混沌の時代のなかで、真実の光を求めて

現代に生きる私の上に 仏法は何ができるかを 試そうと思い立ちました。//全ての原発を 即刻停止して、 別の生き方をしましょう。

インド仏蹟紀行

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?H3>降魔   ここで、菩提樹下に坐って、最後の瞑想をしていた 釈尊の内面を示す 【 降魔 】の場面を
  恐らく 最古の記述である スッタニパータ( 中村元訳 )から抄略して紹介します。

              ◇     ◇     ◇     ◇

ネーランジヤラー河の畔(ホトリ)にあって、安穏を得るために 勤め励み専心して瞑想していた私に
ナムチ(悪魔)は いたわりの言葉を発しつつ 近づいてきて、言った。

  あなたは 痩せていて 顔色も悪い。 あなたの死が近づいた。 あなたが死なないで
  生きられる見込みは 千に一の割りだ。 君よ、生きよ。生きたほうがよい。 命があってこそ
  諸々の善行をも 為すこともできるのだ。
  あなたが ヴェーダ学生としての清らかな行いを為し、聖火に供物を捧げてこそ、多くの功徳を
  積むことができる。(苦行に)勤め励んだところで、何になろうか。
  勤め励む道は、行きがたく、行いがたく、達しがたい。

この詩を唱えて、悪魔は 目覚めた人(ブッダ 仏陀)の側に立っていた。
かの悪魔が このように語ったとき、尊師(ブッダ)は 次のように告げた。

 怠け者の親族よ、悪しき者よ。 汝は (世間の)善業を求めて ここに来たのだが、
 私には その(世間の)善業を求める必要は微塵もない。悪魔は 善業の功徳を求める人々
 にこそ 語るがよい
 私には 信念があり、努力があり、また知慧がある。 このように専心している私に、
 汝は どうして 生命をたもつことを尋ねるのか?
 ( 励みから起る ) この風は、河水の流れも涸(カ)らすであろう。ひたすら専心している
 わが身の血が どうして涸渇(コカツ)しないであろうか。
 (身体の)血が涸れたならば、胆汁も痰も涸れるであろう。 肉が落ちると 心は ますます
 澄んでくる。 わが念(オモ)い智慧統一した心 とは、ますます安立するに至る。
 私は このように安住し、最大の苦痛を受けているのであるから、わが心は 諸々の欲望に
 引かれることがない。 見よ、心身の清らかなことを。

 汝の第一の軍隊は 欲望であり、第二の軍隊は 嫌悪であり、第三の軍隊は 飢渇(キカツ)
 であり、第四の軍隊は 妄執といわれる。
 汝の第五の軍隊は ものうさ 睡眠であり、第六の軍隊は 恐怖といわれる。汝の第七の軍隊
 は 疑惑であり、汝の第八の軍隊は 見せかけ強情と、誤って得られた利得名声尊敬
 と名誉と、また自己を褒め称えて 他人を軽蔑することである。

 ナムチよ、これは 汝の軍勢である。黒き魔(Kanha)の攻撃軍である。勇者でなければ、
 彼に うち勝つことができない。( 勇者は ) うち勝って楽しみを得る。
 この私が ムンジャ草を取り去る( 敵に降参してしまう )だろうか? この場合 命は
 どうでもよい。 私は、敗れて 生きながらえるよりは、戦って 死ぬほうがましだ。

 ある修行者たち・バラモンどもは、この( 汝の軍隊 )のうちに埋没してしまって、
 姿が見えない。そうして 徳行ある人々の行く道をも知っていない。
 軍勢が 四方を包囲し、悪魔が 象に乗ったのを見たからには、私は立ち迎えて 彼らと戦おう。
 私をこの場所から退(シリゾ)けることなかれ。
 神々も世間の人々も 汝の軍勢を破り得ないが、私は 智慧の力で 汝の軍勢をうち破る
 ──― 焼いてない生の土鉢を 石で砕くように。
 自ら 思いを制し、よく念(オモ)いを確立し、国から国へと遍歴しよう。
 ──― 教えを聞く人々を ひろく導きながら。
 彼らは、無欲となった私の教えを実行しつつ、怠ることなく 専心している。そこに行けば
 憂(ウレ)えることのない境地に、彼らは赴くであろう。

 ( 悪魔は言った )
  我は 7年間も 尊師(ブッダ)に、一歩一歩ごとに つきまとうていた。 しかも よく気を
  つけている正覚者には、つけこむ隙を見つけることができなかった。
  烏が 脂肪の色をした岩石の周囲をめぐって『 ここに柔かいものが見つかるだろうか? 
  味のよいものがあるだろうか? 』と言って 飛び廻ったようなものである。
  そこに美味が見つからなかったので、烏は そこから飛び去った。 岩石に近づいたその烏
  のように、我らは 厭(ア)いて ゴータマ(ブッダ)を捨て去る。

  悲しみに 打ちしおれた悪魔の脇から、琵琶が パタッと落ちた。ついで、かの夜叉は
  意気銷沈して そこに消え失せた。

              ―――「 スッタニパータ 第三 大いなる章 二 つとめはげむこと 」


  釈尊が、菩提樹下に坐って イノチをかけて取り組んだのは、☝の スッタニパータ に
  記されているように、彼自身の内面の悪魔と対決することでした。
  「 勇者でなければ、彼に うち勝つことができない。
    ( 勇者は ) うち勝って楽しみを得る。 」
  と 釈尊は言い、
  「 ある修行者たち・バラモンどもは、この( 汝の軍隊 )のうちに埋没してしまって、
    (魔の軍勢の)姿が見えない。そうして 徳行ある人々の行く道をも知っていない。 」
  と言って、仏教が 仏教である ユエン たる【 降魔 】の意義を 明確にしています。
  菩提樹下に釈尊が坐った意義は、この悪魔との対決にありました。
  そして、この【 降魔 】故に、釈尊は 釈尊となったのでした。

  そこで、悪魔と対決する際、彼にあるのは、
  「 神々も世間の人々も 汝の軍勢を破り得ないが、
    私は 智慧の力で 汝の軍勢をうち破る。 」
  と語って、その「 智慧 」の重要性を 我々に知らせています。
  すなわち、仏教における「 智慧 」とは、空や縁起を語る知恵ではなく、
  【 降魔 】の「 智慧 」だということです。

  逆に言うと、この【 降魔 】ができれば、坐禅であれ 念仏であれ、仏教なのです。
  世には 大乗非仏説というものがありますが、これを唱える人は 仏教の何たるか
  を知らない、奇を衒うのが好きな人か 自らの知識に溺れた人でしょう。
  また、既成仏教の中にも、この 釈尊 菩提樹下の【 降魔 】の意義を忘れて、
  我々の俗情に訴えて それを仏教だと強弁する人たちが 多く見られます。
  こうした人たちは、仏教の恩徳の中の 獅子身中の虫と言うべきでしょう。

  この【 降魔 】の 仏教における重要性を見落として、何か高遠な理が 仏教のごとく
  思っている人も、今日多いようです。 空がどうだとか、縁起がどうだとか
  小乗だ大乗だとか、輪廻がどうの 座禅がどうの 念仏がどうの・・・ 
  こういう高遠な理は、仏教においては 枝葉末節・学者仲間の手すさびでしょう。


  これらは 他人事ではなく、
  修行者は、釈尊に叱られなくてはならないものを、皆 自ら抱えているのでしょう。
                                   合掌

                                         


                         

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