|
〜〜〜〜 河内にて (1)
〜〜〜〜
ここで 再び、 文明7(1475)吉崎を退去した 61歳の蓮如の言動に、
目を向け 耳を傾けていきたいと思います。
〜〜〜〜〜
この年の6月には、近畿諸国は大風雨・洪水に見舞われ、「前代未聞の珍事」と言われ、
秋にも 再度 大風雨がありました。 恐らく 巨大な台風に襲われたのでしょうか?
被害の模様は、当時の誰かの日記に残されているはずですが、私には知る由もありません。
「 去(さる)文明七年乙末 八月下旬の比(ころ)、予(よ) 生年六十一にして 越前国坂北部
・細呂宜郷の内吉久名の内、吉崎の弊坊を 俄(にわか)に便船の次(ついで)を悦びて
海路はるかに順風をまねき 一日がけにと志して、若狭の小浜に舟をよせ、丹波づたいに
摂津の国を通り… 文明九年 」(御文章)
8月21日、蓮如は 船(どのような船だったのでしょう?)で 吉崎から、日本海に出て
若狭湾に入り、 今日 関西電力の大飯原子力発電所がある半島を 右手に見ながら
小浜湾の奥・小浜に「 船を寄せ 」、 ここに 100日逗留した後、
「 丹波の嶮岨を通りつつ摂津国へ出でたまい、それより 河内の国・茨田の郡中 振の郷
出口の里という処に至りたまい、幽栖を卜したまう事すでに三年なりき」 『遺徳記』
と、小浜より 槙渓を通り 知井坂を越えて 丹波路を南下、
淀川沿いの 出口(現 枚方市)で、 この年の 『報恩講』 を勤修します。
@ 報恩講 : 浄土真宗の開祖である親鸞聖人(1173〜1262)に対する報恩謝徳の
為に 営まれる法要行事
本願寺3世覚如が、親鸞の三十三回忌に『報恩講私記』を撰述した事が起源とされる
浄土真宗の僧侶・門徒にとっては、年中行事の中でも ...
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%B1%E6%81%A9%E8%AC%9B
蓮如が 北陸を退去した理由は、朝倉氏らの吉崎襲撃から 命からがら逃れたという以外は、
私には 想像するしかありませんが、 その後の彼の言動を見れば、北陸教化を断念したり
自らの事業に 挫折感を懐いているようには 全く見えないどころか、さらに大きな規模で
その後の活動が為されて行くということは 驚くべきことです。
出口での報恩講に 人々の参集を呼びかける お手紙は、従来と同じ緊迫感をもっています。
「 そもそも 今月28日は、開山聖人(親鸞)御正忌gosyoukiとして 毎年不欠に かの
知恩報徳の御仏事on-においては、あらゆる国郡 その他いかなる卑劣の輩yakaraまでも
その御恩goonを知らざる者は、まことに 木石に異ならんものか。
これについて 愚老 この4・5カ年の間は、何となく 北陸の山海の片辺に居住すと雖も、
はからざるに 今に存命せしめ この当国に越え、はじめて 今年 聖人御正忌の報恩講に
遇いたてまつる条、 まことにもて不可思議の宿縁 よろこびても なお喜ぶべきものか。
しかれば、自国他国より 来集の諸人において、まず開山聖人の定めおかれし御掟の旨を
よく存知すべし。 その御言に曰く、
< たとい 牛盗人とは 呼ばるとも、仏法者・後世者と見ゆるように 振舞うべからず >
又、 < 外には 仁義礼智信 を守りて、内心には 深く本願他力の信心を本とすべき >
よしを、懇ろに仰せ 定めおかれしところに、近代この頃の人の 仏法知り顔の為体teitaraku
を見及ぶに、 外相には 仏法を信ずる由を 人に見えて、内心には 更にもて 当流安心
anjinの一途を 決定ketujyouせしめたる分なくして、
あまつさえ相伝もせざる聖教を わが身の字力をもて これを読みて、知らぬエセ法門を
言いて 自他の門徒中を経回して 虚言を構え、結句 本寺よりの成敗と号して、人を誑かし
物をとりて 当流の一義を汚す条、真実々々浅ましき次第にあらずや。
これによりて、今月28日の御正忌七日の 報恩講中において、悪き心中のとおりを改悔
懺悔sangeして おのおの正義syougiに赴かずば、 たとい この七日の報恩講中において
足手を運び 人真似maneばかりに 報恩謝徳のためと号すとも、さらにもて 何の所詮も
あるべからざるものなり。
されば、弥陀願力の信心を 獲得gyakutokuせしめたらん人の上においてこそ、仏恩報尽とも
また師徳報謝なんどとも申すことはあるべけれ。
この道理を よくよく心得て足手をも運び、聖人をも重んじたてまつらん人こそ、真実に
冥慮myouryoにもあいかない、 また別しては 当月御正忌の報恩謝徳の懇志にも 深く
あいそなわりつべきものなり。 あなかしこ あなかしこ 」
(文明7 11月21日)
しかし、ここには 微妙な変化が、お手紙の内容に 生じています。
北陸吉崎での課題を踏まえつつ、それとは異なった問題に遭遇していることが観取されます。
このことについて、 少し考えてみたいと思います。
当時のことを、
後に光善寺となる出口の一宇の草庵は 淀川河畔の葦原を埋め立てたものである。
京街道の出口であり、淀川の水運において交通の要所。 又 淀川を挾んで出口と隣接し、
交通の要所である富田でも 後の教行寺となる坊舎を建立した。
吉崎から出口へ移動する3カ月の間、さらに出口、富田、溝咋での滞在期間中に、蓮如の
教化活動は他国にも及んだ。この時期から、播州地方へも蓮如に接触し帰依した在家信者
の一部が、先導的な伝道を散発的に開始したものと思われる。
と、ある説明書にはあります。
ここ 河内国の守護は 管領・畠山氏で、
1467 応仁の乱の発端となった <上御霊社の戦い>は、家督争いをする畠山政長(まさなが
1442〜93) と 同義就(よしなり 1437?〜90)、両者の戦闘でした。
そして、文明5(1473) 宗全・勝元が相次いで没し、京周辺での争いが終息に向かうなか、
両畠山氏の内訌は継続し、‘77 9月 河内国の大半は 義就が支配することになりますが、
両者の争いは その後も続きます。
参考:「 中世から近世にかけての大和 」
なお11年間で応仁の乱は終息する。 しかし、畠山氏の内訌はおさまることなく、
大和国内もその余波で 政長派、義就派に分かれて争いが続いた。
筒井氏は 当主の順永や筒井氏を長年支えた光宣の相次ぐ死で威勢が落ちたため
没落し、義就が河内をおさえたことも ...
http://homepage1.nifty.com/rekisi/tokushu/yamasen/yamasen8.htm
こうした中に、わが蓮如は 数珠と聖経だけをもって 丸腰で やって来たのでした。
( この蓮如は、勿論 『年金』も『健康保険』も 加入してはいませんでしたし、
国のセーフティーネットを期待できる状況にはなかったのです。
蓮如だけではなく、当時の人々は みな そうでした。 )
(つづく)
|