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( 不空の第三句 )
〜〜〜「 亦 無有相可取 以離念境界 唯証相応故 」〜〜〜
(また、相の取るべきもの有ること無し。離念の境界は、ただ証とのみ相応するが故なり。)
海東疏は、「空と不空とは、二の差別なきことを明かす。不空というと雖も、しかも相有ること無し。この故に、不空は、空に異ならず。 分別所縁の境界を離れて、ただ無分別の所証と相応するを以っての故なり。」と。
義記は、「惑者、‘ 浄法は空ならず ’と聞きて、則ち 情執の有uに同じと謂omoわん。故に釈して云く。{ 無有相可取 }と。これ則ち、不空は 空に異ならず。 { 以離念境界 }等と言うは、無相の所以yuenを釈するなり。もし、妄念の所縁は、これ則ち、有相なり。既に、ただ真智の境なり。明らかに知りぬ。妄執の相無きなり。真如門を釈し竟owaんぬ。」と。
「 真心 」(まことのこころ)というものは、以上述べて来たように、私からすると、何重にも大変込み入っているものです。
しかし、もし誰かが、真心を、‘それはこういうものだ’と語っても、そう簡単に信じてはいけません。それを簡単に信じたばかりに、昔から今日まで 何と多くの悲喜劇が、この地上に巻き起こってきたことでしょう。
義記が言う「惑者」(惑っている者)とは、他人のことではありません。‘自分は、もう真理を悟ったから、惑者でない’という人があったら、それをよくよく吟味してみなければなりません。その者が、人間である以上、たとえ一宗の開祖であろうと例外ではないのです。釈尊にしろ、イエスにしろ、ムハンマドにしろ、別格ではありません。
私の弱点は、権威とか伝統とか世の多勢に、すぐ流されて自分の思考と主体性を捨ててしまうことです。自らと世界に対する責任を、放棄して、それを他に移譲してしまうことです。
< 先師のことば >には、「 堕落 」とありました。
「 真心 」は、誰の心か? ‘自分は、真心を悟った’という人の真心か? それとも・・・・。
ーーーーーーーけれども、いくら他人が真心を語っても、或は 私が真心を語っても、私自身が それを明らかに分っていなければ、何にもなりません。
時間に余裕のある人は、いくらでも暇つぶしに、哲学論争をしたり、真実の御旗を掲げて宗教戦争や宗教組織の拡大やをすればよい。
しかし、それらは、みな人生空過ではないのか?! 人は、たいてい100年の寿命を保つことも難しい存在である。しかも、この真心というものは、我々には、たいへん込み入ったものである。 仏教では、その困難さを、‘三大阿僧祇劫を経て仏になる’とも言います。(後に、起信論の「証発心」を語るところに、この事は出てきます)
したがって、皆 我々は、一人一人で、寸暇を惜しんで、この真心を吟味しなければなりません。
自己の勢力を張ったり、出世して地位や名誉を得たり、物質的な富を得たり、戦争をしたり、向こう三軒両隣りの上げ下げに日を過ごしたり、面子にこだわる言動をしたり、好奇心に駆られて科学研究をしたり、異性の尻を追っかけたり・・・・、そんなことをする暇はないはずなのである。
** 三大阿僧祇劫sandai/asougi/kou
劫とは、長い時間の単位。1劫とは、40里四方の岩に、3年に一度、天女が舞い降り、その羽衣で
一払いして、また天に帰る。こうして、その大岩が摩滅してしまうまでの時間を、1小劫という。
1中劫とは、80里、 1大劫とは、120里四方の岩に天女が舞い降りる。
阿僧祇とは、無数という意味。
吟味するということは、権威や伝統に阿omoneることでも、それに非難・反抗することでもありません。
また、たとえ釈尊であろうと、イエスであろうと、ムハンマドであろうと、その言う「真実」が本当の「真実」かどうかを吟味するのに、我々が科学的真実を科学者の頭脳に頼るように、彼らの言に頼ってはいけません。
自分自身で、はっきり真実が分らねば、彼等の言う真実は、何の意味もありません。
したがって、その真実を吟味するということは、私の全存在をかけた、孤独な営みであります。
義記が言う「 惑者 」とは、私のことであります。
このことが、私の骨の随まで、分ること。「情執の有」・「妄執の相」を 木っ端微塵に打ち砕かれること。
ーーーーーこうして始めて、「離念の境界」が、私に開示される。
それは、私の知性や感性に開示されるのではない! 知性や感性を破って、私の全存在が、真実の前に暴露される。
それを、「ただ、証とのみ、相応する」と言われるのであろう。「真智(真実の知恵)の境なり」と。
***したがって、真智〜真実の知恵とは、ふつうに言われる 我々人間の知恵とは違うものです。
人間の知恵は、妄念の知恵。
たとえ科学の知であろうとそうである。豊臣秀吉や徳川家康の政治的知恵もまたそうである。
ーーーーここの処を、仏教者は、昔からいい加減に扱ってきたのではないでしょうか?
ある人は、「人間の分別は、清浄で真実なものを、いつも踏みにじって行くものである。」と。
以上で 心真如門を終えます。
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