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「三者 法出離鏡 謂不空法。出煩悩碍・智碍 離和合相 淳浄明故。」
( 三つには、法出離鏡にして、不空の法を謂う。
煩悩碍と智碍を出で、和合相を離れて、淳と浄と明となるが故なり。)
義記は、
「{ 法出離 }と言うは、謂iwaく、真如の法は 二障を出iで 和合を離る。
故に{出離}と云う。
前は、在纏tenの性浄不空如来蔵なり。今は、不空の出纏離垢の法身を明かすなり。
宝性論に云うが如し。
< 二浄あり。 一には、自性浄。同相を以っての故に。 二には、離垢浄。
勝相を以っての故に。>
{ 不空法 }とは、法体hottaiを出だすなり。謂く、即ち 前の因薫なり。
{ 出煩悩 }等とは、粗細の染心を、{煩悩碍}と名づけ、 所依の無明を、{智碍}
と名づく。
{ 離和合 }等とは、浄心 障を出でて、業識gossiki等の和合を破すなり。
和合の雑相を離れるが故に 淳と名づけ、惑染無きが故に 浄と名づけ、無明を出るが故に
明と名づく。 謂く、大智慧光明等の故に、{ 淳浄明 }と云うなり。」と。
これは、本覚真如の法体である。
「 本覚の体は、妄染の法に纏matoわれているときも、その本性は決して染汚せられず、
因縁によって始覚の智を起こし、二障(煩悩碍・智碍)すなわち、三細・六粗などの障碍
syougeと 煩悩の所依たる根本無明の智碍と、本来一切の纏縛tenbakuを出離し、本覚の
性浄心は障碍を出でて、業識すなわち阿梨耶識ariyasikiの覚・不覚の和合を破って離脱
する時、そこに本覚の淳浄明なる徳相を顕現し、離垢法身の体を全現するのである。(乃至)
これ、法出離鏡と名づけられる 本覚の絶対的風光である。本覚自然ginenの大用taiyuuで
あって、衆生の穢心esinが 何物をも加えざる全くの絶対他力である。」
と先師は釈しています。
** 三細・六粗:この「性浄本覚」の節のすぐ後に 「不覚」が論ぜられ、そこに、
これが詳細に語られます。
「 四者 縁薫習鏡 謂依法出離故 遍照衆生之心 令修善根 随念示現故 」
( 四つには、縁薫習鏡なり。謂く、法出離に依るが故に 遍く衆生の心を照らして、
善根を修せしめ、念に随って示現するが故なり。)
海東疏は、
「{ 依法出離故 遍照衆生心 }と言うは、即ち かの本覚顕現の時、等しく
物の機を照らして、万化を示現す。これを以っての故に、{ 随念示現 }と言う。」
と。
先には、{因薫習}と言い、今は、{縁薫習}と言う。これは、
「 先の{因薫習}が、本覚の対内的・対自的であるのに対し、これは 本覚の対外的・
対他的に如何なるものであるかを示すものである。 因薫習は、自の内因であったのに
対して、縁薫習は衆生の為の外縁である。」
と先師は言う。
さらに、前の{随染本覚}に説く{不思議業相}と良く似ているが、
それと この{縁薫習鏡}とどう違うのか? ――― という問いを 海東疏は出して、
「 彼は 応身始覚の業を明かし、これは 本覚法身の用を顕す。
一化を起こすに随って、この二義あり。
総じて説くこと然りと雖も、中において分別せば、もし始覚所起の門を論ぜば、随縁
相属して しかも利益を得。その根本随染本覚に由って、従来相関るに親疎あるが故に。
その本覚所顕の門を論ぜば、普く機熟を益して、相属を簡ばず。その本来性浄本覚に
由りて等しく一切に通じて親疎無きが故に。」と。
義記は、
「 前の随染の中の{智浄}とこの{法出離}とは、何の別かある。
また前の{業用(不思議業相)}とこの{縁薫}とは、何の別かある。」と問い、
答えて曰く、
「 前は、随染に約するが故に、還浄を説いて智と為す。即ち、彼の智用ともに始覚に
就いて説くことを明かす。これは、自性に約するが故に、障を離れ法体を顕す。即ち、
この法用ともに法体に就きて明かす。
この故に、前には 智と云い、これには 法と云い、 前には 業と云い、これには
縁と云うなり。
然るに、法と智と殊なりと雖も、体に差別無し。始覚即ち本覚なるが故なり。ただ今は、
義に就いて開説す。故に境智の不同あるなり。」と。
すなわち、前の「随染本覚」とこの「性浄本覚」とは、どう違うのか?
という疑問なのであります。
この二つの本覚が説かれているが、「 本覚に二つあるのではない。すなわち随染本覚は
生死妄染と本覚とを待望的関係において、本覚の性浄を開顕し、
性浄本覚は 別に何物にも待望することなく、それ自体の体相についてその自性清浄と
その妙用myou/yuuとを光闡senせるものである。
(乃至)
随染本覚は妄染不覚に中心をおいて本覚を説かれ、 性浄本覚は 本覚自体の上に立って
立論されてあった。 」(先師)と。
以上で、阿梨耶識の中の、本覚の義を終わる。次回は、不覚の論述に移る。
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