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日蓮は、あからさまに 法然を 謗法の者〜反仏教者〜と 口を極めて非難した人である。 それゆえか、 日蓮の徒が、彼の在世当時より 今日まで 700余年にわたって 連綿と その伝統を 継承してきたということは、私は 奇異というか まことに不可思議の感がする。 しかし、彼らもまた、浄土教徒と同じく 人間であったのであり、 両者の人間的素質に、生来の優劣があったわけではない。 私が 法然・親鸞を最上とするように、彼らは 日蓮の言行とその思想を最上とするのである。 また、日本の外に眼を向けると、 キリスト教徒は イエス・キリストを この上ないものとし、 ムスリムは ムハンマドを 最後の偉大な預言者だとする。 彼ら キリスト教徒やムスリムが 人間的素質で どちらかに優劣がある訳ではない。 又、彼らは 仏教が理解できないからといって、生来の精神的な不具者である訳ではないし、 仏教徒は Godやアッラーを信じないからといって、宗教的な欠陥者である訳ではない。 こうしたことは、 私が 親鸞の言葉に 親近し 依っていることの根拠が、 本当に <親鸞の言葉が最上である> という処にあるとは 必ずしも言い得ない現実が、 私の足元に 横たわっていることを照らし出す。 どういうことか? もし、私が 西欧に生まれ、キリスト教的な文化的伝統の中に 育っておれば、 東海の島国の親鸞に それが最上のものとして 依るということはあり得なかったであろうし、 むしろ 私は イエスに依って 思惟していたであろう。 また、若いとき 日蓮の徒に遇っておれば、 今 私は 日蓮の徒として その言葉に依って 思惟しているだろう。 この意味で、 私が 親鸞浄土教に これを最上なものとして 依っているということは、 実に 奇妙で 不可思議のことだと 言わざるを得ない。 しかしながら、 そもそも、宗教(者)とは こういう不可思議な因縁の内にあるものであろう。 一見、世の中には これが最上なものだと主張する 沢山のものがあるように見える。 最上のものは、それが沢山あるものではなく、ただ一つあるはずであるが、 この世の宗教を見ると、それが こういう矛盾*にあるのを見て、 *矛盾: 一つであるべきものが 沢山ある、 沢山あるものが 一つであるはずはないという矛盾 西欧の近代的知性は、これを宗教自体の「 欠陥 」であると考えた。 ここに、近代の悲劇が始まったのである。 世界と人生を考えるときの 致命的な偏向と転倒が、世界に蔓延したのである。 彼ら近代的知性の旗印は、「 客観的 」であった。 しかし、彼らは 「 客観 」というものが どういうものかということは、 やっと カントやフッサール程度にしか捉えられない。 <人間が 「 客観的 」であり得る > というドグマから始まった近代的知性は、 そもそも、自己を否定して < 人間は「 客観的 」にはなり得ない > ということを、 どうしても認めることができない。 それは 彼らの自殺行為だからである。 しかし、これまでの歴史の現実を虚心に見るとき、 彼ら近代的知性は、この< 客観的になり得る >という前提を つねに裏切ってきたし、 彼らが宗教に見た悲惨事以上の悲惨事を、地球上に巻き起こしてきた。 大乗仏教が見出した「 三世十方の諸仏 」という言葉は、 我々の このような業因縁に規定された 痛焼・苦悩の現実、すなわち 絶対・無限の立場( これこそが客観の立場であろう! )に立ち得ない 相対・有限の者だ という 自己自身への 透徹した現実認識に応じたものであったであろう。 * 三世 : 過去・現在・未来 十方 : 東西南北 と その間の東北・東南・西南・西北 及び上下の方向 諸仏 : 多くの仏、すなわち 仏は 一仏ではない! 一々の仏が それぞれの宗教世界を造り それを統理している・・・。 合掌
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僧伽について
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こんばんは。
阿弥陀仏は、「唯一至上の神」とは違うのでしょうね。
2009/9/8(火) 午後 9:13
全ての宗教をもう一次元上から、奥から、さらにもう少し抽象的に見ると統一した思想になり得るのではないかと考えるのですが如何でしょうか。
もちろん私にはまだよく判りませんが。
2009/9/9(水) 午後 6:18 [ 白鳥座X−1 ]
hopiさんへ。 お久しぶりです。
「唯一至上の神」というのは、いわゆるキリスト教の God のことでしょうか?
世界創造神ということであれば、阿弥陀仏は 世界を創造してはいません。
世界は、「因縁」で このようにできたもので、これを造った何かがあるわけ
ではありません。また、科学が見るように、世界は自然法則によってできている
ものとも、仏教は考えません。
しかし、Godが 我々人間の救いを その最大の関心事としているということに
ついては、阿弥陀仏も そうです。この点では 「唯一至上の神」=「弥陀」
です。但し、Godの救いの対象は 人間だけですが、弥陀は 生きとし生けるもの
一切を対象とします。
また、その救いの対象たる我々を 「罪深きもの」と認識する点も、Godと弥陀は
同じです。 合掌
2009/9/9(水) 午後 6:22 [ kyomutekisonzairon ]
「白鳥座X−1」さんへ。
すべての宗教を統一して見る立場というものを、人間我々は取ることができるか?
ということを、今日の我々は 自己に問うべき時代ではないか? と考えています。
近代西欧は、これを 人間知性(理性)によって為そうとしてきました。
しかし、この試みは まったく失敗に帰したのだということを、今日 深刻に問われ
なくてはならないことだろうと思うのです。
しかし、現実に 多くの宗教があるわけで、しかも 真実宗教と言い得るものが
たくさんあるわけです。
そこで、多くの宗教の 真実性を支えているものが、何か あるはずではないか?
と、我々は 考えざるを得ません。
しかしながら、この真実性は、もし 我々が それに素手で触れようものなら、
ただでは済まないでしょう。 否、そもそも これに裸のままで触れることは、
我々には できないものでしょう。
その伝統という厚く覆われた宗教の形を通さなくては、我々は それに触れられない
というものが、真実というものではないでしょうか?(続)
2009/9/9(水) 午後 7:24 [ kyomutekisonzairon ]
その宗教の有象無象の伝統の余計な外皮を剥がせば、即 真実が顕れるものでは
ないでしょうし、真実だけを そのゴワゴワした伝統の中から取り出そうという
のは、美味い汁だけを吸うという、これは あまりに虫がよすぎることです。
真実というものは、我々が 自己の小さな汚れた手に掌握できるような 小さな
汚れたものではないわけでしょうね。 むしろ、我々の把握を越えたものが
真実というものでしょう。
さまざまな宗教を統一する視点は 我々にはなく、真実の方にある・・・。
わが宗教を最上だというのは、さまざまな宗教を統一する視点が 自己にはない、
即ち、他(人)の宗教より 自らが信じている宗教が優れているという宗教的独善を
破る力・否定する力を その宗教が持っている故に、それを最上だというのが、
真実の宗教というものでしょう。
逆に、そういう力をもっていないものは、未だ 真実を見出しかねている宗教
ということになるでしょうね。(続)
2009/9/9(水) 午後 7:45 [ kyomutekisonzairon ]
また、それが 真実を見出し得る力( 宗教的独善を否定する力 )をもつ宗教
であっても、それをやっている個人は その宗教が指し示す真実を 十分 見いだせて
いない ie. その人自身の宗教的独善を 未だ その宗教によって否定されていない
ということが 多くある訳で、そこに 具体的な「 修行 」というものがあるのでしょう。
真実は、修行抜きには 我々には見出し得ないのでしょう。別の言い方をすると、
様々な宗教・思想を統一する視点を 自分は もちえないという自己認識抜きには、
真実というものは 見出し得ないものではないでしょうか? 合掌
2009/9/9(水) 午後 8:17 [ kyomutekisonzairon ]
明快に丁寧に答えていただき、ありがとうございます。
ここで論じられていることが、我々人類がかかえている問題の核心だと思います(大袈裟ですが)。一歩踏み外せば戦争の原因になることもある、無宗教者以外の全ての人が求めているものがありますね。それは守るべき「人の道」でしょうか。あるいは「救い」でしょうか。あるいは心の平安でしょうか?
2009/9/9(水) 午後 10:18
hopiさんへ。こんにちわ。
そうですね。私としては、我々人類が 今 直面している込み入った諸問題の
根源にあるものの指摘 と その解決の方向を、上の記事に述べたつもりですが、
この思惟を、多くの人々に 評価してもらうことは、未だ なかなか難しいようです。
今日 我々は、 従来の概念or言葉で ものを見 ものを考えることを 放棄して、
その概念や言葉を使ってではなく、直に 現実に向き合い、直に 心の声に耳を
傾けることを 始めるべき秋(とき)であろうと思うのです。
「 人の道 」や「 救い 」や「 心の平安 」という言葉を、従来とは違った響き
で 聞き、今までとは違った光の中で 見るという・・・。 合掌
2009/9/10(木) 午後 6:24 [ kyomutekisonzairon ]
生涯に繰り返し思うことですが、人間は物語の中でしか生きられない。
どんな善も悪も正義も、真実でさえ、それを認識できるのは物語性に頼っている。
そう認識するからこそ、物語の共有を求めて対話するのだと思います。
真理はその対話の中に、浮き上がってくるだけであり、
“これ”と定義すれば、また間違えるしかないものでもあるでしょう。
形がありそうで、実体のない真理ではありますが、
“無い”のか?と言えば確かに“有る”
ただ言葉はあまりにも世界が狭く、物語れば偏ってしまうために、
言葉を越えて話をする必要があるのでしょう。
しかしまた市井にも、田舎にも、そういう話が出来る人はいるものです。
2009/9/13(日) 午後 0:05
「イソップ」さんへ。
仰る通り、「 人間は 物語の中でしか生きられない 」存在ですね。
また、「 【真理】は その対話の中に、浮き上がってくる 」のであり、それは
「 “これ”と定義すれば、また間違えるしかないものでもある ・・・ 」のであり、
「 形がありそうで、実体のない真理ではありますが、“無い”のか?と言えば
確かに“有る”。ただ言葉は 余りにも世界が狭く、物語れば 偏ってしま 」い、
「 言葉を越えて 話をする必要がある 」ようなものでしょうね。
ところで、この「 物語 」のなかで 現れる【 真理 】の真理性は、どのように
評価・確認できるか? という問題が、ここに 横たわっていますね。
我々の知性と感性に頼って、それを【 真理 】と 本当にできるかどうか?
――― ‘ あなたの言う(感ずる・思う)真理は、独善・独断ではないのか? ’
という対話の相手 〜物語を共有しないor私の言葉を批判する相手〜 に対して、
どういう対話が成り立つのか? という・・・。
また、対話or物語の共有を拒否する相手に対して・・・。合掌
2009/9/13(日) 午後 4:18 [ kyomutekisonzairon ]
必要で、本質的な、そして難しいテーマですね。
kyomuさんの巨視的な視点と精緻な分析に感じ入ります。
人間は、事柄を真に客観的正確に捉え得るほどの容量など本来持ち合わせていず、
真実は人間を超絶するところに在る・・・。
全ての人間を覆うべき「統一された真実の宗教」について思うとき、
我が大乗の「三世十方の諸仏」が示唆するものを、教えて頂きました。
2010/5/7(金) 午後 4:37 [ 案山子 ]
「 案山子 」さんへ。
> 全ての人間を覆うべき「統一された真実の宗教」
――― そうですね。我々は、まず 全ての人間を 一つの宗教で覆い尽くそう
という発想を捨てなくてはなりませんね。 我々は あくまでも相対・有限の存在
であって、普遍的・客観的なものを手に入れ得ない存在だという人間観(自己認識)
が、ハッキリしていなくてはならないものと考えます。
仏教(宗教)は、常に 私にとっての仏教(宗教)であって、私が 私の依っている
仏教の普遍性を 他に主張すれば、それは 単に 自己主張に過ぎなくなります。
いかに真実だと言っても、それは 私の思う真実に過ぎません。それが いかに壮大
・華麗であっても、私の見る真実に過ぎません。私の手垢に汚れた真実です。
――― しかし、 主観性の真実は、 主観を離れた 本当の真実にならなくては
なりません。
この 自己閉塞・自己満足の真実は、公開された真実にならなくてはなりません。
(続)
2010/5/7(金) 午後 8:36 [ kyomutekisonzairon ]
これが、大乗仏教が見出した「 三世十方の諸仏 」でしょうね。
即ち、釈尊の見出した真実を探究して、こういう形で 再認識したのが 大乗仏教
ですね。これは、人間(自己)というものの探究を通して 明瞭になったものです。
そして、これは 西欧人の思いもかけなかったような世界を、我々に開きます。合掌
2010/5/7(金) 午後 8:37 [ kyomutekisonzairon ]