過去の投稿日別表示
[ リスト | 詳細 ]
|
我々は、これ以上 女川原発に近づくことを諦めて 道を引き返し、女川町の中心地に急いだ。
日も だいぶん 西に傾いてきたが、まだ 今日の宿は決まっていなかった。
牡鹿半島の付け根に 太平洋に面して 日本有数の港町・女川の街があるはずだった。
だが、我々の前には、ひっくり返ったり ボロボロになった コンクリートの建物が 幾つかあるだけ
で、女川港の全域、そして ずっと谷の奥まで 建物の土台だけを残して むき出しの大地があった。
なんだ、 これは!
女川町の空撮 3月19日撮影
女川町立病院(海抜20m?超え) 3月20日
女川町 (女川街道 R398) 〜 町立病院 2011/04/04
女川町立病院から 鷲神浜側の望む
女川町立病院から 第二小学校へ
女川町立病院の周辺地図-Yahoo!ロコ
http://www.nikkei.com/content/pic/20110405/96958A9C93819499E2E7E2E3E78DE2E7E2E6E0E2E3E3E2E2E2E2E2E2-DSXZZO2619528005042011000000-PN1-6.jpg
ピロティ部分には、瓦礫が積み上がったまま http://www.nikkei.com/content/pic/20110405/96958A9C93819499E2E7E2E3E78DE2E7E2E6E0E2E3E3E2E2E2E2E2E2-DSXZZO2619529005042011000000-PN1-6.jpg
病院の1階は津波で損傷したため、一般の人は
立ち入り禁止となっていた 津波映像(津波の高さ:17.6m 〜早稲田大学の調査 )
: 町立病院の対岸から
女川町1 津波被害の境目 3月31日
女川高校付近から峠を越え、女川港まで長い坂を下りながら撮影
かなりの距離・勾配の坂だが、海からずっと離れた所まで津波が駆け上った様子が
伺える。
女川町立病院・女川第二小学校・牡鹿半島
※ 女川町立病院公設民営に 三陸河北新報 2011年8月3日
女川町立病院(斎藤充院長)は10月1日、公設民営に移行すると同時に、一般病床数
を大幅に削減し、介護施設と一体的に運営する「女川町地域医療センター」に再編される。
2日の町議会臨時会で、安住宣孝町長が明らかにした。
女川原発に反対して40年‐高野博女川町議に聞く
2011年4月17日、避難所女川総合運動公園にて
空間放射線線量率の測定結果 女川町
女川町 年齢階級別人口構成 昭和40年( 18,080 人)と平成22年( 10,051人)
2012/6/30現在: 8,189 人 (世帯数: 3,409 )
被害状況 (2012/06/08現在)
・ 直接死; 577人 、関連死: 18人、 行方不明: 327人
・ 家屋全壊:2923棟、 半壊:347棟、 一部損壊:662棟
非住宅被害: 1624棟 火災:5件
まだ瓦礫が 幾分 残っている女川港の周りを ゆっくり 自動車で廻る。 舗装道路は津波前の
ものだろうか、 スピードを出しては走れない。 海の水は、港の岸とすれすれのところにある。
瓦礫の仮置き場は、街はずれに高い塀で囲われていた。
もう夕方になったので、今日の宿を見つけなくてはならない。 これほどの被害を受けた女川で
宿を見つけるということは思いもよらないことで、 我々は 女川から引き返すことにした。
高台に 立派な建物があった。あれは何だろうと思いながら進むと、右手に自動販売機と精米機
があり、その傍らの坂道の上に 津波を免れた家々が見えた。
ここで、しばらく休憩することにする。 Aは 車の中で 携帯で しきりと宿を探していた。
Bは 坂道を上がって行って、津波を免れたらしい家の人に いろいろ話を聞いていた。
私は、その途中に 小さな木造の店の並びを見つけた。 そこの小物を売る店の若い店員に
当時の様子を聞いた。 ‘ どこまで 水が来たのか? ’ 彼女は 今日の店仕舞いをしていたが、
右上の方を指さし、‘ あの家の石垣の上まで 波がきました。 町全体の様子が見られるのは、
町立医療センター(町立病院)に行ってみられるといいですよ。 ’と 教えてくれた。
この店の並びには コンテナを改造した 「うどん屋」や「飲み屋」があった。
車に帰ると、 Aが ‘ 宿が なかなか決まらない ’ と言う。 どこも満員のようだ。
‘ 松島のホテルでもいいか? ちょっと高いが・・・ ’ ‘ 良いだろう。 申し込みしてみてくれ ’
‘ OK、 受け付けてくれた。 ’
Bが帰ってきた。 ‘ 女川に民宿があるそうだ ’と。 ‘ もう、決めてしまったよ ’
私:‘ 津波に呑まれた女川のことがよく分かる所があるそうだ。 ちょっと引き返してみよう。 ’
我々は、あの高台の立派な建物への道を上がって行った。
玄関の中に入ると 傍に受付があった。 若い事務員が出てきて、話をしてくれた。
‘ 波は ここまで来たんですよ ’ と、玄関を出て すぐの大きな柱を指さしながら言った。
2mほどの所に、津波が到達した地点の印をしていた。
‘ 当時、津波から逃げてきた人たちが、あの駐車場の向こうで 津波を見ていたんですが、波が
病院の裏手から回り込んで一階を突き抜けて、人々をさらっていったんです。車の中にいた人は
車ごと 波に呑まれてしまったんです。 二階から 早く上に上がれ と叫んだそうですが、車の
中で 音楽を聴いていたのか、まったく聞こえなかったようです。 ’
彼は、牡鹿半島で罹災し、しばらく避難生活をした後、人手が足りないということで、この病院で
働くようになった。 当時は、寒くて 薬も 食料もなく、低体温症で 何人もなくなったという。
‘ 下の街には住んでもいいことになりましたが、誰も住もうという人がいません。山を切り崩して
高台移転の町の計画がありますが、中々進んでいません。 仮設生活が ずっと続いています。’
しかし、牡鹿半島の方では 高台移転が進捗しているという。 ‘ 人口が少ないからでしょう ’
と、彼は言っていたが・・・?
外にいると 寒くなってきた。 我々は いとまを告げて、病院を後にした。
闇も迫ってきたし、これから 松島の宿まで帰らなくてはならない。 お腹も減ってきたので、
先の コンテナを改造した「うどん屋」で 食事をして行こうということになった。
もう、だいぶ 闇が迫っていた。 精米機の前の空き地に車を入れると、前後に この精米機を
使うため 車が入っては出て行った。 風が冷たく 服を着込んで 車を後にした。
「うどん屋」は すでに店を閉めており、前の「飲み屋」で食事ができるとのことで、こちらに入った。 Aは 酒を頼んだ。 Bと私は それぞれ食事を頼む。 大きな器で 量もたくさん盛られていた。
店の厨房の人達や カウンター の女性は、被災者だった。 彼らは 寡黙で 淡々と仕事をしていた。
近所の人や ボランティアの若い男女が、狭い店内で それぞれに大きな声で喋っていた。
いつの間にか、ストーブがついていた。
(つづく)
|
|
6月下旬の海洋汚染(5)
岩手県
*:検出限界未満 単位: ㏃/kg
セシウム合計 Cs134 Cs137
|
|
6月下旬の海洋汚染(4)
岩手県
*:検出限界未満 単位: ㏃/kg
セシウム合計 Cs134 Cs137
|
|
6月下旬の海洋汚染(3)
岩手県
*:検出限界未満 単位: ㏃/kg
セシウム合計 Cs134 Cs137
|




