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(不空のつづき)〜〜〜「 所言不空者・・・・即是真心、常恒不変浄法満足 則名不空 」
「 又 {真心」者挙体也、{常}者常徳也、{恒}者楽徳也、以離変易苦故。{不変}者我徳也、
以非業所繋自在。 {浄法}者浄徳也。」(義記)
論の「 常恒不変浄法 」を、
義記は「 涅槃nehanの常楽我浄 」と取って 解釈しようというのです。
前回は、我々には、この世界の物事は どのように見えるか? ということを少しばかり
考えました。 それは、もう巧まずして、常楽我浄と見えるor見るのでした。
これを< 凡夫の四倒 >と言います。
また、少し深くものごとを見るようになった人である声聞syoumon・縁覚(独覚)は、
ものを無常・苦・無我・不浄と見えるor見るようになる。 これを< 二乗の四倒 >と
言います。
何故、これが 倒(顛倒tendou)と言われるかというと、涅槃は 常楽我浄であるのに、
<< 諸の煩悩無明に覆われるが為に、顛倒心を生じ、我に無我を計し、常に無常を計し、
浄に不浄を計し、楽に苦を計す。>> (涅槃経) ということになるからです。
** 読者の方で、この常楽我浄のわが有様や、現実に 或は教えによって その意識
が破られ、自分や周囲に 無常・苦・無我・不浄を見出す日常のさまを、そのblogに
描かれるとおもしろい記事になるのではないでしょうか?
それは我々の生身の生き様ですから。
そして、この 二種の四倒を克服した人を、「 菩薩bosatu 」と言います。
これは菩提薩埵を略したものです。 菩提bodaiとは、道or覚のこと。薩埵sattaとは、
心or衆生・有情uzyouのこと。
従って 大心衆生とか道衆生、 < 菩提を求めるの有情 >(法華玄賛)とか、
< 自利利他の大願を具足して、大菩提を求め、有情を利するが故に >(仏地論)
とか言われます。
仏法の目的は、勿論 教団を維持し発展させることにあるのではなく、一人一人の成仏
(仏になる)にあるわけですが、現実的には この菩薩を この地上に誕生せしめること
にあります。
ところで、
凡夫も二乗も菩薩も、人であります。 すなわち この世に生死syouziするものです。
しかし 彼らは、その生死の仕方(生き方・死に方)が違うので、このように別々の名前を
持つのです。
この生死の違いを、ふつう二種に別けます。分段bundan生死 と 変易hennyaku生死です。
< 三界(我らの世界)の粗なる異熟果、身命短長は因縁力に随って、定まれる斉限あり。
故に分段と名づく。 (乃至) 殊勝の細なる異熟果、悲願力に由って身命を改転し、
定まれる斉限なし。故に変易と名づく。(乃至) 妙用測り難ければ、不思議と名づく。
或は意生身と名づく、意願に随いて成就するが故に。(乃至)また変化身と名づく、
無漏定力 転じて 本に異ならしむること、変化hengeの如きなるが故に >
(成唯識論八)
凡夫と二乗は、分段生死。 阿羅漢・辟支仏・大力の菩薩は、変易生死( 阿羅漢arakan
は 声聞の、辟支仏byakusibutuは 縁覚の行き着く果 )。
どういうことか?
< 分段生死bundansyouzi >とは、自らの煩悩を縁として、善悪様々になした行為
(業)が それぞれの結果(果報kahou)を招来する(三界の粗の異熟果)。
たとえば、‘会いたくないな〜’と思う人と商談するために車で出かけ、‘会いたくない
・会いたくない ’で 運転して事故を起こし、足を一本失った。
ーーー‘会いたくない’は煩悩、‘車を運転する’は業、‘事故を起こし足を失う’
は果報。命は失わなかったが、それは偶々のこと。この果報は、因縁により決定される。
もし、相手の車が 一秒の何分の一か ブレーキを遅く踏んでいたら 命がなかった
であろう。 相手の人は、昨晩 友人たちとハシゴをしていたが、怖い妻の顔を偶々
思い出して、少し いつもより早く帰り、二日酔いを免れていたのだった・・・・。
このように 私の生き死には勿論、あらゆることは、因縁に決定されている( 因縁力に
随って、定まれる斉限あり )。 わが身の果報は、縁に随い様々となる。様々
( 分分段段 )に生死するのである。
< 変易生死hennyakusyouzi > とは、知るべきものが正しく知れないこと(所知障
syotisyou)を縁として、三界の外から如来の悲願力によって 回心esinし、生まれ変
わった自己(殊勝の細の異熟果)をもって(〜悲願力に由って身命を改転し)、再び
この三界に来たって衆生済度の行を修めて、仏になる。
彼or彼女は、すでに 分段生死を乗り越えており、因縁によって 自己の生死を決定
されることはない。 彼or彼女の生死の概念が、全く違うものとなっているのである。
今、生きようが死のうが、そんなことは 少しも問題にならない(定まれる斉限なし)。
限りなく この世の中に入っていって、そこに生き悩んでいる衆生の現実を知ろうとし、
その者に寄り添い、その者の腕に己の肩をさし入れて支え、その者の真の救いを成就せん
とすることが、彼or彼女の生命となっているのです。
菩薩の願いは、ただ1つ。
――――― 一切の衆生を真に救うこと。
この世に一人でも一匹でも、救れていないものがあれば、自分は仏にならない。
――――― これを、菩薩の誓願(seigan 誓いと願い)と言います。
義記に戻ります。
論の「常」と「恒」を、義記は 常と楽とする。
そして、「 変易の苦を離れるを以っての故なり 」と言っています。
変易の苦とは、菩薩の苦ということ。わが身のことは 差し置いて、利他の行を その生命
とする者の苦とは、個人的な苦ではなかろう。
維摩経には、
<< 一切の衆生 病むを以moって 是の故に われ病む。 もし、一切衆生の病 滅す
れば、わが病滅す。 所以yuenは何iかん。 菩薩は、衆生のための故に、生死に入る。
生死あれば、病あり。もし、衆生 病を離れることを得れば、すなわち 菩薩また病無し。
たとえば、長者tyouzyaに、ただ一子あり。その子病を得れば、父母また病む。
もし、子の病癒iえれば、父母また癒iゆ。
菩薩もかくの如し。諸の衆生において、これを愛すること 子の如し。衆生 病めば、
菩薩 病む。衆生の病癒えれば、菩薩また癒ゆ。
また言う。この疾は、いづれの因より起こるや。菩薩の病は、大悲より起こる。>>
とあります。
実に、菩薩の苦は、痛々しい。
もし 私が、この菩薩を病に陥らせて苦しめていたとすれば、どうでしょうか?
ところで、義記は、
真如の不空たる「常恒」の徳は、この菩薩の苦を離れているから、常楽である。と。
また、「不変」を 我徳だと言うのは、「 業の所繋に非ず、自在 」であるからだ、
と言っています。
< 業の所繋 >とは、所知障のことでしょう。
これは、実際 菩薩として自分が仰ぐ よき人に出会い、親しく接して教えを受けていくと、
この意味することが、始めて痛切に解るのであろう。
真如の不空は、人を その師に従属せしめず、或は、その師の行状を見て 不信感を持ち
仏教それ自体に対する絶望を引き起こすことをせしめないものだ と言っているのであろう。
或は、また 求道者が、自らのお粗末さに絶望して、行き場を失わしめず、彼or彼女に
真の独立を保証するものだ、と言うことであろう。それが、我徳だ、と。 合掌
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