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『 念願は人格を決定す 継続は力なり 』
この言葉の出処は知りませんが、
恩師( 住岡夜晃 )の持言でありました。
私は 一体、 この一句を いかに領解(りょうげ)すべきでありましょう。
本願とは何か?
誰が起す心なのか?
人格とは 一体 どういうものか?
何故に 念願が人格を決定することができるのであろうか?
継続とは 一体 何を継続するのか?
それが 何故 力であるのか?
私には 尊いお言葉と聞かせて頂くより
疑問ばかりが起きて、
師語を そのまま高座の前で 絶呼する勇気どころか、
疑問百出である。
私が 私の 偽らない心に聞いてみる時、
私の念願は 人前に出せそうもない、碌でなしの欲望ばかりであり、
その人格は 鬼か蛇か
鼻もちならぬ あさましい相しか持ち合わせておりません。
また、一貫するものは 本能の欲求以外には、
何一つ価値あるものを見出すことはできません。
三不三信の教として浄土論註の み教え
や 安楽集の釈文を聞く時、
おぼろげながらも 知らせて頂けるようであります。
――― 花田保太
※ 三不三信の教 ( 『浄土論註』〜曇鸞(どんらん)〜 )
「 称名憶念することあれども、
無明 なお存して 所願を満てざる者は 如何となれば、
実の如く修行せざると、名義と相応せざるとによるが故なり。
いかんが 実の如く修行せず、名義と相応せざると為(な)すや。
謂(いわ)く、如来は これ実相身なり、 これ為物身なり と知らざればなり。
また、三種の不相応あり。
一には、信心 淳(あつ)からず。 存せるがごとく 亡せるがごときが故に。
二には、信心 一ならず。 決定(けつじょう)なきが故に。
三には、信心 相続せず。 余念 間(へだ)つるが故に。
この三句 展転(てんでん)して 相成ず。
信心 淳からざるをもっての故に、決定なし。
決定なきが故に、念 相続せず。
また、いうべし。
念 相続せざるが故に、決定の信を得ず。
決定の信を得ざるが故に、心 淳からず、と。
これと相違せるを 如実修行相応と名づく。 」
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先師のことば
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