混沌の時代のなかで、真実の光を求めて

現代に生きる私の上に 仏法は何ができるかを 試そうと思い立ちました。//全ての原発を 即刻停止して、 別の生き方をしましょう。

インド仏蹟紀行

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                                   2/1( 第7日目 )

  峠を越えて 山の中の道を進むと、やがて バスは ビンビサーラ(頻婆娑羅)王と韋提希夫人
  (イダイケブニン)が、息子のアジャータシャトル(阿闍世)による クーデター で 幽閉された獄牢跡
  の麓 に止まりました。
  獄牢跡は、周りが 木々に覆われた 山路を 少し登った所にありました。 路の途中に
  泥塗れの幼児と子供をつれた サリー の女が 2人、土の上に横たわっていました。 希に 
  ここを訪れる観光客を目当てにしているようにも見られました。

  牢獄跡は、山の中腹にあり 一辺60m程の四角形の縁が 低い石壁で囲まれていました。
  遥か向うには、イノチ 旦夕に迫った 頻婆娑羅と韋提希が 釈尊に教えを請うべく 仰ぎ見た
  霊鷲山(耆闍崛山 ギシャクッセン)が見えます。

   @ 阿闍世(アジャセ)のクーデタ 
    頻婆娑羅王と王妃・韋提希の間には、子供が なかなか生まれませんでした。そこで、
    占いをしてみると、山に住む仙人が 3年後に死んで 彼らの子に生れ変ると言います。
    仙人が死ぬまで待てない王は 使いをやって 彼に、はやく死んでくれ と頼みました。
    しかし、仙人は これを拒絶しますので、使者は 仕方なく 彼を殺しました。
    仙人は 復讐を誓いながら死んでいきました。 
    やがて 占い通り、2人の間に王子ができましたが、復讐を恐れた 王と王妃は
    この赤子を高殿から産み落として殺そうとします。 しかし、赤子は 手の指を骨折
    しただけで助かり、そのまま成長します。 これが、阿闍世(アジャセ)です。

    時は経って 釈尊の従弟・提婆(ダイバ)が 高齢の釈尊のあと 釈迦教団を継ごうと
    して、釈尊に拒絶されるという事件がありました。
    提婆は 出生の秘密を 阿闍世に語り、 「 悪王を殺して、王位を奪いなさい。
    私は 老いぼれた釈尊に代わって 教団を指導しましょう。 」と唆かします。

    秘密を知った阿闍世は 王位を纂奪し、父を牢に閉じこめ 飢え死にさせようとします。
    韋提希は、獄守の目を逃れるため、身の飾りや冠に ブドウ酒を詰め、沐浴して 身体に 
    麦粉を蜂蜜で塗り 服を着て、頻婆娑羅に 食を運びました。
    また、頻婆娑羅は 釈尊に、目連を遣わして 日々 戒を授けて欲しいと念じますと、
    その念を知った釈尊は、目連と共に 富楼那(フルナ)を遣わして 教えを説かせます。 

    3週間 経って、阿闍世は 獄守に「 父の王は まだ生きているか? 」と問います。
    獄守は答えます。「 大王さま、この国の大夫人が 身に麦粉を蜜で塗り 飾り物の
    中に ブドウ酒を入れて 王にさし上げ、目連と富楼那が 空から下ってきて 王のため
    に説法していました。 私は禁ずるスベがありませんでした。 」と。     
    ( 先に 阿闍世は、父王派の反乱を恐れて 臣下の出入りのみ 禁じていたのでした )
    しかし、これを知った阿闍世は 怒り狂って 叫びます。
    「 母は これ賊(敵)なり。賊と伴なればなり。 沙門は 悪人なり。幻惑の呪術を
    もって、この悪王を 多日 死せざらしむ。 」
    そして、剣を抜いて 実の母・韋提希に迫ろうとするや、
    阿闍世の臣下であった月光は 耆婆と 王を諌めます。「 大王よ、ヴェーダを見ても、
    昔から 王位を貪って その父を殺した悪王は 多くありましたが、無道に 母を殺す者
    はありませんでした。 この殺害をなして クシャトリヤの名を汚すのは、臣として 聞くに
    忍びません。 これは 栴陀羅の業です。どうかおやめください。」 
        @ 栴陀羅: 首陀羅(シュードラ)の父と婆羅門(バラモン)の母との混血児
    2大臣は こう言って、剣を 阿闍世に向けながら 後ろ足で退きます。
    阿闍世は 驚き恐れて 耆婆に 「 おまえは 私に与(クミ)してくれないのか?! 」
    耆婆は言います。「 大王さま、どうか 母上を害してはなりません。」 
    阿闍世は、これを聞くと 悔いて 許しを請い、自ら 剣を捨てて 母を殺めること
    を思い止り、家臣に命じて その母・韋提希を獄牢に閉じ込めました。

   @ 牢獄で悲嘆に暮れる この韋提希に対して説かれるのが、「 観無量寿経 」であり、
      親殺しの阿闍世の救いを 問題としたのが、「 涅槃経 」でした。 



  木々の茂る山道を出て 田舎道を進むと、メイラさんが 左側の高い山の中腹を指さして、
  あそこが 釈尊滅後 迦葉を中心に 最初の仏典結集があった所だ、と教えてくれました。
  ( 帰国後 調べた所では、第一回仏典結集があった七葉窟は この山の反対側にあって、 
   メイラさんが指さしたのは 別の窟・ソーンバンダール窟だったようです )

  結集は、マガダ国王 アジャータシャトル(阿闍世)を大檀越として、500人の比丘らが集まって、
  摩訶迦葉(マハーカーシャパ)が座長になり、阿難(アーナンダ)と優波離(ウパーリ)が、それぞれ 
  経(教法)と律(戒律)を読み上げ、皆が これを確認し記憶したと言われます。( BC 477 頃 )
     ■  YOU TUBU 七葉窟 第一回仏典結集 
   @ この時代、文字は すでに普及していたが、その使用は商用や法規の公布などに限られ
    ヴェーダ は、14C後半 南インドで文字に記されるまで、一切を口伝で伝承していた。
    釈尊の言葉も およそ200年間は 暗記によって保持され、文字に写されなかった。
    法顕が、399〜414 インドを訪れた折、経典は 専ら口伝で、文字を使っていなかった。



  やがて 竹林精舎に着きました。 雨安居のためのこの精舎は、仏教史上 最初のもの
  元は 迦蘭陀(カランダ)長者の竹園で、ジャイナ教に与えていましたが、後に 長者は 釈尊に
  帰依したため、これを釈尊に布施し、頻婆娑羅王が ここに伽藍を建立したと言います。
   雨季の3〜4か月間は 移動が困難になるため、釈尊は 修行者らと一ヶ所に集まって 
  雨安居(ウアンゴ)をしたのですが、彼らは 各自が掘っ建て小屋を建てて 雨露をしのぎ、
  修行に勤しみました。 そのために 布施された 土地と建て物 ie. 精舎(ヴィハーラ)は、
  当初は 今日の伽藍のような 大規模な建造物では 勿論ありません。

  我々が訪れた時は、閑散として 人は 数人程いただけでした。 園内には 昔日の伽藍や
  僧院跡はなく、 園の真ん中に コンクリート造りの四角い池があり、池の正面の白い祠には 像が
  据えられていました。 この像が何なのか、よく分りませんでした。 この竹林精舎は、
  どうも 現代風に作られ過ぎている感じがして、往時に浸ることができませんでした。

  @ 竹林精舎の傍らには、玄奘の「大唐西域記」に 50数ヶ所あったと記している温泉精舎が
   あります。今は 4〜5ヶ所になっているそうですが、ヒン ドゥー寺院などもあり、この地の
   人々に使われているようです。そして、ここから 七葉窟への道があるそうです。


 夕刻 法華ホテル 着
 7:00 夕食
                                             

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