考えています。
今、中国・せっ江省の地形を考えています。
2009/7/2(木) 午前 11:15 [ 出野行男 ]
虚無さん
忘れていました。「地殻変動」とは、東アジアの地形形成のことで、列島形成のことです。
100万年前から考えてみると、意外に中国東南部は、今より百m、2百mの単位で土地が高かったのじゃないかと思います。何故かというと、せっ江省辺りの地形は、長崎県・佐賀県の肥前半島や三重県英虞湾あたりにとてもよく似ています。以前、この辺りでも、火山活動があり、中部山岳と似た感じがあったはずですから、それとの対比で、今は収束期にある中国の海岸山脈については、もっと高かったと考えるのです。
そうすると、それを前提とする、人類活動はあったのかどうか。一般には、遺伝子から見ると東アジアの歴史は数万年という事になっていますが、もっと古いのじゃないかと思うのです。
2009/7/2(木) 午前 11:27 [ 出野行男 ]
「出野」さんへ。 こんにちわ。
東アジア全体の地形の歴史については、また稿を改めて
調べてみたいと思います。
東アジアにおける 人類の活動ということになると、いわゆる北京原人を含めて
言えば、随分 遡りますが、彼らは 今日の我々の直接の祖先かどうかは、
不明ですね。 ネアンデルタール人は 東アジアには居なかったようですし、
したがって 7万年前の最終氷期を経て、4〜3万年以降の現生人類の活動と
いうことになるのでしょうね。 合掌
2009/7/3(金) 午後 6:45 [ kyomutekisonzairon ]