混沌の時代のなかで、真実の光を求めて

現代に生きる私の上に 仏法は何ができるかを 試そうと思い立ちました。//全ての原発を 即刻停止して、 別の生き方をしましょう。

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所言義者 則有三種 云何為三
一者体大、謂一切法真如、 平等不増減故
二者相大、謂如来蔵、 具足無量性功徳故
三者用大、能生一切世間出世間善因果故
一切諸仏本所乗故、一切菩薩皆乗此法到如来地故。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー(よみかた)ーーーーーーーーーーーーーー
言う所の義には、則sunawaち 三種有り。云何ikanが 三と為naす。 
一には、体大、一切法の真如を謂iう。 平等にして 増減せざるが故なり。 
二には、相大、如来蔵を謂う。無量の性syou功徳を 具足するが故なり。 
三には、能yoく一切の世間と出世間との 善の因果を生ずるが故なり。  
一切の諸仏の本moto乗ぜし所なるが故なり。
一切の菩薩も皆 此koの法に乗じて如来地に到るが故なり。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 海東疏は、
 「 中に於いて、亦 二あり。 初には、大の義を明かし、次には、乗の義を顕す。
  これまた、下の釈(解釈分)の中の文を起こす。(乃至) 
  大の義の中の{ 体大 }とは、真如門にあり。
  相用の二大は 生滅門にあり。 生滅門に内に、亦た自体あれども、
  但し 体を以って相に従うが故に 別に説かざるなり。 」と。
                                    

 義記は、
 「 義大とは、下の文(解釈分)の{ 復次真如自体相者 } 以下の文を起こすなり。
  此の中に、二あり。 先に大を弁じ、 後に乗を釈す。

  前に中に、亦二あり。先に標、 後に釈なり。
  釈の中に三あり。  
  初に 体とは、真性は深広zinkouにして、凡聖bonsyou染浄 皆 以って依eと為naす。
  故に大の名を受く。
  随流zuiruして染を加れども、而sikaも増さず。 反流hanruして染を除けども、而も減ぜず。 
  又、反流して浄を加えれども 増さず。 随流して浄を欠けども 減ぜず。
  良makotoに、染浄の欠けざる所、始終の易kaえざる所なるを以っての故に、{ 平等不増減 }
  と云うなり。」と。      


   体大とは、凡聖染浄ie.我ら人間( 賢者・愚者、善人・悪人、富者・貧者、親しい人・
  疎遠な人、同国人・外国人、男・女、老・若、真面目な人・不真面目な人、仏法が分って
  いる人・いない人 )、皆 大地に支えられているように、これを依としている。

   いかにガンバッテ修行して悟りに近付こうとも、一生を他人に迷惑ばかりかけて過ごそう
  とも、この大乗の体の清浄性を増すことも、減らすこともない。
  また この汚染を増すことも、減らすこともない。
  地球にいかに環境破壊を進めようと、経済が崩壊しようと、理不尽な侵略に遇おうとも、
  核戦争となろうとも、この体を毀損することは、我々にはできない・・・。                         

 
 「 二者相大 〜 」

 海東疏は、
  「{ 如来蔵具足無量性功徳 }とは、二種の蔵のうちには、不空如来蔵なり。
   三種の蔵の中には、能摂如来蔵なり。」と。  
 義記は、
  「 相大とは、二種の如来蔵の中の不空の義なり。謂く、体に異ならざるの相の故に、
   性徳と云う。 水の八徳の水に異ならざるが如し。」と。                        
 
  ここに不空という語が出てきますが、これはまた後に論の本文に出てきます。   

  ** 水の八徳・・・八功徳水 ともいう。
            仏の浄土の水には、8種の勝れた特質がある。
            〜 澄浄・清冷syouryou・甘美・軽軟kyounan・潤沢・安和・徐飢渇・
              長養諸根zyouyou-である。             


  先師は
  「 相は、外面的相状ではなくして、体大に具有する本質的属性である。属性といっても、
   還滅genmetu向上の極信・仏果より見たる本質的価値の属性である。
   (乃至)かかる真如の属性は、体大を離れて存立するのではない。 体大そのものに
   内具するが故に、体が普遍であるがゆえに、相も普遍絶対である。故に大といわれる
   のである。」と。                                                   

 
 「 三者用大 〜 」
 
  義記は、
   「 用大yuu/daiとは、謂iwaく、随染の業幻・自然の大用・報化の二身・粗細の用なり。
    諸moromoroの衆生をして、始め 世善sezenを成ぜしめ、終に 出世を成ぜしむるが
    故なり。」と。

   ここで、義記は問いを起こす。
   「 なぜ、ただ善といって、不善を云わないのか?」と。
   答えて 「 不善の法は、真に違するを以っての故に、これ 所治なるが故に、その用に
    非ざるなり。」と。

   又問う。「 もし しからば、諸の不善の法は、真を離るべきや?」。
   釈して云く 「 真に違するを以っての故に、真を離るることを得ず。真に違するを
    以っての故に、その用に非らざるなり。」と。            

  先師は
   「 用とは、真如自体に本具する相大(無量の性功徳)が発動し顕現する作用である。
   (乃至)相が普遍であるが故に、用もまた普遍であるが故に大といわれるのである。」と。                                           

 
 「 一切諸仏 〜 」
 
  海東疏は
   「 乗の義の中に二句あり。{ 一切諸仏本所乗故 }とは、果を立て、因に望めて、
    以って乗の義を釈すなり。
    { 一切菩薩皆乗此法到如来地故 }とは、因を果に望むるに拠yoりて、以って
    乗の義を釈す。」と。
   
   果とは仏。因とは衆生、この場合は菩薩(修行者)。 
   一切の諸仏(人間、否 生きとし生けるものの究極的な理想の人格)は、この衆生心に
   乗じて仏となったのであり、一切菩薩(我々も)もまた、この衆生心に乗じて、如来地
   (究極的理想の境涯)に到るのである、と。          

  先師は、
   「 この乗の義と大の義とを合して、衆生心を大乗といわれるのである。 
    由来、仏教では教法kyoubouのことを乗と名のってきたのである。しかるに、本論では
    教法ではなくて、教法によって起る・教法を聞いて修行成就する主体を乗といわれる。 
    一見奇異に感ぜられるが、教法がいかに尊重されるべきものであっても、教法を
    聞く主体に 教法が如実に相応する素質が無くては、それは生きることは出来ない。
    この点から言えば、主体の実証こそ尊重されなくてはならぬ故に、教法によって起る主体
    を乗といわれたのである。」
   と。                                                 

ーーーーー以上で、立義分を終わります。                                                                    

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