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1ー2‐17 のつづき
1−2 北コーカサス(北カフカス)
北カフカース連邦管区 (2010年 南部連邦管区より分離)
北オセチア共和国 (北オセチア・アラニヤ共和国) (続)
2008年 南オセチア戦争
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/3/3f/2008_South_Ossetia_war_en.svg/800px-2008_South_Ossetia_war_en.svg.png
面積:3,900平方km ( 埼玉県:3798k㎡ )
※ グルジアの面積: 69,700平方km ( 北海道:83,456k㎡ )
1989
(この年、南オセチアの人口 9万9000人。内、66% オセッ ト人、30% グルジア人)
11月23日 ズヴィアド・ガムサフルディア⋆、自らの支持者(3〜6万)と共に ツヒンヴァリ
で示威行進。平和的な集会だと宣伝されたが、数百人の武装兵が随行。
負傷者400人、死者6人を出した。
⋆ 1990年11月からグルジア最高会議議長
1991年5月26日初代グルジア大統領
民主派、改革派として政治的経歴を重ねたガムサフルディアであったが、
政権掌握後は次第に独裁的となり、野党からは独裁者と非難を浴びた。
1992年1月6日、クーデターでグルジアから追放され、チェチェンへ亡命。
1993年9月 帰国 12月31日、グルジア西部のサメグレロで戦死。
1991
1月5日 ツヒンヴァリに 警官隊 と ガムサフルディアの親衛隊が投入され、オセチア人
に対する大規模な弾圧を始める。オセチア人は、自警団を結成して これに
対抗し、ツヒンヴァリから グルジア人を追い出す。
4月9日 グルジア、独立宣言
1992
1月19日 南オセチアの独立に関する住民投票。92%以上が これに賛成。
2月 ツヒンヴァリ周辺に グルジアの砲兵と装甲車両が配備され、砲撃を開始。
2月21日 グルジアの軍事評議会は、ソビエト連邦期の憲法を廃止し、1921年
に制定されたグルジア民主共和国の憲法を復活させることを宣言。
3月8日 エドゥアルド・シェワルナゼ、グルジアの指導者となるも南オセチアへの政策は
変わらなかった。
6月24日 ロシア、グルジア、南北オセチア4者による 紛争調停の協定 署名
7月14日 ロシア・グルジア・オセチア混成の平和維持軍が導入され武装闘争は終結。
7月23日 アブハジア自治政府、独立宣言
グルジア政府は 3000人の部隊をアブハジアに送り、スフミにおいて、
分離主義武装グループとの間で激しい戦闘。1週間の戦闘で双方に
多くの犠牲者を出した末、アブハジア自治政府を廃した。
1993
11月2日 最高会議は憲法 採択
1995
5月5日 国歌 制定
1996
11月10日 南オセチア最初の大統領選挙で、リュドヴィク・チビロフ(〜2001)を選出
2001
12月 エドゥアルド・ココイトゥイ (〜2011)大統領
ソ連時代約10万人いた南オセチアの人口は、難民の流出で7万人に減少したが、
南オセチアの東部や南部のグルジア人が多い町や村は グルジア政府が支配し続けた
ため、独立以降も 人口の25%はグルジア人が占めていた。
特に「首都」 ツヒンバリ周辺は 南オセチア政府が支配する村とグルジア政府が支配
する村が入り乱れていたため、ロシアとグルジア、アルメニアとの密輸拠点と して栄え、
これが 南オセチア政府の大きな収入源になっていた。
グルジアには、アブハジアと南オセチアの他に、南部の主要港・バ トゥミを中心にした
アジャリアにも自治共和国があり、92年以降は グルジア政府の支配を完全に離れ、
ロシアを後ろ楯に 独自の軍隊を擁して独立状態が続いていた(ただし、アジャリアは
「独立宣言」はしていない)。
しかし
2003 11月2日 グルジアで議会選挙→ バラ革命
2004 1月4日 大統領選挙 ミヘイル・サアカシュヴィリ 圧勝
5月、グルジアは アジャリアで ソ連時代から権力を握っていた アバシゼを追放して、
グルジア政府による支配を回復した。
勢いに乗ったグルジア政府は、南オセチア と アブハジアでの支配回復を公言、密輸
取り締まりのために警官隊を派遣。密輸で潤っていた南オセチアは困窮し、再び
緊張が高まった。
白丸は南オセチア政府が支配する村、黒丸はグルジア政府が支配する村
2006
11月 南オセチア、大統領選挙 と 2回目の住民投票(1回目は92年)
「99%の住民が独立に賛成し た」と発表
同時に、グルジア政府が支配する地域では 別の大統領選挙が行われ、
ドミトリー・サナコエフが「 グルジア内の自治共和国として 経済を発展させる 」を
公約に掲げて当選、クルタ村(ツヒンバリの北9km)に独自の政府を樹立。
2007
5月 サナコエフ、グルジア政府から「南オセチア 自治州暫定政府」代表に任命され、
南オセチアには 独立派と反独立派の2つの政府が存在することになった。
2008
8月8日 グルジア軍、南オセチアに侵攻し、南オセチア民兵や平和維持軍として
駐留していたロシア軍を攻撃。ロシア側も兵力を増強して反撃を開始し、
両国は交戦状態に突入。
9日 ロシア軍の反撃が本格化し、一時 グルジア軍が制圧していた南オセチア
自治州の州都 ツヒンヴァリを解放。また、グルジア全土で ロシア軍機の空爆
が始まる。
グルジアのミヘイル・サアカシュヴィリ 大統領、戒厳令を発令、グルジア全土の
「戦時状態」を宣言
10日 南オセチアに侵攻していた グルジア軍 撤退
12日 ロシア軍、グルジア中部のゴリを制圧。
メドベージェフ ロシア大統領が戦闘停止表明。
13日 EU議長国仏のサルコジ大統領による調停で、ロシアとグルジアが和平案
に合意。
15日 サアカシュビリ、和平合意文書に署名
16日 メドベージェフ、和平合意文書に署名。但し、ロシア軍の即時撤退は拒否。
20日 アメリカ、人道支援を名目にミサイル駆逐艦を含む3隻の艦艇を黒海へ
派遣することを決定。
22日 ロシア、南オセチアとアブハジア以外のグルジア領内から 軍の撤退を完了した
と発表。アメリカ、フランス、グルジアなどは まだ ロシア軍がグルジア領内に残って
いると反論。
25日 ロシア上院、全会一致で 南オセチアと アブハジアの独立を承認するよう
メドヴェージェフ大統領に求める決議。
26日 メドベージェフ大統領が南オセチアとアブハジアの独立を承認。
29日 グルジア、ロシアと断交。
9月3日 グルジア議会、8月9日に宣言された「戦時状態」を解除。南オセチアや
アブハジアなどの一部地域では 「非常事態」を宣言。
10月22日 南オセチアの新首相に、2006年まで ソ連国家保安委員会(KGB)や
ロシア連邦保安庁(FSB)に所属していたアスランベク・ブラツェフ が就任。
2009
5月5日 グルジア、軍によるクーデター未遂事件が発生。クーデター勢力は ロシアの
支援を受けていたとされる。
6月29日 ロシア軍、グルジアに隣接する北カフカス地方で大規模軍事演習を開始。
(2008年の戦争は ロシア軍の大規模軍事演習直後に発生した)
2011
12月 ヴァディム・ブロフツェフ、南オセチア大統領代行となる(〜2012 4月)
※ 11月の大統領選で 「ロシア政府は南オセチア復興の約束を果たしていない」
などと主張する野党指導者のアラ・ジオエワ元教育相(62才 女性)が勝利したが、
2012
4月 レオニード・チビロフ 南オセチア大統領
1992〜98年まで ソ連国家保安委員会(KGB)の南オセチア支局長を務めた。
後に 南オセチア第一副首相に就任し、グルジア-オセチア平和維持委員会の共同委員長。
産経 2013.8.8
ロシアと旧ソ連の親欧米国グルジアが交戦した「グルジア紛争」の勃発から、8日で
丸5年が経過した。紛争後、ロシアが一方的に独立を承認したグルジア・南オセチア自治州
の周辺では「国境」の画定作業が進み、ロシアが同自治州を事実上支配する構図が一層
固定化している。グルジアのイワニシュビリ内閣は 対露関係の改善を掲げるが、ロシアが
領土問題で“譲歩”する兆候はない。 ・・・
2008年の紛争は、南オセチアの再統一を狙ったグルジアが口火を切ったとされている。
だが、首都トビリシにある戦略・国際研究財団のロンデリ所長は「 ロシアが紛争を準備し、
挑発したという証拠は数多くある。責任は双方にあろうが、より悪いのはロシアだ 」と話す。
「 ロシアの狙いは、グルジアの北大西洋条約機構(NATO)加盟を阻止し、地政学的要衝
である南カフカス地域を勢力圏として保持することだった。その拠点となる南オセチアなど
を完全な統制下に入れるために、戦争という口実が必要だったのだ 」
紛争後、ロシアは独立を承認した南オセチア、アブハジアの両地域に軍の基地を建設し、
それぞれに数千人規模の部隊が駐留する。南オセチアには 08〜12年で 328億ルーブル
(約959億円)⋆もの「復興資金」がロシアから投じられ、政権の傀儡化も進んでいる。
※ 在日米軍駐留経費負担=思いやり予算 - Wikipedia
(つづく)
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