混沌の時代のなかで、真実の光を求めて

現代に生きる私の上に 仏法は何ができるかを 試そうと思い立ちました。//全ての原発を 即刻停止して、 別の生き方をしましょう。

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 (不空のつづき)
  
 釈尊は、「(生)老病死を見て、世の非常を悟り、国と財と位を捨てて山に入って道を学す。」
当時第一級の宗教家(=哲学者=知識人)たちについて、老いるということ、病になるという
こと、死ぬということの問題を問うのである。

 釈迦のように 太子として物質的に恵まれた境遇に生まれ、寒さや暑さ・風雨から護られ、
また 餓えや不衛生な状態から自己を防御でき、当時第一級の医者につくことができ、外国の
侵略を防ぐことができても、 この老病死の 何処からともない密やかな侵入から、自己を護る
ことはできない。
 城の門の外に居住する人々は、彼が見た通りであるが、一方 老病死という人間の現実を
覆う 城内の華麗な荘厳や、かしずく若く美しい采女たちに、澄んだ彼の眼は 晦まされて 
そこに惑溺することはなかったのである。

 彼は、それによって 老病死を防ぎ、幸福な人生を送るのに必要な 国家と財産と社会的地位
を捨てた。 自分を 老病死から守る一切を捨てたのである。
今日で言えば、<国籍> と <健康保険> と <年金> を捨て、<職場> を辞めるような
ことであろう。

 
 しかし、すでに気づかれている人もおられるでしょうが、この老病死というのは、我が肉体に
関するもので、精神性の高い釈尊の教説からすると、呆気にとられるほど 次元が低い話で
あります。
釈迦が悩んだのは、こんな肉体の健康と存在が失われるという程度のことなのか?! と。
 けれども、我々は 太古から、この低次元のことに つねに翻弄されてきました。
国家を形成するのも、経済活動をするのも、戦争も、文明を創るのも、自然破壊も、およそ
我々の この地上での活動のほとんどは、ある面 老病死から自己を護ろうとするものでは
なかったでしょうか? そして、誰も 例外なく、これに敗れ去って世を終えるのである。

  
  
「 常恒不変浄法 」
  義記は、
  「 不空の徳は、妄空に翻対するが故に、略して四種を論ず。」と。
 
  老病死という私の現実への対処を、妄という。私の日々の日常生活である。
  これは、空ぜられなくてはならない。
  それ故、{妄空に翻対する}という。 すなわち、不生・不老・不病・不死 である。 

  どういうことか?
 ーーーー先に 「 もし、妄心を離るれば、空ずべきもの無し。 」
    「 不空とは、すでに、法体は空にして妄無きを顕す。 」と。
   
  義記は、宝性論を出して、
  「 一者、常を以っての故に、不生なり。意生身isyouzinを離るるが故に 」と。
  
  <生>とは、先の四門出遊においては、沙門に逢ったことである。すなわち この老病死
  の世界で、我らが 本当に生き得る道を探求する人に逢った。
  〜〜〜〜 この探求(する人)を否定するのが 不生である。
  あたかも、釈迦が、山での厳しい修行を放棄し、骨と皮になって山を降りて、菩提樹の下に
  座り 不生(伝統的修行で生を探求する沙門の道の否定)を獲得しようとしたように。

  <意生身>とは、勝マン宝窟には  < これ、初地以上の一切の菩薩なり。かの人、
  生を受くること、無碍自在なり。心の如く意の如し。意生身と名づく。>と。 
 
  したがって、意生身とは、これ以上 我らが望むべくもない勝れた仏道修行者のことで
  あります。 その意生身の菩薩でさえ離れるところに 不生があるというのである。
  ふつうの感覚だと、宝性論及び義記の言うことは、これはもう 人間不信も甚だしい、
  ひねくれ者の言い様でしょう。
  長年の修行者 しかも世間で言う いわゆる悟りを得た人、生活もしっかりし、学徳もあり、
  衆目は一致して この者を尊敬信頼している。
  ――― この意生身の菩薩を、それでもう完成した人(=仏)、とは言わないのである。
 
  この言わないというところに、仏教が 歴史の中で、様々な現実と他からの批判に鍛えられ
  鍛え抜かれて、いかなる妥協や幻想をも潜り抜けてきた厳しさ というものがあるので
  あろう。決して、ひねくれているのではないのである。
 
 
  では、何故、不生か?
  ーーーー「 常を以っての故に。」と。
  真如の不空(妄なし)は 「常」という徳をもつ故に、というのである。

 「二者、恒を以っての故に、不死なり。不思議退を離れるが故に。」と。
 「三者、不変の故に、不老なり。無漏の業なきが故に。」と。
 「四者、清涼の故に、不病なり。煩悩の習なきが故に。」と。

  ( 不思議退は、恐らく不思議変易hennyaku死のことか? 不思議変易身=意生身
  無漏muroとは、有漏uroに対す。有漏とは煩悩のこと。
  習とは、習気zikkeのこと。煩悩を断っても、残る余習のこと。)


   「 不老不死 」は、中国皇帝たちをはじめ、人類が昔からそれを手に入れようとして、
   多くの試みをしてきたものである。
   また、「 不病 」は、現代医学によって驚くべきことが実現している。
   また、「 不生 」はこれも昔から、“この地上に真に生きるとはどういうことか?”
   “正しく生きるとはどういうことか?”“幸福とは何か?”と 様々な哲学者や宗教家
   さらには思想家が探求して来た。
 
   これらは、実現可能かどうかは別として、正直なところ、我らが 心の底から願うもの
   ではないであろうか? 
   ーーーー また、それ故にこそ、我らは、国家を作ったり、経済活動をしたり、科学技術
   を発展させたり、 血で血を洗う戦争をしたり、 
   ( 最近 米国は、兵士が 相手の兵士と面と面を向かい合せる戦闘を避けて、戦争を
    しようとしている。これは恐ろしいことである。米国人は このことが解っているの
    だろうか? 否、我々は?! )
   他人の運命を踏み躙ったり、環境破壊をしたりするのである。
   それほどに、これらは 強烈な願いなのではないでしょうか?

   しかし、どれもこれも、本当のことにならない! 完結しない!
   ついには、我らは、これらを 幻想だと思うように今日なっている。科学を引っ張り
   出して、不老不死や不病不生を求めるのは 頭脳の狂った者だ言う時代となった。
   こうして、我らの心の奥に疼く願いが抑え付けられ、その出口を封じられているのです。
   この強烈な願いは、このとき どうなるであろうか? いずれ、この無拘束で強烈な
   発現は、我らを 混乱と恐怖のなかに陥れるかもしれない。

 
   仏教は、この我らの心の奥にうずく願いに、真正面から応えようとするのである。
   それが不空なのである。 

                                

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