混沌の時代のなかで、真実の光を求めて

現代に生きる私の上に 仏法は何ができるかを 試そうと思い立ちました。//全ての原発を 即刻停止して、 別の生き方をしましょう。

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                                   2/2 ( 第8日目 )

9:00 ホテル、チェックアウト
  ラジギールから 北 約 15kmの所にある ナーランダー大学跡へ。

  この大学は、シャーリプトラ(舎利弗)の出身地・那羅陀(ナーラダ)村の地にあります。

   舎利弗は、裕福な バラモン の家に生まれ、隣村・拘利迦(コーリカ or コーリタ)村の目連と
   親友の仲で、2人は 王舎城に出て、六師外道の一人 サンジヤヤ・ベーラッティプッタに師事、
   後に 目連(神通第一)と共に、知恵第一と言われる程の 釈尊の有力な弟子となりました。
   舎利弗は、釈尊より早く この故郷の地で亡くなります。

       @ サーンチーの仏教遺跡

   その後、アショカ王が 彼の舎利を納めた ストゥーパ を建て、かつ僧院も建てたと
   伝えられます。
   この ストゥーパ は、時代と共に 段々 大きくなり、一際 高い建造物として、
   往時 ここは 大学の卒業を証した所だそうです。


  グプタ朝第4代クマーラグプタ1世( 位 415頃 - 55 )、 ナーランダ僧院を創設 (427) 。

   @ 前代 チャンドラグプタ 2世( 位 376頃 - 415頃 )の時、北西インド・マールワ と グジャラート の
    西クシャトラパを征服して 北インドを統一、グプタ朝全盛期を迎えます。 
    だんだん ヒンドゥー教が台頭し、 仏教は その独自性を喪失して 衰退し始めます。
    チャンドラグプタ 2世の代、東晋の法顕が この地を訪れます。
    ※ 法顕
     399年、中国仏教界に戒律が完備していないのを嘆き、律蔵を求めて 4人の僧と共に
     長安から天竺に向かって旅立つ。この時 法顕 64歳。
     仏法に厳格に従い、夏坐(雨期 3か月の坐禅修行)を怠らず、金は持たず、行く先々で
     喜捨を求めての旅。 敦煌に入ったのは1年後。同行の僧は 11人に増える。
     ゴビ、タクラマカンの大砂漠(沙河)越えは 過酷を極め、
     「 沙河中、多く 悪鬼熱風あり。遇えば 則 皆死す。一も全き者はなし。 上に飛鳥なく、
      下に走獣なし。遍望極目、度る処を求めんと欲して、則ち 擬する所を知るなし。ただ
      死人の枯骨を以て、標識となすのみ 」と。
     しかし、65歳の彼は これを 17 日で渡り切り、パミールを越え インドに入ったのは 6年後。
     さらに 6年かけて 王舎城などの仏跡を巡り、420年 海路で青州(山東省)上陸。
     通算 13年 4ヵ月。 11人は、途中 帰国しor現地に残留した者、死亡した者あって、
     帰国できたのは、80歳近い ただ法顕一人。
     持ち帰った経典は、仏駄跋陀(ブッダバツダラ)と『大般泥洹(ナイオン)経』六巻を訳出(418)
     して 涅槃宗成立の基を作り、又『摩訶僧祇律』40巻も佛陀跋陀羅が訳し、『五分律』は 
     仏駄什などが訳す。

    @ ヒンドゥー の影響を受けて、仏教でも 4,5 世紀以降 巡礼が盛んに行われるようになり、
     やがて 四大仏蹟( 仏誕の地 ルンビーニ、成道の地 ボードガヤー、初転法輪の地 サールナート、
     仏滅の地 クシナガラ )が 固定化する。 交通路の発展と共に、東南アジア 方面からも
     巡礼者があった。
     4世紀の スリランカ王 メーガヴァンナは、グプタ朝のサムドラグプタ王に使臣を出し、僧俗の巡礼者
     のための僧院を ボーダガヤーに建てる許可を求めて 認められている。
     ――― 我々が行く先々で タイ、ミャンマー、スリランカ、さらに ブータン や チベット などからの
     多くの巡礼者や僧に出遇ったのは、この頃から始まったことでした。 極東の日本では
     想像だにしなかったことが、ここ 南 アジア では 古くから行われていたのでした!
     因みに、タイ、ミャンマー、スリランカは、北伝の大乗仏教ではなく、上座部仏教 ie.最近
     わが国でも流行の テーラワーダ仏教の徒です。

 
  最盛期には 各国からの留学生を含む 学生1万余人、学匠2千人を擁する広壮なもので、
  僧院 11ヶ所、寺 6ヶ所であったと言います。

   ヴァルダナ朝ハルシャ王(位:606 - 47 )の7世紀、玄奘( 602? - 64 )が留学した時には、
  高い煉瓦塀に囲まれた大学構内には 9 階建ての建物、500万(?)冊の蔵書をもつ図書館
  があり、大乗仏教が研究の中心だったが、他の諸派の仏教教義も研究され、ヴェーダ、
  ウパニシャッドを始め因明(論理)、声明(音楽)、医方明(医学)、冶金、数、書画、呪術など
  の権威者が集い、毎日 百余ヶ所で講座が開かれ、仏典の深い意を論ずるのでなければ、
  誰も相手にしないほど 好学の気風が漲っていたと言います。
   当時の学長は、唯識学派の正法蔵を敬称される シーラバドラ(戒賢)で、玄奘は この学匠
  に就いて、636(35)〜41(40)の 5ヶ年間、ヨーガ論を始め、中論、百論、純正理論の他、
  サンスクリットの書を悉く学び、後に 学長代理まで勤めたそうです。


  玄奘が長安に帰って 26年目の671年、義浄(635 - 713)が 南海航路で留学し、
  25年間に 30余国を遊歴して 695年 海路帰国。
  彼が、ナーランダー を訪れた時には、すでに ここは 密教の根本道場となっていました。

     @ 716 ナーランダー 寺の善無畏(637 - 735)、長安に来る
            ■ 印度仏教史
     @ 「大日経」は 7世紀中期に西南 インドで、「金剛頂経」は 大日経の後を受け、
      南 インド・キストナ 河流域で成立したとされる。
      8世紀後半、大日経系の密教は イスラ-ムの西北・西南インドへの侵入で、伝統佛教と
      伴に衰退していく。
      750 年頃、南インド の金剛頂経系の密教は、庇護者の パッラヴァ 朝が シヴァ神を信仰
      するチョーラ 朝に滅ぼされ、北上して オリッサ 地方に逃れ、ベンガル の パーラ 朝に保護され、
      その後 4世紀以上に亘り継承された。
      パーラ朝 ダルマパーラ王による ヴィクラマシラー 僧院を始め、ナーランダー僧院、オーダンダプリー僧院、
      ソーマプリー僧院などが密教の根本道場となった。
      8世紀以後、金剛頂経系は ヨーガ・タントラ の密教として栄え、後期の密教が展開
      される。その後 この密教は、方便・父 タントラ と般若・母 タントラ とに分かれ、父 タントラ は 
      更に 二流に分かれた。 


  1193年 アイバク靡下の将軍 バクティヤール・ハルジー 率いる トルコ・イスラム 人の侵略によって
  大学は焼打ちにあい 建物は炎上、経典・書物は 6カ月以上も燃え続けたと言います。
  この後 インド仏教は 急速に衰退しました。
  1916年発掘が始まるまで 土中に埋没していたが、やがて 世界最古の大学の姿の一端を 
  723年ぶりに現しました。今も 全体の1/4しか発掘されていないとのことです。
  発掘された大学の建物の基礎部分は、イスラム 軍団が放った火炎で 黒く焼け焦げた煉瓦も
  遺っているが、その上に復元された構築物は、新しい煉瓦で積み重ねられています。

  この遺跡は、5世紀 7世紀 9世紀と壊されては建て直され、その度に 古い僧院の上に
  新しいものが建てられたため、僧院跡も三段構造になっている。最初の2回は大地震で、
  そして 最後の一回は イスラムによって破壊されたそうです。



 ■ 第4回東アジア首脳会議(EAS)におけるナーランダ大学再興構想に関する共同プレス・ステートメント
                         (仮訳) 外務省 平成21年10月25日
                              

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