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〜〜〜〜 河内にて(3)
文明7年(1475)吉崎を退去して、淀川河畔の 出口 に居を定めた 蓮如は、この年の報恩講を
ここで 営みます。 http://blogs.yahoo.co.jp/kyomutekisonzairon/53748988.html
この報恩講には、どのような人々が 参集したのでしょうか? また、その参集した人数は
どれくらいだったのでしょうか?
これを知る資料を 私は持ていませんので よく分りませんが、
この報恩講への参集を呼びかけた お手紙から、それが 幾分 察せられます。
「 近代この頃の人の 仏法知り顔の為体teitarakuを見及ぶに、外相には 仏法を信ずる由を
人に見えて、内心には 更にもて 当流安心anjinの一途を 決定ketujyouせしめたる分なく
して、 あまつさえ相伝もせざる聖教を わが身の字力をもて これを読みて、知らぬ
エセ法門を言いて 自他の門徒中を経回して 虚言を構え、結句 本寺よりの成敗と号して、
人を誑かし 物をとりて 当流の一義を汚す条、真実々々浅ましき次第にあらずや。・・・ 」
ここに、「 近代この頃の人の 仏法知り顔の為体 ・・・ 」 とありますが、これは、当時の
各宗の仏教者一般のことではありません。 他宗派のことを言っているのではなく、彼の教化を
受けたor受けたと自称する人々を見て、 蓮如は こう言っているわけです。
しかし、よく考えてみると、こうした 「仏法知り顔の為体」「エセ法門を言いて」
「虚言を構え」「人を誑かし 物をとりて」「当流の一義を汚す」etc.といった言葉を
書き連ねて 罵倒し 叱りつけた人を、 この報恩講に参集させることが、 果して
できるものでしょうか?
ふつうの感覚では、めでたい言葉を書き連ね 人々を褒め上げ、或は ‘参集せねば
地獄に堕ちるぞ’と恫喝する といったことを しそうですが、 案に相違して
蓮如は 激しい口調で 人々を叱りつけて、 参集を促しています。
これだけ言われたら、今日の人は 誰も 彼のもとに足を運ぼうとはしないのではない
でしょうか?
それにしても、
今まで 身を挺して 琵琶湖畔や北陸で教化をしてきた 蓮如には、この河内での具体的な
教化は 初めてだったはずです。 ここに来て まだ一年も経たないのに、そんなに人が 集まる
ものでしょうか?
このお手紙の 書き出し には、
「 毎年不欠に かの知恩報徳の御仏事on-においては、あらゆる国郡 その他 いかなる
卑劣の輩yakaraまでも その御恩goonを知らざる者は、まことに 木石に異ならんものか。」
とあります。
「あらゆる国郡 その他 いかなる卑劣の輩」に、すでに 親鸞聖人の報恩講は 知られている
とは、驚きです。 これは、人に 威を見せるための 蓮如の 誇大な言なのでしょうか?
しかし、これは 必ずしも そうではないようです。
何故なら、このお手紙が 年末の報恩講に参集を呼びかけている人々は、
< たとい 牛盗人とは 呼ばるとも、仏法者・後世者と見ゆるように 振舞うべからず >
又、 < 外には 仁義礼智信 を守りて、内心には 深く本願他力の信心を本とすべき >
ということを 言わなくてはならなかった人々でした。
すなわち、 前者は アカラサマに「仏法者・後世者と見ゆるように 振舞う」人々であり、
高声に念仏するなどして、 世に かなり目立っていた人々でした。
後者は 「仁義礼智信 を守」らない人々であり、「外相には 仏法を信ずる由を 人に見」せ
これを楯にして、彼らは 年貢など その地の住民として為すべきことを 蔑ろにしたのでした。
この事態は、北陸でも 彼を 大変悩まし、ついに 退去せねばならなかったものでしたが、
今 この河内に来ても 開口一番 親鸞の言をもって、これを 言わねばならないということは、
蓮如の念仏の唱導が この地においても 無視できない広がりをもっていた ということを
示しているのではないでしょうか?
( 実際、1,2の こうした不心得者がいたぐらいでは、公に 報恩講 参集を促す手紙に
これを主題にし、また こんなに激しい口調で述べることは ないはずです。)
又、「相伝もせざる聖教を わが身の字力をもて これを読みて、知らぬエセ法門を言いて」
と述べています。 これも 又 当地での 蓮如の影響力の大きさを 示している言葉でしょう。
すなわち これは、「わが身の字力をもて これを読」む人々がいたということで、
蓮如に 直接 会って その人格的な感化を受けることなく、書かれたものを 自分で読むほど
の関心を喚起された 多くの人々がいたということでしょう。
( 今日の状況は、 仏教書を手に取る人がいただけで もう感動的なことです。
蓮如のように これを低く評価して嘆くどころか ‘何と宿善厚い人なのだろう!’と、
この人を 褒め称え、これを縁として その人を大事に育て上げねばならない時代です。)
次の年の 正月27日の お手紙にも、
「 そもそも いにしえ・近年・この頃の間に 諸国在々所々において、ずいぶん 仏法者と
号して 法門を讃嘆し勧化geをいたす ともがらの中において、さらに 真実に わが心
当流の正義syougiに 基づかずと覚ゆるなり。 その故を 如何というに、
先ず かの心中に思うようは、 我は 仏法の根源を よく知り顔の体teiにて、しかも
誰に 相伝したる分もなくして、或は 縁の端・障子の外にて ただ自然と聞きとり法門の
分斉bunzaiをもて、真実に 仏法に その志しは浅くして、 われよりほかは 仏法の次第
を存知したる者なきように思いはんべり。
これによりて、たまたまも 当流の正義を かたの如く讃嘆せしむる人を見ては、あながちに
これを偏執す。 すなわち われ一人 よく知り顔の風情は、第一に 憍慢kyoumanの心に
あらずや。 かくの如きの心中をもて 諸方の門徒中を経廻して 聖教を読み、あまつさえ
私watakusiの儀をもて 本寺よりの使いと号して 人を諂い 虚言を構え 物を取るばかり
なり。 これらの人をば 何として よき仏法者 また聖教読みとは 言うべきや。
あさまし あさまし、嘆きても なお嘆くべきは ただ この一事なり。・・・ 」
と言っており、この「エセ法門」は、これ以降 繰り返し お手紙の主題となっていきます。
即ち、この河内では 北陸では問題とならなかった「エセ法門」という事態が生じてきたのです。
自発的に 聖教(親鸞の教え)を読む人々が出てきたのは、喜ぶべきことではないか?
と 一見 思われますが、 彼らの実際は
「 エセ法門を言いて 自他の門徒中を経回して 虚言を構え、結句 本寺よりの成敗と号して、
人を誑かし 物を取 」るという<利養>の者たちであり、また
「 われよりほかは 仏法の次第を存知したる者なきように思 」う<名聞>の者たちでした。
** 利養・・・「本寺よりの使いと号して 人を諂い 虚言を構え 物を取る」
名聞・・・「当流の正義を かたの如く讃嘆せしむる人を見ては、あながちに
これを偏執」し、「われ一人 よく知り顔の風情」の憍慢の者
即ち、新たに盛んとなった 蓮如の唱導する念仏に悪乗りして、これを わが名利の具とする
人々が出てきたのです。
ここに 蓮如は、今までのお手紙になかった 後世に大きな影響を与える言葉を使い始めます。
すなわち、「 宿善・無宿善 」 という言葉であります。
(つづく)
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