縄文人(3)'''前期'''( 約 7,000〜 5,500年前 ) 人口 10万5500人縄文前期から中期にかけては、最も典型的な縄文文化が栄えた時期で、 三内丸山遺跡と呼ばれる場所に起居した縄文人たちが保持していたのも、 主に この時期の文化である。 海水面は 縄文前期の中頃には 現在より3mほど高くなり、気候も 2〜4℃温暖だった。 この時期 いわゆる縄文海進によって、沿岸部には 好漁場が増え、海産物の入手も容易に なったと言われる。 ( 富山県魚津の埋没林のように大陸棚が水没するなど海岸線が大きく変化した 約7000年前 現在の瀬戸内海が形成された ) 植生面では 関ヶ原より西は 概ね照葉樹林帯となった。 前期から中期にかけ、日本列島には 大きく分けて 九つの文化圏が成立していた。 1.石狩低地以東の北海道/アイヌモシリ エゾマツやトドマツなど 針葉樹が優勢な地域。トチノキやクリが分布していない点も 他地域との大きな違いである。 トド、アザラシ、オットセイという寒流系の海獣が豊富であり、それらを捕獲する為の 回転式離頭銛が発達。 2.北海道/アイヌモシリ西南部および東北北部 石狩低地以東と異なり、植生は 落葉樹林帯である。ミズナラ、コナラ、クルミ、 クリ、トチノキといった堅果類の採集が盛んに行われた。 回転式離頭銛による海獣捕獲も行われたが、カモシカやイノシシなど 陸上のほ乳類の 狩猟も行った点に、石狩以東との違いがある。 東北地方北部 〜 円筒式土器 (「円筒形」の胴長の形が特徴 ) ・・・「下層式」(前期)、「上層式」(中期) 巨大な集落を形成 〜 例.三内丸山遺跡 3.東北南部 動物性の食料として、陸上のシカ、イノシシ、海からは カツオ、マグロ、サメ、 イルカを 主に利用した。 前2者と異なり、この文化圏の沖合は 暖流が優越する為、寒流系の海獣狩猟は 行われなかった。 大木(ダイギ)式土器 〜 凹凸のある変化に富んだ器形、文様は「沈線文」や「隆起線文」が主流 4.関東 照葉樹林帯の植物性食料と内湾性の漁労が この文化圏の特徴で、特に貝塚については 日本列島全体の貝塚のうち およそ6割がこの文化圏のもの。 陸上の動物性食料としては、シカとイノシシが中心。海からは ハマグリ、アサリを 採取した他、スズキやクロダイも多く食した。 これらの海産物は内湾で捕獲されるもので、土器を錘とした網による漁業を行った。 5.北陸 シカ、イノシシ、ツキノワグマが 主な狩猟対象であった。 植生は 落葉広葉樹(トチノキ、ナラ)で、豪雪地帯である為 家屋は大型化した。 6.東海・甲信 狩猟対象は シカとイノシシで、植生は 落葉広葉樹であるが、ヤマノイモやユリネ なども食用とした。 打製石斧の使用も 特徴の一つである。 7.加賀・能登・越前・伊勢湾沿岸・中国・四国・豊前・豊後 狩猟は シカとイノシシで、植生は 落葉広葉樹に照葉樹(シイ、カシ)も加わる。 漁業面では 切目石錘(石を加工して作った網用の錘)の使用が特徴であるが、 これは 関東の土器片による錘の技術が伝播して出現したと考えられている。 8.九州(除:豊前・豊後) 狩猟対象は シカとイノシシ。植生は 照葉樹林帯。 九州南部は、縄文早期末 喜界カルデラの大噴火で、ほぼ全滅と考えられる壊滅的 な被害を受け、縄文早期とは全く異なる轟式土器を携えた人々が南下してきた。 * 轟式土器(熊本県宇土市轟貝塚出土土器を標式とする) その分布状況が 海岸沿いに多いことから、海洋性に富む土器と言われ、 九州一円はもとより、一部は山陰、瀬戸内沿岸にも達し、更には対馬海峡を 越えて朝鮮半島南部にも分布を広げる土器。 また 大隈諸島の種子島、屋久島にまで伝播している。 この伝播の背景には、当然 優秀な丸木舟の製作技術や航海技術が必要で、 九州と奄美・沖縄諸島との間、更に、朝鮮半島との間に、何らかの形で情報伝達 の方法が確立していたと考えられる。 九州島と韓半島の間に広がる多島海を舞台とした外洋性の漁労活動を示す、 朝鮮半島東部の釣針を祖形とする西北九州型結合釣り針(軸:鹿角、針先: イノシシの牙)や石鋸(イシノコ 石器を先端につけたモリ)が特徴的。 結合釣り針とは 複数の部材を縛り合わせた大型の釣り針で、同じ発想のものは 古代ポリネシアでも用いたが、この文化圏のは 韓半島東岸のオサンリ型結合釣り 針と 一部 分布域が重なっている。 9.トカラ列島以南 植生は 照葉樹林帯である。 動物性タンパク質としては ウミガメやジュゴンを 食用とする。珊瑚礁内での漁労も特徴であり、漁具としては シャコ貝やタカラガイ などの貝殻を網漁の錘に用いた。 九州文化圏との交流もあった。 沖縄: 縄文後期、晩期の縄文人骨の出土例はあるが、中期より遡る出土例は少ない。 @ 縄文後期に入ると、これら九つの文化圏のうち 2〜6 の五つがまとまり 単一の文化圏(照葉樹林文化論における「ナラ林文化」) を構成するようになり、また 7と8 がまとまって 単一の文化圏(照葉樹林文化論 における照葉樹林文化)を構成するようになる。 その結果、縄文後期・晩期には 文化圏の数は 四つに減少する。 縄文前期、玦状耳飾り(起源地 中国江南地域?)が 北海道から九州にかけ(除 沖縄) 女性の間に大流行。 富山湾地域が 制作地か。 中国江南地方で衰退した頃には、日本列島でも使われなくなった。 / 中期(4500年前)以降、土製(焼物)の 円盤状耳飾りに変化 勾玉(←― 玦状耳飾り)・管玉などの装身具がつくられる。 縄文時代早期末から前期初頭に 滑石や蝋石の勾玉が出現、中期にはC字形のものが 見られ、後期から晩期には複雑化、材質も多様化する。 縄文時代を通じて 勾玉の大きさは、比較的小さかった。 遅くとも 縄文中期(BC.5000年)頃には ヒスイ製勾玉がつくられており、 特に 新潟県糸魚川の「長者ヶ原遺跡」からは、ヒスイ製勾玉とともにヒスイの工房が 発見されており、 「三内丸山遺跡」 や 北海道南部 出土のヒスイは、糸魚川産(蛍光X線分析)。 このことから、縄文人が 広い範囲で お互いに交易をしていたと考えられている。 後には、日本製勾玉は 朝鮮半島へも伝播している。 竪穴住居が 広場を囲んで集落をつくっていた。 湖沼の発達により 丸木船がつくられる。漁労活動が開始された。 木器・土器・櫛・黒曜石などに 「漆」を塗ることが始まる。 この期を境に、土器の数量は 一気に増加、形や機能も多様化し、平底深鉢土器が一般化。 ほかに 浅鉢・台付き土器も出現。 土器は 羽状縄文を施した繊維土器が盛んに作られる(→関山式、黒浜式)。 環状列石がつくられ始める( 最古の発見例は 長野県諏訪郡原町の阿久遺跡 )。 (つづく)
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多様な生活様式と広がりと書く分かかんの交流が、これまでの日本人の多様な生活を形作るもとになったのですね。現代は一方的交流とますますの単一化ですか。
2009/7/2(木) 午前 8:42
人類が舟を造るのはもっと早いのじゃないかと思います。
船と言ってもいろいろですが、とにかく水の上が移動できる物は、かなり古くないと人類の拡散は遅くなってしまいます。この点は、どうですか。
2009/7/2(木) 午前 10:59 [ 出野行男 ]
saidakyokoさんへ。
当時は、そもそも 国家というようなものは無かったわけですし、それぞれが
自らの置かれた 圧倒的な自然環境に応じて 生きていく工夫を、お互いに
影響しあいながら、やっていたのでしょうね。
多様な生活というのは、各自の自然環境の中に包摂された生活ということでしょう。
しかし、自然環境から分離し独立した生活を目指す中で、社会に 階層というものが
できて、国家というものが形成され、その国家によって 自然を 自己の下に
屈服させてきた人類の歴史を 「 文明 」と言うのでしょう。
一円的な領域を支配する国家は、人類の 自然の多様性の中からの離脱であり、
世界を 自己を中心に秩序付け、単一化(単純化)して 世界を見ることで、自然を
自己に理解可能・把握可能なもの、その殺生与奪の権を持つものと考えるように
なりました。(続)
2009/7/2(木) 午後 11:01 [ kyomutekisonzairon ]
しかし、それでも 従来の国家(近代国家ではない国家)は、大自然への畏敬
の念を失ってはいませんでした。そこに、従来の国家の健全性があります。
多様性の尊重ということは、今日 文化伝統を異にする民族を出自とする人々が、
一つの都市or国家に生活するのを是とするときにも言われていますが、これは
個人主義を基礎に成立つ 現代都市生活のイデオロギーの下で使われている特殊
な「多様性」ですね。
私は、この現代の欧米型の「多様性」に 不健全なものを感じています。
合掌
2009/7/2(木) 午後 11:23 [ kyomutekisonzairon ]
「出野」さんへ。
縄文早期には、
定住集落が登場したほか、本格的な漁業の開始、関東における外洋航行の開始
など 新たな文化要素が付け加わった。
と言われているようです。
舟( この時期のものは 一本の木をくり抜いた4〜8mの丸木舟 )は、やはり
定住と縄文海進が 大きなきっかけではなかったかと思います。
但し、仰るように 旧石器時代にも 舟を使った可能性もありますが、
(これは、もう少し 調べて見たいと思います)
【ラピタ人】というのがあります。 これは、約3600年前、インドネシアの
ビスマルク諸島に突如姿をあらわし、バヌアツ、ニューカレドニアを経て、ついに
西ポリネシアのトンガ、サモアにも居住を始める。
2000年前頃には 再び拡散を開始し、クック諸島、ソシエテ諸島、マルケサス
諸島など 東ポリネシアに到着、
西暦1000年頃には、イースター島、ニュージーランドに到着したそうです。
合掌
2009/7/3(金) 午前 0:23 [ kyomutekisonzairon ]
(追って)
上のように、ポリネシアなど南太平洋から ハワイにかけての人類の航海は、
意外と新しいですね。
又、陸上においても 古代エジプト帝国が姿を現わしたのは、新石器時代の
BC3000年と言われますから、縄文前期から中期にかけての頃です。
馬を巧みに乗り回して 中央アジアの草原を四方に疾駆する遊牧騎馬民族の
スキタイ帝国は BC800〜BC300ですし、BC8Cに 始めて全オリエントを
統一したアッシリアは、それより以前 BC5000年にはその活動を開始しており、
これは縄文前期に相当します。
農耕と牧畜の開始は、今から9000年前と言われますから、縄文早期に当ります。
草原を疾駆する馬は 6000年前に家畜化され、砂漠を横断するのに必要な
ラクダの家畜化は 4500年前と、ずっと遅いです。
すなわち、こうした 物資の運搬や移動手段を、人類が手に入れ、帝国を形成する
のは つい最近のことですし、さらに 馬の疾駆力を 存分に生かして ユーラシア全体
を震撼させたモンゴル人の活動が 13Cであることを考えると、
(続)
2009/7/3(金) 午後 5:10 [ kyomutekisonzairon ]
舟(船)の使用は、せいぜい縄文早期or前期と言っても 不自然ではないのでは
ないでしょうか?
逆に言うと、我々人類が 今日のような度外れた活動というものを始めたのは、
つい 1万年にも満たないこのかたのことであるということは、いろいろな事を
考えさせてくれるのではないでしょうか?
この短期間の ホモ・サピエンスという種の異常増殖は、尋常ではありません!
彼らは 文明の進歩・科学の進歩などなどと ナルシシズムに陥っていますが、
短期間の このような生活形態の変容は、彼らが ヒト科ヒト属ホモサピエンス種
の生物である限りは、極めて異常なことではないでしょうか?!
ちなみに、
ヒト属(ホモ属)は およそ200万年前にアフリカでアウストラロピテクス属
から別属として分化し、ホモ・サピエンスは40〜25万年前に現れた・・・と。
合掌
2009/7/3(金) 午後 5:22 [ kyomutekisonzairon ]