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参考: 吉田松陰の朝鮮論
吉田松陰 - Wikipedia ( 1830 〜 59 )
文政 13 安政 6
藩校明倫館の元学頭・山県太華と論争し、
天下は 万民の天下にあらず、天下は 一人の天下なり。
※ 一人とは 天皇のこと。
『栗原良三に復する書』 ( 1852 嘉永5年 )
皇朝、武を以て 国を立つ。其(そ)の盛時は 高麗・新羅を懾服して 使を
百済・任那に駆りしこと難からざりしなり。 寛平に至りて、新羅来寇す、則ち
撃ちて 之(こ)れを却(しりぞ)けたるも、是(こ)の時は 古の雄略 復た見るべき
なし、而(しか)れども 防守は 尚(な)ほ 人ありき。 其の他は 則ち 言ふべき
ものなし。……豊関白(豊臣秀吉)起るや、三韓を鏖(皆殺し)にし、有明を圧し、
勢将に古の略に復せんとす。不幸にして 豊公 早く薨じ、大業継かざりしは
惜しむべきかな。然れども 余威 猶(な)ほ 百蛮に震ひて 数世に延ぶ、盛なり
と謂(い)ふべし。降りて 近時に及んでは、事 言ふに忍びず。
……国威の衰頽、最も 未だ曾て 有らざる所なり。
嘉永6年(1853) 黒船来航
上海でサスケハナ⋆に旗艦を移したペリー艦隊は 5月17日に出航し、同26日に
琉球王国(薩摩藩影響下にある)の那覇沖に停泊。
⋆ サスケハナ川に スリーマイル原発があった。
ペリーは首里城への訪問を打診したが、琉球王国側は これを拒否。
しかし、ペリーはこれを無視して、武装した兵員を率いて上陸し、市内を行進
しながら首里城まで進軍した。
琉球王国は仕方なく、武具の持込と兵の入城だけは拒否するとして、ペリー
は武装解除した士官数名とともに入城した。ペリー一行は 北殿で茶と菓子程度
でもてなされ、開国を促す大統領親書を手渡した。さらに 場所を城外の大美
御殿に移し、酒と料理でもてなされた。ペリーは感謝して、返礼に王国高官を
「サスケハナ」に招待し、同行のフランス人シェフの料理を振舞った。
しかし、王国が用意したもてなしは、来客への慣例として行ったものに過ぎず、
ペリーへの拒否(親書の返答)を示していた。友好的に振舞ったことで武力制圧
を免れたが、琉球王国はこの後もペリーの日本への中継点として活用された。
『幽囚録』 ( 1854 安政元年 )
朝鮮と満洲とは相連なりて 神州の西北に在り、亦皆海を隔てて近きものなり。
而して 朝鮮の如きは 古時 我れに臣属せしも、今は 則ち 寖(や)や倨(おご)る、
最も 其の風 教を詳かにして 之(こ)れを復(かえ)さざるべからざるなり。・・・
「日升らざれば 則ち 昃(かたむ)き、月盈たざれば 則ち 虧(か)け、国盛んなら ざれば 則ち 替(おとろ)ふ。 故に 善く国を保つものは 徒(いたずら)に 其(そ)の
有る所を失ふことなきのみならず、又 其の無き所を増すことあり。
今急 武備を修め、艦 略(ほぼ)具(そな)はり、礟足らば、則ち 宜しく蝦夷
を開拓して、諸侯を封建し、間に乗じて 加摸察加(カムチャッカ)・隩都加(オホーツク)
を奪ひ、琉球に諭(さと)し、朝覲会同すること 内諸侯と比(しと)しからしめ
朝鮮を責めて 質を納れ 貢を奉じ、古の盛時の如くにし、北は 満州の地を割き、
南は 台湾、呂宋(ルソン)諸島を収め、進取の勢を漸示すべし。
然る後、民を愛し士を養い 慎みて辺圉(ぎょ )を守らば、則ち 善く国を保つと
謂(い)うべし。
※ 朝覲(ちょうきん): 諸侯または属国の王などが、参内して君主に拝謁すること
(安政元年十二月十二日付書簡)
今大いに船艦を打造し 北は 蝦夷を収め 西は 朝鮮を服し、駸々然として
進取の勢を示し候はば、群夷自から手を収むべし。何となれば 縦令(たとえ)
一度 近づき少利を得るとも、又 其の本国を襲はれん事を恐るるなり。
計(はかりごと) 此(こ)れに出でずんば 永久を保するの策に非ず。
『清国咸豊乱記』( 1855 安政2年 )
朝鮮を来たし(朝貢させ)満洲を収めんと欲すれば 則ち 艦に非ずんば不可なり。 是れ余の本志なり。 今は 未だ ここに及ばず、則ち 巨艦待つべきなり。
(安政二年四月二十四日付書簡)
魯(ロシア)・墨(メキシコ) 講和一定す、決然として我れより 是れを破り 信を戎狄に
失ふべからず。 但だ 章程を厳にし 信義を厚うし、其の間を以て 国力を養ひ、
取り易き朝鮮・満洲・支那を切り随へ、交易にて 魯国に失ふ所は 又 土地
にて鮮満にて償ふべし
『治心気斎先生に与ふる書』(「野山雑著」)
宜(よろ)しく章程を厳にし約束を謹みて、其れをして驕悍(きょうかん)に至ら
しめざるべし。間に乗じて 満洲を収めて 魯に逼り、朝鮮を来たして 清を窺ひ、
南洲を取りて 印度を襲ふ。 三者 当に其の為し易きものを択びて 之れを為す
べし。是れ 天下万世継ぐべきの業なり。天下の勢、或は 未だ ここに至ら
ざれば 則ち退きて 吾が国を治め、武を偃し 文を修め、賢能を招き士民を養ひ、
声息を潜めて 形跡を歛むるも、猶ほ 以て 一方の安を受けて これを子孫に
伝ふるに足らん。……是れを 之れ勉めずして 船を造り砲を鋳るを是れ事とす、
是れ 僕の甚だ惑ふ所以なり。
『丙辰幽室文稿』( 1856 安政3年 )
「久坂玄瑞に復する書」 今の計たる、疆域を謹み 条約を厳にして、以て 二虜を覊縻し、間に乗じて
蝦夷を墾き 琉球を収め、朝鮮を取り 満洲を拉き、支那を圧し 印度に臨みて、
以て 進取の勢を張り、以て 退守の基を固めて、神功の未だ遂げたまはざりし
所を遂げ、豊国の未だ果さざりし所を果すに若(し)かざるなり。
神功: 神功皇后 - Wikipedia 豊国: 豊臣秀吉
「外征論」 夫れ坤輿の形勢は、合はせざる能はざる者あり、合はせざるべからざる 者あり。我が奥越の如きは、地脈接続し、合せざる能はざる者なり。
三韓・任那の諸蕃は、地脈接続せずと雖も、而も形勢対持し、吾れ往かずんば
則ち 彼れ必ず来り、吾れ攻めずんば 則ち 彼れ必ず襲ひ、将に不測の憂を
醸さんとす。是れ合はせざるべからざる者なり。
安政5年(1858)
幕府が無勅許で日米修好通商条約を締結したことを知って激怒、
討幕を表明して、老中首座である間部詮勝の暗殺を計画する。
だが、弟子の久坂玄瑞、高杉晋作や桂小五郎(木戸孝允)らは反対して
同調しなかったため、計画は頓挫。 さらに、松陰は 幕府が日本最大の障害
になっていると批判し、倒幕をも持ちかける。
結果、松陰は捕らえられ、野山獄に幽囚される。
「桂小五郎あて書簡」(二月十九日付)
此の段 幕許を得、蝦夷同様に相成り候はば、異時 明末の鄭成功 の功も 成るべくかと思はれ候。此の深意は 扠(さ)て置き、幕吏変通の議、興利の説
今日の急に候へば、竹島開墾位は 難事に非ざるべし。是れ 一御勘定の
主張にて行はれ申すべくと黙算仕り候。委細 玄瑞 存知の事に付き御運籌
下さるべく候。天下無事ならば 幕府の一利、事あらば 遠略の下手は 吾が藩
よりは 朝鮮・満洲に臨むに若(し)くはなし。朝鮮・満洲に臨まんとならば 竹島
『対策一道』( 四月中旬)
凡(およ)そ 皇国の士民たる者、公武に拘(かかわ)らず、貴賤を問はず、 推薦抜擢して軍師舶司と為し、大鑑を打造して船軍を習練し、東北にしては
蝦夷・唐太、西南にしては流虯〔琉球〕。対馬、憧々(しょうしょう)往来して虚日
あることなく、通漕捕鯨以て操舟を習ひ 海勢を暁り、然る後 往いて 朝鮮・
満洲 及び清国を問ひ、然る後 広東・咬(カ)ル〔口偏に留〕吧(パ)〔ジャカルタ〕・
喜望峰・豪斯多辣理、皆 館を設け 将士を置き、以て 四方の事を探聴し、
且(か)つ 互市の利を征(と)る。此の事 三年を過ぎずして 略(ほ)ぼ弁ぜん。
然る後 往いて 加里蒲爾尼亜(カリフォルニア)を問ひ、以て 前年の使に酬い、以て
和親の約を締ぶ。果して 能く是(か)くの如くならば、国威奮興、材俊振起、
決して 国体を失ふに至らず。
『続愚論』( 五月下旬 )
清国・朝鮮・印度抔の近国へ出掛け候様成され候はば、数年の内 航海の 事は大いに行はれ申すべく存じ奉り候・・・
商船漸く増し、土貨漸く殖え、而して 互市漸く盛んなれば、乃ち 軍艦を造る。
軍艦には必ず砲銃を備へ、士卒を充て、商艦は以て輜重に当つ。ここに於て
欧羅・米利も、遠くして到るべからざることなし、而して 朝鮮・満洲は 之れ言ふ
に足らんや。
「久坂玄瑞あて書簡」(六月二十八日付)
英〔口偏に英〕夷 既に拠るとも苦しからず、矢張り 開墾を名とし交易をなし、 因つて 外夷の風説を聞くこと 尤も妙、英〔同上〕夷 既に拠れば 別して差捨て
難く候。左なく候ては いつ何時 長門などへ来襲も測るべからざるなり、
寸板も海に下す能はざるの陋を破るには 是れ等にしく妙策は 之れなく候。
黒龍・蝦夷は 本藩よりは迂遠、夫れよりは 竹島・朝鮮・北京辺の事こそ本藩
の急に相見え候・・・
英〔同上〕夷闢きかけたれば 尚ほ可なり。何分一寸なりと 外へ張出さねば
相捌けず候。水軍を仕向くると云ふは 尚ほ愚論なり。水軍にて行けば 彼を
備をする、商船で行けば 彼れも商をするなり。
※ 英〔口偏に英〕夷: イギリス
「桂小五郎あて書簡」(七月十一日付)
朝鮮に懸け合ひ、今に空島に相成り居り候事 無益に付き、此の方より開く なりと申し遣はし候はば 異論は 之れある間布く、若し 又洋夷ども 已に彼れ
が有と相成り候はば致方なし。開墾を名とし 渡海致し候はば、是れ 則ち
航海雄略の初めにも相成り申すべく候。
安政6年(1859) 10月27日、安政の大獄に連座し、江戸に檻送され、
評定所で取り調べの結果、斬首刑に処された。享年30(満29歳没)。 時移って、 1915年 (大正4)の状況は、以下の如くである。
満洲の日貨排斥熱 (奉天特信) 神戸新聞 1915.4.19(大正4)
日支交渉は 其の遷延又遷延と共に 益益(ますます) 支那の民心を動揺せしめ
各地に謡言蜚語 盛に行われ、彼の日貨排斥の如きは 支那商品本来の希望
にあらざれど、或筋よりの強制 及び 日本留学生其他の煽動に余儀なくせられ
て行いつつある姿なるが、此の日貨排斥に対し 支那の官民が表面その取締を
なすと共に 裏面 謂(い)う所の土貨振興に努め、各方面に其声を高めつつある
は注意すべき事なり。
満洲にも 此の土貨振興の勧誘をなすべく入込める支那人少からず。彼等は
日貨排斥を公然口にせざるも、土貨振興の必要急須を説きて成(な)べく 外国品
を用うる勿れ と熱心に首唱し居るは、欧洲戦乱の為に欧洲品の輸入少く、其の
外国品なるものが 殆ど日本品なるに徴して、其の土貨振興説の日貨排斥と意
を等しうするを観取するに難からず。流石(さすが)に巧妙なる支那人だけありて
日本の国産奨励を見様見真似に旨きことを考えたるものと謂うべく、日本も
国産奨励の声を大にして 支那人に好き智恵を与えたりと言わるるも致方なき
次第となりたり。
支那に於(お)ける今日の土貨振興説は、斯の如く日貨排斥の仮託言として
行われ居るも、併(しか)し乍(なが)ら 支那の政府当局者が 一面 切実に土貨
振興の必要を認め居ることは、事実にして 袁(世凱)総統の徴偶を受け 相当に
羽振を利かせる 梁士詒の如きが 其(その)商業奨励策の内に於いて 熱心
土貨振興の要を力説し居るに見るも、其の一斑を推知するに難からず。而(しか)
も 工業の 猶(なお)甚だ幼稚なる支那が 如何にして 土貨振興の実を挙ぐべきか
は 其(その)観説の盛んなると反対に、未だ 夫(それ)らしき具体的意見の聴く
べきものなし。此点は 矢張 支那人にして 思想の空疎を免れず。
尤(もっと)も 全く其の方法を説かずという訳にもあらず。彼等が其の唱うる
土貨振興の一策として 関税率増加の実現に腐心しつつあるは 対支貿易に
最も優勢の地位を占むる我日本の 須らく注意すべき一事項に属すべし。
支那政府は 昨年 関税五分の増率を 列国に要求し、列国は其の理由の是なる
を認めて、之れに賛意を表し、我日本も主義として 賛同を表したるが 支那政府
本来の希望は 自国産業の発展 並に 不如意なる財政の収入を増加せんが
為め、一種の関税保護策を行わんとするにありて、農商部を始め 各部相一致
して 之が方法を講究しつつあり。
支那の立場より云えば、是れ洵(まこと)に無理ならむ事なるも、彼のマツケー
条約なるものあり、且(か)つ 関税増率の実行に対して 釐金制度の撤廃 及び
幣制改革の実施を条件としある以上、未だ其(その)実の見るべきものなき今日、
任意に保護主義 兼 収入主義の関税増加を行わんことは 到底不可能なり。
支那政府 固(もよ)より 之を知るを以て、今遽(にわか)に其(その)実施を欲する
に非ざるも、土貨振興の首唱は 任意に為し得るが故に、先ず其声を大にし、
然る後 何等かの方法の下に 少なくとも 外国輸入品の一部に対して関税増加
を行わん、と種々研鑽講究しつつあるは 事実なるが如し。
今日の土貨振興説は 前記の如く 日貨排斥の方便として唱えられるるあるも
土貨幣振興は 右の如く 支那本来の希望なるを以て、今後も引続き首唱せらる
べく、従って 対支貿易に重要位地を占むる我国は、今より深く 此点に注意の
必要あり。況(いわ)んや 支那に向って 層一層 その経済的歩武を進めんとする
に於ておや。
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