混沌の時代のなかで、真実の光を求めて

現代に生きる私の上に 仏法は何ができるかを 試そうと思い立ちました。//全ての原発を 即刻停止して、 別の生き方をしましょう。

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もし、広島に原爆が落されなかったら、我が子はこの世に生まれてこなかったであろう。
  ーーーー 広島では、無慮20万人が死亡したというのだが・・・。



 妻の叔父は、昭和20年8月当時、たまたま島根からその友人の代わりに、広島文理科大学(現広大の前身)に来ていました。6日の朝、彼は市内御幸町の下宿にいたようですが、原爆投下後、家族の者が広島市内に入って見ると、その辺り一面は、跡形もない焼け野が原でした。
 
 彼は長男でしたから、家の跡取りとして育てられ、妻の父は家を出るべく、その人生を歩み始めていました。
しかし、長男の死によって、急に今までの係累を絶って実家に帰り、妻の母と結婚することになりました。
 そうして、妻は生まれ、私と結婚し、子供たちが生まれました。


  みな、原爆投下を縁として、その人生は大きく変わりました。そして叔父は そのために その存在を絶たれ、
 子供たちは そのために この世に存在を得ました。
  叔父は、原爆を原因として死んだのではありません。子供たちも、原爆が原因で生まれたのではありません。
 それは、あくまで縁です。



 世間では、よく‘ 原爆によって人生を狂わされた ’と言いますが、これは屈辱的で、自立性のない被害者意識の言い方です。
 そうではない! 彼らは、原爆を縁として、生きねばならなかったのではないでしょうか? 

 「原爆を縁として生きる」ーーーーこれほど 自己の人生を受け止め、さらには原爆を研究開発した科学者達や、それを国際政治の武器に使用した米国そのものを全体として、その者一身に担う驚くべき独立者はないのではないでしょうか? これを「大乗の菩薩」と言います。





                             合掌
 
 

閉じる コメント(38)

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夜、空を見上げる時、我々が目にするのは、今の世界ではありません。何十年前の星であり、何百年、何千年・・前の星々です。そこに、無数に折り重なった過去の世界を見ています。今とは、私にとっての今でしかない。絶対的な時間などはない。人間のみが互いに約束した「時間」しかありません。では、今ある私(果)の(原)因は何か?父母の結婚かor精子と卵子か?否、それらは縁である。こういう父とこういう母を縁として私は生まれてきた、と。合掌

2005/8/26(金) 午後 2:39 [ kyomutekisonzairon ]

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もし、父母が因なら、‘なんで私を生んだのか?!’という子供の抗弁・訴えは成立します。私がここにあるのは、父母の責任で私の責任ではないと。しかし私が「この父母を縁として生まれてきた」となると父母養育の恩を感ぜざるを得なくなる。今どんな困難な状況にあろうと、生まれてきた責任を父母に転化出来なくなります。また、私の存在の因を創造主ともしません。それは、今の状況の責任を自分で担わず、創造主に転化します。これが欧米文明の欠陥です。合掌

2005/8/26(金) 午後 3:08 [ kyomutekisonzairon ]

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ちょっと言葉を変えます。創造された車体、肉体、その体を創造した人間、神、創造されたものはその主と一体となって、自動車であり、人間で有る訳です。そしてそこに社会と言う共通のシステムが有ります。 私は自己を確立する前は、人間としての意識を働かせていました。 様々な精神苦の処理の仕方がさっぱり分からず行き詰りました。

2005/8/26(金) 午後 6:34 [ - ]

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そして宗教心に目覚め、自己を探求して答えを見つけました。 しかしその答えは「無」であり、自分は自分なんだ、肉体は肉体なんだと言う分別論を立ち上げました。 そして創造された肉体と主の関係を自動車の姿に見出したのです。ものの道理が肉体にある。道理があれば説明は可能、無になってその説明を探し訳を説いて宗教問題を解決する。 そういうシナリオが思いの中にあります。ノロカメでした。まる

2005/8/26(金) 午後 6:40 [ - ]

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2人を相手に有り難うございます^^。私の方は。。。こんな数回のやり取りで理解できる程簡単な事ではなさそうです。普通の因果律に頭が支配されている私ですので、因縁果によるものの見方には訓練が要るでしょう。一点だけ。因と縁、どちらが欠けても果が得られないという意味においては因も縁も結局は同じなのではないかと思うのですが、そうではないのですか? 多くの原因によって結果がもたらされる、とするのではダメなのでしょうか。

2005/8/27(土) 午前 8:03 ayammt

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物理現象とのアナロジーで行くと、場の理論における場が縁、というのはいかがでしょうか。1kgの物質がある(因)ここに重力場が作用する(縁)よって物質が落下する(果) 電子がある(因)電場がある(縁)電子は加速する(果)一般の事象に当てはめると混乱する事が多そうです。でも父母のたとえはOKです。私の存在の因は何ですか?

2005/8/27(土) 午前 8:20 ayammt

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物質があればそこにその重力場があり、荷電粒子の運動でそこに電磁場ができる。こう考えると物質や電子の振舞いが統一的に説明可能となる。ここに、ayammtさんが適用された因縁果はそれでよいでしょう。ただ科学者はこの物質の動きを現象の外から、力と加速度と(時空概念である)速度に分け(これらは人間が現象を理解可能とするため作った概念)、他の攪乱要因(縁とは見ない!)が無いと仮定して運動の結果を予測(ie.数学的に計算)します。このように、1つの理想状態の中での思考ですから縁は不要なのでしょう。合掌

2005/8/27(土) 午前 10:14 [ kyomutekisonzairon ]

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「縁」は、自己が現象の外にではなく、中に居て当事者である時にその世界理解に最も強力に働くのではないでしょうか?すなわち自己を世界から切り離して、神の位置におく(世界の傍観者となる)時には、意味をもたないのでしょう。この時、自己は世界から消えます。科学者の自己は科学研究の際、その認識に入りません。自己が無でないと研究できないわけです。それゆえ世界に対して自己の行為の責任を取ることができません。合掌

2005/8/27(土) 午前 10:31 [ kyomutekisonzairon ]

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私の存在の因は、私自身です。(これは、今後起信論が追求していくテーマです)合掌

2005/8/27(土) 午前 10:40 [ kyomutekisonzairon ]

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どうも縁起に違和感を覚える。原点の記号が0であり無から生じる物事の理屈として理解していますが、縁起には0が感じ取れない。私の観はうわべだけですがね。無から生じる諭は人間的に理解が難しいものですが分かりやすい例をあげると、アイデアー商品はその出発点は創意工夫つまりヒラメキで有ります。そしてそのヒラメキは私の思い、私の知恵、私の存在無しに語れない。無を取り入れることによって思考の出発点を設定できる。

2005/8/27(土) 午前 11:10 [ - ]

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無を否定すると有のみとなり、宇宙はコンクリートの塊、空間が無くなる。人間の五感は有る事に反応し、無いことには反応しない。 ですから無については考える作業は出来ないのです。 それは思うことでしか無い。自分とは無であると思う、思う心に我あり。 思う心が無ければ空想は描かれず、空想が無ければこの世には何も生まれず、従って文明も無い。心は思わなければ無状態、我も無い。 無我に至れば成仏するなり。ノロカメでした。まる

2005/8/27(土) 午前 11:28 [ - ]

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成仏すれば、有無一体論が描かれ人間小宇宙が誕生する。

2005/8/27(土) 午前 11:29 [ - ]

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縁起全体が0なのです。思考も五感も本当は無いものなのです。無我も成仏も無いのです。無いものを有るとする。無が有るとするのを常見と言います。逆に、有るものを無いとするのを断見と言います。この二見を離れるのは、そう簡単なことではありません。残念ながら、noro-さんも、いまだそうなのです。合掌

2005/8/27(土) 午後 2:09 [ kyomutekisonzairon ]

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確立した自己を無と現すことは、自己はここに有る訳ですから、無いものがあると自覚出来ますが、縁起全体を0とし自己に結びつけることが出来ずその説はどうしても情報どまり、消化できない。考えも五感も無いと言うのは逆立ちしてもいただけない。目も鼻も口も耳も手も有る。 無と有を切り離すことは出来ないが、分別思考はそれぞれを無分別としてみる。無は無であり、有は有であると。自己は無分別である。 自己を分別することは出来ない。私は誰が何と言おうと私である。 ノロカメでした。まる

2005/8/27(土) 午後 4:58 [ - ]

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消化できないのです。いただけないのです。そうなのです。それが実体化と言います。実体化から免れない。離れられない。そこを仏教は問題にするのです。これがために、世の中に矛盾と悲惨を我々は巻き起こす・・・。合掌

2005/8/27(土) 午後 5:17 [ kyomutekisonzairon ]

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私は宗教を食べて消化不良を起こし、下剤を飲んで全て排出した。 宗教はとても大切な食べ物ですが、そのまま頂くと消化不良を起こす。 ようく噛み砕いて自分の胃に腸に負担をかけないように優しく大切に自然に扱うことが血肉になる秘訣であると。今日も言葉が良く滑る。 虚無さんのお陰かも。感謝合掌m(__)m ノロカメでした。まる

2005/8/27(土) 午後 5:52 [ - ]

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科学者の自己は確かに科学研究のプロセスに入ってきませんね。そのようなもので結果がかわったら大変なことになります。。。本当でしょうか? 実際にはこの研究者がこのような結果を出したという事実自体に、本当はその個人のすべてが反映されていると考えられます。ただ科学では真っ先にその部分が切り離されて情報が普遍化し共有されていきます。

2005/8/31(水) 午前 2:23 ayammt

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科学者は無責任という言葉は確かにそうかもしれません。すくなくとも歴史は物語っております。エンリコ=フェルミの理論なくして今の半導体の分野は成立しませんが、そんな功績輝かしい彼が原爆の開発の中心にいたことは、私にはショックです。彼はイタリア人ですが、当時の計画の中で活躍した人には高名なユダヤ人物理学者が数多くいました。ひょっとしたら科学者の自己は物理法則に入っているのかもしれません。

2005/8/31(水) 午前 2:32 ayammt

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よく噛み砕いて。。というnoroさまの含蓄。ホストであるkyomuさまの寛容さ。どちらも心地よいです。^^

2005/8/31(水) 午前 2:37 ayammt

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ここで言う、「科学者は無責任」とは、倫理的意味でよりは、存在論的意味です。科学研究の際は、自己を対象から切り離し、傍観者とならねばなりません。恐れたり悲しんだり食べたり寝たりする自分を消さねば、対象を扱えません。世界から自己が無くならねば・・。したがって思考する時、彼は世界全体を支配する立場には立てても、世界全体を背負うことはできないのです。したがって、倫理的責任も勿論、取れないことになります。合掌

2005/8/31(水) 午後 8:43 [ kyomutekisonzairon ]


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