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(不空のつづき)
「所言不空者 〜〜即是真心 常恒不変浄法満足。則名不空」
義記は、
「 常・恒・不変・浄法 」を 宝性論を引用して、順に 「不生・不死・不老・不病」と
解釈した後、これに 別の解釈を自ら与えている。
すなわち、
「 又、真心とは、体を挙げるなり。
常とは、常徳なり。 恒とは、楽徳なり。 以って、変易hennyakuの苦を離るるを以って
の故なり。 不変とは、我徳なり。業の所繋に非ずして自在なるを以ってなり。 浄法とは、
浄徳なり。」 と。
日常、 私は 妄念を自己の心としているが、本当の心(「真心」)はそうではない。
「 如実不空 」が、本当の心なのだ、と言うのである。
その不空の徳は、前には 生老病死に対して、「 不生・不死・不老・不病 」。
今は、顛倒tendouの常楽我浄( これを四顛倒という )に対して、涅槃の「 常楽我浄 」
である。
顛倒とは何か?
「 什(鳩摩羅什)曰く。有無の見は法相に反somuく。名づけて顛倒と為す。 」と。
この顛倒は、具体的には、ふつう四顛倒と言われます。 常・楽・我・浄の4つの逆さまな
見方です。 略して 四倒sitouと言う。
この四倒に、また二種あります。凡夫と二乗のそれである。
1.凡夫の四倒(有為uiの四倒): 凡夫が、この世の真の相を知らずに見る世界である。
無常のものを常なるものと思い、苦であるものを楽と思い、無我であるものを我あり
と思い、不浄なるものを 浄と思って、それらに執toraわれていること。
すなわち、私の日常生活そのもののことです。
2.二乗の四倒(無為muiの四倒): 二乗とは、声聞syoumonと縁覚engaku。
声聞とは、仏の教説に従って修行しても、自己の解脱のみを目的とする出家の聖者。
縁覚とは、独覚とも言い、仏の教によらないで自ら悟り、寂静な孤独を好むため、
説法教化しない聖者。 捨悲障(悲しみの感情を捨てるという間違い)をもち 仏に
なれない。
この二乗は、凡夫の四倒を断じて、無常・苦・無我・不浄は悟っているが、涅槃は
すべてを滅し尽くした世界と考えているので、涅槃の常楽我浄を知らない。
< 凡夫の四倒 >
我らの日々の日常生活のことであり、また この文明において 主張宣伝され 実際
それで動いている思想と行動すべてに及ぶものでしょう。
(常) 今日のこの地球環境を収奪した上に成立つ市民社会・経済構造が いつまでも
続くものと思っている。
(楽) 電気製品による生活のさまざまな利便(楽)の多くの部分が、ウラン235を
核分裂させることによって維持されているが、それがために 様々な厄介な問題
( この問題の大きさを 我々は評価し損なってる! ) を抱え込んでいる。
(我) 近代の人間観の基本は人権思想にある。
〜〜 我ら人間は、 << 生来ひとしく自由かつ独立しており、一定の生来の権利
を有するものである。
これらの権利は 人民が社会を組織するに当たり、いかなる契約によっても、人民が
子孫から これを あらかじめ奪うことができないものである。 かかる権利とは、
すなわち財産を取得所有し、幸福と安寧とを追求獲得する手段を伴って、生命と
自由とを享受する権利である。>> (1776/バージニア権利の章典)
同年の英国に対する米独立宣言は、さらにあからさまに
<< すべての人は、平等に造られ、造物主によって一定の奪うことのできない権利
を与えられ、その中には生命・自由および幸福の追求が含まれる。・・・>>と。
米国においては、人権は天賦人権であり、フランスにおいては、人権は自然権。
人間が このような権利を保有している存在だというのを「我」という。
これがために、いかに多くの血が流れたことであろうか!
(浄) 市民社会は、商品流通等において 見た目に穢いもの・不揃いのもの・欠陥あ
るものを排除し、見た目に綺麗なもの・規格が統一されたもの・瑕疵のない完成品
しか許容せず、
また町から乞食を駆逐し、一般住宅から老人・病人・死人を追い出し、自分が出した
ゴミや汚物を目に見えないところに廃棄し垂れ流して、清潔で衛生的で生物の臭いの
しない環境を善しとしてきた。
試みに高台に上り、眼下にどこまでも広がる都市で、朝昼晩 一斉に食事をする
老若男女を想像して見よう。そのために 何頭のor何羽の豚や牛や鶏が犠牲になる
ことであろうか!
そして、その人間や動物たちの糞尿はどこに行ったのであろうか?
冷房の効いたビルの中で、綺麗な服を着こなして働く女たち、背広を着て商談に
臨む男たち・・・・
( 日本国中で こういったことが繰り広げられているのである )。
人間の生活は、動物なのであるから本来不浄なものである。それを ここまで極端に
その表面に否定する社会は、異常ではないでしょうか?
** 以上は、社会的局面を指摘してみたのですが、私は こうした中で 日々生活し、
その日常意識は社会的常識に従っています。
即ち 他ならぬ私自身が、このような社会の価値観(凡夫の四倒)を支えているのです。
これは、本当に根深く、現代欧米文明を越えて、私の中に根を張っています。
< 二乗の四倒 >
これは、声聞・縁覚が犯す間違いである。
彼らは、自分の生活について、何らかの問題意識を持っている人達です。
声聞は 他の人からその事を気付かされ、縁覚は 自分でその事に気付いたのである。
そして、その問題の解決をはかるべく努力して、上の凡夫の四倒を克服し、世界および
自らを 無常であり・苦であり・無我であり・不浄であると深く認識するに到った。
しかし、彼らは、人間の究極的悟りie.安らかさは、この認識にあると思い込んでいる。
声聞は 自らの無常(乃至)不浄の身を厭い、心身共にその寂滅を願う。
縁覚は 他との交わりを嫌い、孤独を愛し、自分の悟りの世界に深く入って それを
悦楽とする。
いづれも、通常のレベルを越えた自己と世界に対する認識はあるが、他を利するという
ことがない。 利他の発想が欠落している。そのような必要性を全く感じない。
自分は、無常・苦・無我・不浄を悟って、それが究極的なものと思っている。これで
人間の究極的理想が達成された(成仏)のだと。
この2つの顛倒を克服した者を、< 菩薩 bosatu >と言います。
これは、いかなる者か?
〜〜 「 不可思議変易hennyaku生死 」 をする者だと言われます。
すなわち、
< 無漏の有分別の業を因とし、所知障を縁として、三界の外の殊勝細妙の果報の身
(意生身)を受け、大悲の願を発こし、この身をもって この三界内に来て 一切衆生を
救う行を修して、仏果に至る者である。> と言われます。
仏教用語が沢山出てきて、申し訳ありません。もっと別の菩薩の表現の方がよかったかも
しれません。
ただ、法蔵は、この菩薩の定義を下敷きにして 義記を書いているため、これを出さざる
を得ませんでした。
次回、この定義を、噛み砕いていきます。
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