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( 体用合説 )
此体用薫習分別 復有二種 云何為二
一者 未相応 謂凡夫二乗初発意菩薩等
以意・意識薫習 依信力故 而能修行
未得無分別心 與体相応故
未得自在業修行 與用相応故
二者 已相応 謂法身菩薩 得無分別心
與諸仏智用相応 唯依法力 自然修行
薫習真如 滅無明故
( 染浄尽不尽 )
復次 染法 従無始已来 薫習不断
乃至 得仏後 則有断
浄法薫習 則無有断 尽於未来 此義云何
以真如法 常薫習故 妄心則滅 法身顕現
起用薫習故 無有断。
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この体と用yuuとの薫習を分別すれば、また 二種あり。云何ikanが、二と為na。
一つには、未相応なり。 謂iwaく、凡夫・二乗・初発意hatuboti菩薩等は、意と意識と薫習するを以って、信力に依るが故に、しかも、能yoく 修行するも、未だ 無分別心は 体と相応するを得ざるが故に、未だ 自在業の修行は 用と相応することを得ざるが故なり。
二つには、已i相応なり。 謂く、法身の菩薩は、無分別心を得て、諸仏の智と用yuとに相応し、唯taだ 法力に依るのみにして、自然zinen修行し 真如に薫習して 無明を滅するが故なり。
また次に、染法は、無始より以来 薫習して断ぜず。乃至naisi 仏を得たる後 則ち断あり。
浄法薫習は、則ち 断あること無し。未来を尽くす。この義 云何ん。 真如の法は 常に薫習するを以っての故なり。妄心にして 則ち滅すれば、法身顕現し 用薫習を起すが故に、断あること無し。
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( 体用合説 )
海東疏は、「 合して、体用を釈す。」
義記は、「 人に約して、合して釈す。」
と言う。
義記は、
「 釈の中に、また 二あり。 先に 未相応を明かして、中に 三あり。
初に 位に約して人を挙げ、 次に 行の劣を弁じ、 後に 未相応を明かす。
行の中に、凡小の意識薫と菩薩の五意薫とは、並びに 未だ真如に契わざるが故に、{ 依信修行 }と云う
なり。 未相応の中に、二あり。 初に、{ 未得無分別心與体相応 }と言うは、正体智 無きが故に、未だ
法身と相応せざるを明かす。 後に、証真の後得智 無きを以っての故に、未だ 応化身の用と相応せざる
なり。」と。
また、
「 第二に、已相応の中に、また 三あり。 先に 人位を顕す。謂く、地上の菩薩なり。
次に 正しく相応を弁ず。{ 得無分別心 }とは、謂く、如理智 体と相応す。{ 與仏智用相応 }とは、
謂く、如量智あるを以っての故に 然ることを得るなり。
後に その行の勝ぐるを明かす。初地以上は、真如の法を証して 修行す。 前位の ただ信力あるが如き
には非らず。故に{ 依法力 }と云うなり。 { 自然修行 }とは、八地已去 無功用の行なり。
真に薫じて 妄を滅し、行 成ずることを顕すなり。
浄法薫を明かし竟んぬ。 上来、初は 別して明かし、次は 合釈す。」と。
( 染浄尽不尽 )
義記は、
「 中に於いて、二あり。 初に 染法 真に違し、始なく終あることを明かし、後に 浄法 理に順ずるに
始ありて終なきことを明かす。 浄法の中に、二あり。 初に 正しく顕し、後に 釈成す。
釈成の中に、真に薫じ 妄を滅して 浄用 尽くること無きを以っての故なり。文処に見るべし。
上来は、生滅門の中の 能く義を顕すの法を釈し竟んぬ。」と。
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