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「 ものは すべて、相対・有限なものである。 」
という命題の真偽について、すこし お遊びで 考えてみたいと思います
この命題は、真でしょうか 偽でしょうか? ――― どう思われるでしょうか?
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( お屠蘇を飲みながら、記事を書いています。
元来 アルコールは 強くないのですが、それでも アルコールなしで、一日を終えることは
できない私です。
もちろん 中毒ではありません。 一日の疲れを 少量のアルコールで癒すのです。
で、このお屠蘇は、 すでに 私の中枢神経を麻痺させ 心地よい気分で PCに向っています。)
「 ものは すべて、相対・有限なものである。 」 という言葉(命題)は、
これを 私が言った場合には、実に 奇妙な事態に陥ります。
これは、恐らく 私が酔って目が回っているためではないと思うのですが・・・。
何故なら、この命題or世界に対する認識が 真である とすると、
これも 一つの <もの> ですから、これも相対・有限なもの ということになるでしょう。
つまり、この命題or認識も 永遠で絶対的なものではなく、やがて 移ろいゆくものということ
になります。
しかし、もし そうだとすると、
又しても この命題or認識は 真実を語っているもの・真の命題or認識だということになります。
すると また、この命題も 一つの <もの> ですから、・・・・。
真は 偽となり、それ故に また真となり、すると また偽となり・・・。
このように、無限循環に 私は 陥ってしまいます。
では、この命題は 始めっから 偽なのでしょうか?
「 諸行無常 」 という仏教のテーゼは、 まさしく この「 ものは すべて、相対・有限な
ものである。 」なのですが・・・。
釈尊は、 はたして ウソを語ったのでしょうか?
「 諸行無常 」とは、間違った言葉なのでしょうか? ここに、今日の我々の 言葉に対する
常識は、実は 大きなデッド・ロックに乗り上げているのです。
この世俗文明の中にある我々は、 言葉というものは 我々人間が発する言葉であり
それ以外の言葉があるとは認めません。 言葉は、我々の 知性と感情と意志の為すものであり
それ以外のものではないわけです。
そして、ここでは 上の釈尊の言葉「 諸行無常 」は、 自己矛盾のものであり 我々には
理解不能の言葉となります。 では、これは どういうことなのでしょうか?
我々の 言葉に対する考え方が 正しいのか? あるいは、釈尊が 正しいのか?
―――― はて、どうでしょうか? どう考えたら よいのでしょうか?
( 酔いで ロレツが回らなくなりました )
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( お屠蘇の酔いは もう 醒めましたので、もう少し 考えます )
今日の論理学は、近代西欧のものであり、その言葉に対する考え方は たいへん精密では
あっても バイアスが 掛かっています。
すなわち、これは 人間知性で把握できるものしか、言葉の真理性を認めないのです。
しかし、昔 言葉に対するインドの見方(ie.論理学)には、
「 聖語 」というものがありました。 すなわち 言葉には、ただ 人間が喋るものだけではなく、
我々の認識能力を超えた絶対者の語った 聖なる言葉がある と言いました。
こうした 人間の認識能力を超えたものに対して、近代西欧の思考は 警戒的・禁欲的で、
これを その思惟の中から 「 疑しいもの・不確かなもの 」として排除することで 自己と世界
を知ろうと試みてきました。
このため、上のような言葉の矛盾に 我々は 困惑しなくてはならなくなりました。
釈尊の言葉である「 諸行無常 」も、我々現代人は これを 釈尊の意の如くには 十分に
理解できないということになっています。
実は、この 「 ものは すべて、相対・有限なものである 」、 すなわち 「 諸行無常 」
という言葉は、人間の語った言葉ではないのです。
これは、雪山童子が わが身を食わせることで 羅刹から聞き得た言葉で、
諸行無常 是生滅法 生滅滅已 寂滅為楽 (涅槃経)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AB%B8%E8%A1%8C%E7%84%A1%E5%B8%B8
の 四句のなかの 一句なのです。
すなわち、これは 雪山童子(ヒマラヤ山ー雪山ーで 修行していた若者)が、自分で考え
出した言葉ではなく、自身の命と引き換えに 羅刹から聞いた言葉であったわけです。
このように、仏教の言葉は みな 世俗(我々人間)の言葉ではなく、仏の語った言葉だ
というのが、昔からの約束事であったのです。 それは 人間知性に語りかけたものではなく、
人間の実存に語りかけた言葉です。
我々は ‘ 仏教は 宗教的であるよりは 哲学的だ ’ とかと よく言いますが、それは
西欧の宗教観から そう言うのであって 本来の仏教ではありませんし、こういう考えでは
仏教は 永遠に分からないでしょう。
深い迷いの中にあって しかも そのことを知らない我々を 目覚めさせるために、仏が
そうした我々に語りかけた言葉です。
すなわち 仏の智慧から出た言葉ですから、迷妄にある我々の言葉ではないのです。
このように、論理学が いやしくも 真実を 知ろうor明らかにしようとするなら、西欧の如く
「聖語」 というものを、その思考体系から排除しては、
結局 その自己矛盾を 如何に誤魔化すか? ということになります。
ここに、真実というものに対する 近代西欧の思考の限界を、我々は 見出すべき時機に
もはや来ているのではないでしょうか?
人間知性は、世俗的な事柄に対しては 大変 有効に働きました。しかし、人間は これに
納まるものではないということは、すでに 19C西欧で 実存哲学と一般に言われる思潮において
次第に自覚されて来ていました。
しかし、こんなことは 仏教では 当り前のことで、我々日本人が 卑下して 彼らから学ぶべき
ものではなく、逆に、彼ら西欧人たちが 仏教から 頭を下げて学ぶべきものであったでしょう。
(おわり)
★ 「 六ヶ所再処理工場を動かさない 」 http://blogs.yahoo.co.jp/kyomutekisonzairon/45054771.html
〜原子力資料情報室(CNIC)より
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