混沌の時代のなかで、真実の光を求めて

現代に生きる私の上に 仏法は何ができるかを 試そうと思い立ちました。//全ての原発を 即刻停止して、 別の生き方をしましょう。

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1ー2−16 のつづき
 
1−2 北コーカサス(北カフカス)
 
 北カフカース連邦管区 (2010年 南部連邦管区より分離)
                                                                              Google-北オセチア共和国
 北オセチア共和国 (北オセチア・アラニヤ共和国)
   ※ アラニヤは、オセット人の先祖とされるアラン人の名に由来する雅称。
  公用語: ロシア語、 オセット語(インド・ヨーロッパ語族イラン語派
  首都ウラジカフカス
 
  北カフカースカフカース山脈北側)に位置し、オセチアの北部を占める。
 南は ロシア連邦の国境を隔てて グルジアがあり、西は カバルダ・バルカル共和国
 東は イングーシ共和国、北は スタヴロポリ地方
 
  オセット語は、ロシア連邦に属する北オセチア共和国グルジアの南オセチア自治州
 話され、話者の数は 約60万人。
  1923年 ラテン文字を元にした正書法がつくられ、1938年より、北オセチアでは
 キリル文字を用いた表記に改められた。
 南オセチアでは 1938年に グルジア文字による表記に改められたが、1954年以後、
 キリル文字が用いられている。
 
  アルセン・コツォイェフ(1872−1944):ロシア領オセチア文学者、オセチア散文創設者一人
    1912年 コツォイェフは サンクトペテルブルクに移り、ウラジーミル・レーニンの発行していた
      新聞プラウダを含む多くの場で活動した。
       コツォイェフは オセチアの田舎で育てられたが、しっかりした教育を受けていたため、
      ロシア語の新聞を校正できるほどのロシア語の知識があった。
     1917年 ロシア革命後、コツォイェフの名声は高まった。コツォイェフは様々な新聞・雑誌
      のために働き、教育とそれに係わる分野で働いた。
 
 
  オセット人民族共和国で、オセット人は イラン系の言語を話し正教会信者が多い
カフカスの民族で、周辺の チェチェン人などムスリムの多い民族と違い どちらかといえば
親ロシア的である。
 国境を挟んで 南のグルジア共和国側の シダカルトリ州南オセチアに相当する。
同地方では、自治権要求から 北オセチアとの統合 と ロシア連邦への編入を求めて
南オセチア紛争が起こっている。
 隣接する イングーシと 領域を巡る対立を抱えるほか、イングーシの東の チェチェンの独立
をめぐる紛争において ロシア軍の拠点として使われている。
2004年9月には 北オセチア地方都市ベスランで チェチェン独立派が ベスラン学校占拠事件
を起こし、350人以上が死亡する大惨事となった。
 
 
http://dvor.jp/logo.gif 北オセチア=アラニア共和国
RANK民族名人口比率%民族名人口比率%
総数
1989年1月
国勢調査
632,428100.00
2002年10月
国勢調査
710,275100.00
1オセット334,87652.95オセット445,31062.70
2ロシア189,15929.91ロシア164,73423.19
3イングーシ32,7835.18イングーシ21,4423.02
4アルメニア13,6192.15アルメニア17,1472.41
5グルジア12,2841.94クムイク12,6591.78
6ウクライナ10,0881.60グルジア10,8031.52
7クムイク9,4781.50ウクライナ5,1980.73
8ドイツ3,0990.49チェチェン3,3830.48
9ギリシャ2,9860.47カバルダ2,9020.41
10朝鮮2,9600.47トルコ2,8350.40
-その他の諸民族、民族不明21,0963.34その他の諸民族、民族不明23,8623.36
 
 
  6世紀〜1239年   アラニア国。
   一時、ハザール の支配下に入ったが、アラブ・東ローマ戦争629- 1050頃)と並行
   して アラブ・ハザール戦争642 - 799)が起り、東ローマ帝国と同盟関係となって
   交流したことから キリスト教が普及した。
   910世紀頃 再び アラニア として 約300年間 独立を保つ。
  1239 モンゴル人侵入し首都マガスを始め諸都市は 壊滅的な打撃を受け,
           アラニア 消滅。
            モンゴルの支配を嫌ったグループは ハンガリーに逃亡し、同地で ヤース人と
     呼ばれる民族集団になり、 その後 ハンガリー人への同化が進んだ。
      また、一部は 降伏して モンゴル軍に加えられて 中国に移住、に仕える
     アスト人親衛軍を構成した。メルキト 部出身のモンゴル人将軍バヤン旗下のアスト人
     親衛軍は 元朝治下のモンゴル高原での数多くの戦争で大きな戦果をあげ、
     南坡の変など 14世紀前半に頻発した後継者争いを巡る政変で重要な
     役割を負った。
      カフカス北麓の低地に残ったグループも、良質な草原地帯である この地方に
     遊牧を広げようとする ジョチ・ウルス テュルク系遊牧民の圧迫を受けて、カフカス
     の山岳地帯へと南下を余儀なくされ、現在の北オセチアに移住して  4つの
           部族集団からなる部族連合を形成した。
      また、一部は カフカス山脈を越えて南下、南オセチアの領域に入って 群小の
     村落共同体を立てた。
      山岳地帯に入った彼らは 民族統一国家を建てることはなく、北オセチアの
     オセット人は 西方のカバルダ人、南オセチアのオセット人は 南方のグルジア人
     支配下に入った。
 
   1759 モズドク カバルド語で「深い森」の意)創設
    当時、カバルダ人の首長が正教会に改宗して ロシアに忠誠を誓い、カバルダ人
    やオセット人らと テレク川沿いの深い森に囲まれた この地に入植。
  1763 ロシア帝国のグリゴリー・ポチョムキン、モスドクに 要塞の建設
     コサック の 517家族を要塞周囲に設けた スタニツァ(コサックの村)に住まわせた。
         テレク・コサック軍に属する集団の内、5つのコサック集団が モズドクスキー連隊を
    構成し、テレク川沿いの東西80ベルスタに及ぶ前線を防護した。
 
     モスドクは、18C後半〜19C 北カフカスの軍事・交易の中心地として栄えたが、
    1870年代から1890年代にかけ、ロストフ・ナ・ドヌ から マハチカラを経て バクー
    向かう 北カフカス鉄道が 南のベスラングロズヌイ経由で建設されたため 重要性
         を失った。
 
      1878  ウラジカフカス 「カフカスを占領せよ」の意)建設
     北カフカース鉄道建設当初は モズドクの方が栄えていたが、ベスラン を通る
    南側の ウラジカフカス鉄道が開通すると、1890年頃には、チェチェングロズヌイを
    中心とする石油産業発展の影響下で、ウラジカフカスが中心となった。
 
 
    ロシア革命(1917)後、
   1922 12月 ソビエト連邦が建国
    山岳自治ソビエト社会主義共和国(1921)、ロシア・ソビエト社会主義連邦共和国
   に編入され、北カフカスで民族ごとの自治領域が設定され、
   1924 7月7日 オセット人の領域には 北オセチア自治州が建設された。
 
     元々 オセット人は 主に ウラジカフカスの位置する テレク川より西に居住していた
    ため、北オセチア自治州は 現在の北オセチア共和国の西部を領有するのみ
    だった。
 
    1944  チェチェン人 イングーシ人が対独協力の疑いをかけられ、中央アジア
     民族ぐるみ追放されると、チェチェン・イングーシ自治共和国の西部を編入して
     東方に大きく領土を広げた。
      新たに編入された かつての境界の町ウラジカフカス当時はオルジョニキゼ)が
     北オセチアの中心となり、首都が ウラジカフカスに移される。
      スターリンの死後、チェチェン人・イングーシ人は カフカスへの帰還を許され
     チェチェン・イングーシ自治共和国が復活するが、ウラジカフカスとその周辺の領土は
     そのまま北オセチア領に残された。
 
        ソ連末期 1980年代末にチェチェン・イングーシとの間の領土紛争の原因となり、
       1989年 スフミで暴動、ソ連軍に鎮圧される(アブハジア紛争始る)。
            1990年6月20日 北オセチア自治ソビエト社会主義共和国、自治共和国宣言。
           1991年 ソ連邦 消滅。 北オセチア、名前を 北オセチア・アラニヤ共和国に変更。
        4月9日 グルジア 独立宣言
        12月 ロシア中央政権 と チェチェン・イングーシ共和国(チェチェン・イチケリア共和国)の
         双方が、イングーシ共和国の分離を承認。
         分離で わずかな領土しか持たない イングーシ共和国は 旧チェチェン・イングーシ
         自治共和国領のウラジカフカス以東をも領土と定めたため、北オセチア共和国
         は これに反発。
     
      1992年
        2月21日 グルジアの軍事評議会、ソビエト連邦期の憲法を廃止し、1921年
         に制定されたグルジア民主共和国の憲法を復活させることを宣言。
         これを、アブハズ人たちは、自治権の廃止ととらえた。
        7月23日 アブハジア自治政府 独立宣言。
          国際的な承認は得られなかったため、グルジア政府は 3000人の
         部隊を アブハジアに送り、スフミにおいて、アブハジアの分離主義武装
         グループとの間で激しい戦闘が起こる。1週間の戦闘で双方に多くの
         犠牲者が出て、グルジア政府は アブハジア自治政府を廃した。
                    アブハジア側の敗北後、北コーカサスの諸共和国から 義勇軍がアブハジア
         の分離主義グループに合流し、再びグルジア政府軍との交戦が始まる。
        8月14日 アブハジア戦争
        10月 イングーシ共和国との間で武力衝突に発展し、オセチア・イングーシ紛争
         が勃発した。
        11月 ロシアの介入によって国境はそのまま維持された。
 
    1994年12月 第一次チェチェン紛争
    1999年8月  第二次チェチェン紛争
     2007年10月31日 チェチェン・イングーシ共和国、イスラム国家 カフカース首長国 宣言
         2008年8月8日  南オセチア紛争
     2009年4月16日  第二次チェチェン紛争 終結
 
 
 
                          (未完成)

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