混沌の時代のなかで、真実の光を求めて

現代に生きる私の上に 仏法は何ができるかを 試そうと思い立ちました。//全ての原発を 即刻停止して、 別の生き方をしましょう。

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縄文人(6)

縄文人(6)

'''晩期''' ( 約 3,300〜 2,800年前 ) 人口 7万5800人
    ※ 石器時代から縄文晩期までの 東日本の人口は、
            西日本と比べて 5倍位と推定されている。

   気温2度前後低下し、海面も低下。 漁労活動壊滅的打撃受ける。
   4500年前から気候は 寒冷化しはじめ、2500年前の年平均気温は 現在よりも
   1度以上も低くなった。それ以前の温暖期よりも3度も低下したことになる。
   東日本での人口激減は 相当な規模であったことが推定される。

    漁労の網。東北の太平洋側に銛漁開花

    長野県の縄文中期(5000〜4000前)の遺跡数は、他県に比し 異常に突出している。
   特に 諏訪と伊那谷に圧倒的に多い。 縄文草創期(12000〜10000前)から前期
   (6,000〜5,000前)に、遺跡数は 徐々に増加し、 中期(5000〜4000前)になると
   その約3倍になるが、 後期(4000〜3000前)は 一転して、特に 後期後半に激減して
   前期と同じ位になり、 晩期(3000〜2300前)には さらに減少し壊滅状態になる。
    岡山県では 縄文時代を通して ほぼ一定数で増減が殆どなく、千葉・神奈川・東京
   などの関東地方全域では、山間部を例外として 中期より後期の方が遺跡数は増加する。
   
    縄文時代最後の「晩期」に、関東地方以西で急速な人口減少が進む中、 東北では 
   その厳しい自然条件を克服して 亀ケ岡式土器様式の華麗な文化が創造される。
   華麗な赤彩の壺形土器、繊細な文様に包まれた注口土器、そして完成された漆工芸の
   技術等、それらは 東北地方に結実した縄文文化1万年の終着点であり、その繊細さは
   他の土器様式の追随を許さない。


  三内丸山で栄えていた縄文中期の文化が衰え、今から3千年前頃から、
 北海道から東北南部にわたる広大な範囲で 亀ヶ岡文化と呼ぶ 同質の文化が営まれた。
  @ 日本海沿岸や道央では、そのままの形では伝えられず、地域的な特異性を持って発達
   した。 函館周辺では、あたかも亀ヶ岡人が渡って来たようにも思えるほどよく似た形で
   伝わっているが、道東北では亀ヶ岡とは異なる文化があった。

  亀ヶ岡遺跡(つがる市)
     遮光器土偶( 左足を欠く/高さ約37cmで 中は空洞 )
     それまでの縄文土器が 荒々しさをそなえた男性的な形態を有していたのに対し、
    精巧で優美な形態の土器が現れ、細粒の粘土を用いて 食事の盛り付け用の器として
    作られた精製土器と、粗い粒の粘土を使用した 主に煮炊き用の粗製土器に分かれる。
    @ 黒漆の地に赤漆で紋様を描いたらん胎漆器、硝子玉などは精巧で完成度が高い。
     かつては「亀ヶ岡のもの」と珍重され、好家事の手によって 江戸や長崎、オランダ
     辺りにまで輸出され、発掘が繰り返された。
   是川korekawa遺跡 (中居遺跡)(八戸市) 
     へら形・木刀状の木製品、赤漆塗りの木製高坏・飾り弓・くし・腕輪、かごに漆を
    塗り込んだ籃胎(ランタイ)漆器、赤漆塗りのつぼ形土器、石の矢じりが刺さった板材、
    長さ4m以上の大型木柱

   八幡遺跡
   陣内遺跡(西臼杵郡高千穂町)


   木製の太刀。頭部外科手術か?



   北九州・近畿でも縄文水田。
    水稲耕作は、縄文晩期 玄界灘沿岸部の地域にいち早く伝わり、大陸系の磨製石斧や、
    柳葉形磨製石鏃(ヤナギバガター)などの技術や、支石墓(シセキボ)などの墓制も伝わる。
    既に 青銅や鉄の金属器とその代用品としての磨製石器を用いていた大陸の文化は、
    木材の加工も容易にし、木製農機具なども作られ、水稲耕作や土木工事の技術も、
    生活様式を大きく変化させた。―――→ 弥生時代

   久田堀ノ内遺跡(岡山県奥津町)
     整理箱100箱を越える大量の縄文晩期前葉( 約3000年前 )の土器・石器・玉等
    の遺物が出土。 東北〜北陸・関東・近畿・九州との関わりを示す土器や北九州産の
    可能性がある玉、新潟県姫川産のヒスイ、香川県産のサヌカイト、島根県隠岐島産の
    黒曜石など。
     当遺跡では、続く弥生時代以降も日本海側の物資や情報が盛んに入っており、
    交流ルートは「 日本海−天神川−吉井川 」が、今1つは 後期の関東系の土器が
    当遺跡の他 県南の津島岡大遺跡からも出土しており、またサヌカイトの分布状況など
    から、「 太平洋−瀬戸内海−吉井川 」が想定できる。このことから、縄文時代の
    長距離の交流は、舟を用いて海・河川を利用するものが主体的であったと考えられる。

    ※ 晩期後葉〜末( 約 2500年前 )
      岡山市の津島岡大遺跡百間川沢田遺跡などで、東日本系の土器が出土。
      総社市の南溝手遺跡の 突帯文土器は 「孔列文」を施すという九州地方との
     交流を示す。
      このような縄文後晩期の広域の交流を物語る遺物が出土した遺跡の事例は、
     智頭町枕田遺跡(鳥取県)などの事例がある。



     @ 気候の寒冷化に伴い、採集中心の生活から 農耕へと生活が切り変わる


   縄文時代後晩期の石鏃について
      縄文後期には 打製石鏃が減少する一方、土を掘る道具である打製石斧が急増、
     それと伴に増加する石皿・すり石は 使用面が平坦面化する。
     打製石斧は、山野に自生する芋やユリの根など根茎類を掘り採るのに使われ、
     石皿とすり石の使用面が平坦なことは、対象物が流動物と粉状の組み合わせから、
     固形物や粘性のあるものと粉状の物との組合せへと変化したか?
  

   土器は、無文様化が進む。
    光沢がでるように丁寧に器の面を磨き、黒く焼き上げた黒色磨研土器には、
   深鉢・浅鉢・椀・高杯(タカツキ)・注口(チュウコウ)土器などの器種があり、貝殻や板状原体を
   用いて調整された粗製土器には、深鉢や甕形(カメガタ)などの器種がある。
   晩期後半には 器種に壷も加わる。

    夜臼式土器。 
     形の種類が多く、きれいな文様がつけられるようになり、“うるし”を塗る赤色の
    土器も多く作られた。

   土偶
     東北北部では、縄文前・中期に板状土偶( 両腕を左右に突き出した十字形の土偶 )
    が多く出土している。 縄文後期前半に入ると、前・中期で 顔が扁平に表現されて
    いたものが、立体的となり 前方に突出し、両足も表わされるようになる。
    後期後半、腹が膨らんだ妊婦の姿・蹲踞姿勢でポーズをとるものが出現。
     遮光器土偶

    南九州や関東では早期に出現、北九州では後期前半から晩期前半にかけてみられ、
    阿蘇外輪山を取り囲む地域に多い。


   築地台貝塚 ( 千葉市 縄文中期・後期・晩期 )〜「平山地区貝塚ベルト」にある
       主な貝種はイボキサゴ。ヤジリ、打製石斧、石皿などが出土。
       製塩土器: 霞ヶ浦などで作られた塩を土器ごと入手し、集落に持ち帰ったか?
         塩を作りに行ったか、物々交換をしたか、塩の入手方法は不明


   縄文時代の平均寿命は、10代前半
    18世紀のウィーンでも 5歳までに約半数が死亡しており、平均寿命を低くする
   大きな原因だった。 日本でも大正時代には、10歳までに約25%が死亡していた。
   乳幼児の死亡率が大きく低下したのは、太平洋戦争後のことで、このことが、平均寿命の
   長くなったことに大きく貢献した。
    縄文時代は、約1万年の幅を持っているが、その間 死亡率は 改善されなかった。
   又、BC8C〜AD3C 弥生時代、3〜7C 古墳時代に入っても、縄文時代と
   ほとんど変わらず、14〜16C 室町時代(1338-1573)は、15.2歳位か?



                    (未完成)

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