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若行若住若坐若臥若起 皆応止観倶行
所謂 雖念諸法自性不生
而復即 念因縁和合 善悪之業苦楽等報 不失不壊
雖念因縁善悪業報 而亦即 念性不可得
若修止者 対治凡夫住著世間 能捨二乗怯弱之見
若修観者 対治二乗不起大悲狭劣心過
遠離凡夫不修善根
以是義故 是止観二門 共相助成不相捨離
若止観不具 則無能入菩提之道
ーーーーーーーーーーーーーー(よみかた)ーー止観門 観3ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
もしは行 もしは住 もしは坐 もしは臥 もしは起、 皆miな 応masaに 止観 倶toもに行ずべし。
いわゆる、諸法の自性jisyouは 不生なりと念ずと雖iedoも、しかも復maた すなわち 因縁和合して 善悪の業・苦楽等の報は 失せず 壊eせずと念ず。 因縁善悪の業報を念ずと雖も、しかも亦maた すなわち 性syouは不可得なりと念ず。
もし、止を修すれば、凡夫の世間に住著するを対治し、能yoく 二乗の怯弱の見を捨てしむ。
もし、観を修すれば、二乗の 大悲を起さざる 狭劣心の過togaを対治し、凡夫の 善根を修せざるを遠離す。
この義を以moっての故に、この止観二門は 共tomoに相aい助成して 相aい捨離syariせず。
もし、止観 具せざれば、すなわち 能く菩提の道に入ること無し。
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義記は、
「 自下は 第三に 双運を明かす とは、 上来は 始習 未だ淳からざるが故に、動静別修し、
今は 定慧 修成するが故に、能く 双運す。
中において 三あり。 初に 総じて標し、 次に 別して弁じ、 後に 総結す。
別の中に 二あり。 初に 法に約して 倶を明かし、 後に 障に対して 倶を明かす。
前の中に 二あり。 初は 止に即するの観、 後は 観に即するの止なり。
前の中に、{ 自性無生 }とは、非有の義に約して 以moって 止を明かすなり。
{ 業果不失 }とは、非無の義に約して 以って 観を明かすなり。 この二、不二の故に{即}と云うなり。
これ 真際を動ぜずして 諸法を建立するに順ず。良makotoに 非有は 即ち これ非無なるを以っての故に、
能yoく 止を捨てずして 観を修す。
次に { 雖念因縁即性不可得 }と言うは、 観に即するの止を明かす。 これは 仮名を壊せずして
諸法実相を説くに順ず。 非無 即ち これ非有なるを 以っての故に、能く 観を捨てずして 止を修す。
これは、説く時 前後あり。しかるに、行心にありては 鎔融して 不二なり。不二の性は、即ち これ実性なり。
理味 これにあり。宜yoroしく これを思うべし。
第二に 対障の中に、初に{修止}は 二過を治す。謂く、正しく 凡夫の人法二執 世間を貪楽するを治し、
兼ては 二乗の五陰の法に執し 苦を見て 怖を生ずるを治す。止門無生をもって これらの執を除くなり。
次に{ 修観 }とは、また 二過を治す。謂く、正しく 二乗狭劣の心を治し 普く衆生を観じて 大悲を
起さしめ、兼ねて 凡夫懈怠の心を治し、無常を観ぜしめて 善行を修することを策す。
第三に 結の中に { 助成 }等と言うは、凡夫の人 世間を楽わざるに非らざるが如きは、もって善行を
勤修することなし。 二乗の人に約すれば 生死を怖れざるには非らず。 もって大悲を起すことなし。
この故に、二行 相い離れざるなり。
{若止観不具不能人菩提道}と言うは、止観 相い須いること 鳥の両翼 車の二輪の如し。二輪具せざれば、
則ち 運載の功なく、一翼 もし欠くれば 則ち 凌虚の勢いなし。故に { 不具則不能入 }と云うなり。」
先師は、
「● 止観の行は 別々に 単独で 行ずべきにあらず。 行住坐臥、いかなる時 いかなる所、すべて 共に
並べ 行ぜらるべきである。 以下に その倶行双運の方法を説く。
まづ、止に即するの観 ( 即止之観 )を明かす。
真如門的立場より ‘諸法の自性は 不生不滅なり’ と 止を念ずといえども、しかもまた 諸の因縁和合
して成ぜる 善悪の業 や 苦楽の果報等は、失うなく 破壊するなく 一切衆生は みな これに纏縛せられて
いると生滅心的立場より観を行ずるのである。
以上は 止に即するの観であって、 現実諸法の観察は 囚われたる我見によってなされず、止における
真如三昧の光によって 照破されて 成就するのである。
次に、< 即観之止 > を明かす。 因縁和合・善悪の業報を観ずといえども、しかも かくの如き
生滅差別の法は 自性なく 本来 不生不滅にして 不可得なりと 止を念ずるのである。
● 止を修して 二過を治することを 明かす。
凡夫は、人我及び法我 の見を起して 人法無我を知らず。この故に 世間に執着するものであるが、
止を行ずれば 真如三昧に入って 唯心無自性を 知らしむるが故に、二見の楽着を対治す。
また、二乗は、生死を厭い これを恐れるが故に 怯劣心を生じ 灰身滅智を楽うものであるが、
止を修すれば 真如三昧の光によって 生死の不生を悟り 生死即涅槃の理に達するが故に 生死を怖畏
する怯弱の見を捨離することができる。
以上、止門の無生観によって この過失の対治を説いたものである。
○ 次に、観を修して 二過を対治することを明かす。
二乗は 利他心なく 大悲心なき 狭劣なるものである。 もし、観を修すれば 前に説かれたごとく
大慈大悲の観を生ずるが故に、この二乗の狭劣心を対治することをができる。
また、凡夫は 世間に執着するが故に、解脱の自利成就を求めるものである。 もし、観を修すれば
無常等を観じ 懈怠心を出て 解脱を楽い、諸の善根を修するに至るが故に、観は 諸の懈怠心を対治
するものである。
● 以上の義あるが故に、止観二門は ともに あい助成して あい捨離せざるものである。
もし、止観の行が 具備せざれば、自利利他円満の 無上菩提心に入ることはできない。」と。
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